*17
夜明けとともに目が覚める。身を起こそうとするが、リズが載っているのに気づいて、ローディは動きを止めた。幼子の肩を持って揺さぶる。
「おーい、朝だ、起きろ」
リズは首を横に振って抵抗した。ローディはリズの肩を持って、無理やり起こした。自分も上半身を起こす。リズは顔をくしゃくしゃに歪めていた。まだ眠いらしい。手を放すと、とたんにローディに体重を預けようとする。
「遅くまで起きていたのだ、まだ眠らせておいてよかろう」
ガダックの声に驚いて、ローディは思わず声を上げた。
「うわ、さすがはジジイだ、朝早いな」
ガダックは、旅の支度を整えてしまっている。目を細め、ふふ、と低く声を立てて笑った。
「朝食も済ませているぞ。おまえも、行って食べてくるといい」
「こいつの飯は?」
「どちらかが買い出しを請け負っているうちに食べさせればいいだろう」
「はあ、なるほど」
ローディはリズを抱えてベッドに降ろした。立って、体の筋を軽く伸ばす。それから彼は食堂へと向かった。
手早く食事を済ませて戻ると、リズは起きていた。ローディの顔を見るなり、ぱっと笑顔を浮かべる。ローディはなんとなく居心地が悪いように思えて、視線を逸らした。ガダックがリズの頭を撫でた。
「さて、リズもなにか食べねばならんな」
うん、と元気良く頷くリズ。ガダックはローディに向いた。
「戻ったところで悪いが、おまえがリズを連れていてくれ」
「なんでだよ?」
ローディが思わず早口に問い返すと、ガダックは珍しく意地の悪い笑みを浮かべた。
「おまえさんに買い出しをさせても、ろくな旅支度ができそうにないからな。干し肉さえ手元に残せないのだから」
ローディは喉の奥でぐっと唸った。この老人に心許すこととなった最初のきっかけは、その手にあった肉の塊だったのだから、文句は言えない。用意の周到さや計画性の面から見れば、ローディは確かに欠落だらけである。
ガダックは旅支度を済ませて部屋の入口に揃えた。武器である剣だけは腰に佩いている。一度破壊された街とはいえ、今後も何事もないとは限らない。
「じいじ、いってらっしゃい」
リズがガダックの服の裾を引くと、老人は至極嬉しそうに微笑んだ。
「ああ、行ってくるよ」
そして老人は、ローディの肩を、強めに叩いた。
「では、少し長くかかるかも知れんが、頼むぞ」
「へいへい。じいさんこそ、妙なことに巻き込まれんなよ」
ローディは肩をすくめると、懐から財布を出して老人に預けた。
ローディはリズを伴って再び食堂へ降りた。リズは自分で席を選んで座ると、手を上げた。人はそれなりに多いが、昨夜ほどではない。店員がすぐに気づいて、注文をとった。とはいえ、パンと煮込み料理くらいしか頼めるものはないのだが。
ローディは酒を頼もうか迷ったが、やめることにした。代わりに、果汁のジュースを二杯頼んだ。ローディの故郷である北では、果物は珍しいものだったから、景気づけには十分だろうとローディは思った。
黄色いジュースが木のコップに入れられて運ばれてくると、リズはそれを両手で持って、嬉しそうに飲み始めた。子供は甘いのが好きなものだ、とローディは信じて疑わなかったので、その反応に満足した。
リズは昨夜同様、ゆっくり味わいながら食事をした。ローディも、急かす気はなかった。ガダックが戻ってくるまでにはだいぶ時間を要するだろう。買い物がすんなり済むとは、あまり考えていない。露店の主人は癖者ばかりだ。ふっかけられたり、釣銭を誤魔化されたり、無用なものを買わされそうになったり、ローディ自身が経験したことから考えても、あの老人が手こずることは必須だろう。だからこそガダックも出かけ際に、あのようなことを言ったに違いない。そもそも、死者から身ぐるみをはがすような真似をしないガダックのことである。買い物で厄介な目に遭遇した数は、ローディの比ではないはずだ。そこまで至ったところで、彼は老人のことをあれこれ考えるのが、急に馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「なあ、おい、じいさんはいつ戻ると思う?」
リズは顔を上げ、小首を傾げた。
「んーと……お昼?」
「さすがに、そこまではかからねえだろ」
言ってからローディは、たぶん、と付け加えた。リズは心配するような顔をした。ローディはリズの頭に手を置いて、揺らすように乱暴に撫でた。
「大丈夫だ」
その時、店の外がにわかに騒がしくなった。〈狩人〉、武器、戦い、そうした不穏な単語が耳に触れる。リズが表情をひきつらせた。ローディは横目で外を伺いながら、言った。
「よーしよし、そのまま食い続けろ。次にいつ、まともなメシが食えるか、わかんねえからな」
リズは素直に頷いて料理を口に運んだが、もはや味を感じている暇もないらしい。砂でも噛んでいるかのような顔をしている。義務的に口を動かしているだけであることが一目でわかった。それを見て、ローディは苦々しい笑みを浮かべた。騒がないだけ賢いとは言えるが、やはりリズはまだ幼い。
ローディは腰に手をやった。小ぶりの手斧とナイフは持っている。しかし、それだけだ。野次馬根性を出して巻き込まれに行くのは得策ではない。わかってはいるものの、つい腰が浮きそうになる。
ずず、と音がした。リズが煮込み料理の皿に口をつけて、最後の汁まですすったところだった。リズは袖口で顔を拭うと、言った。
「じいじ、ひとり。心配」
怯えの色はあるものの、その口調はきっぱりとしていた。ローディは歯を見せてにやりと笑った。
「迎えにでも行くか?」
リズは少しの間、迷うような様子を見せたが、やがてこくりと頷いた。ローディは笑みを浮かべたままで頷きを返してやると、そうと決まれば、とテーブルに食事代を置いて立ち上がった。ガダックを探すのであれば、混乱が起きる前に見つけなければならない。
一度部屋に戻り、とりあえず武装だけ整える。リズは落ち着かない様子で窓から外を眺めている。ローディもその後ろに立って、様子を確かめた。同じように窓から下を見ている人々が多い。
ローディの、窓枠を掴む手に力が込められた。リズがこちらを見上げてくるのを、ローディは手で押さえた。
「こりゃあ……思ったよりやべえぞ」
旗を持った三人の騎馬兵が往来を足早に進んでいる。その印は、〈白鳥の嘴〉のものだ。
「もうじき〈狩人〉のギムベイン隊がここを襲撃しにくる!」
「我らを受け入れるならば、助力しよう。共に戦おう!」
ギムベイン隊、とはローディも聞いたことのある名だった。南のワーニル隊に所属する分隊の中でも、特別に独立した権限を与えられている一隊だ。それは隊長であるギムベイン以下、全ての兵士たちが、残虐な行為をいたく好む者たちであり、〈狩人〉であることを心底から誇りにしているからだった。ローディは舌打ちした。
「嗜虐趣味の変態どもに白鳥かよ、厄介な取り合わせもあったもんだな」
リズがローディを見上げる。彼は彼女を見下ろした。このまま宿にいれば、戦闘に巻き込まれることは間違いない。しかし、ガダックはまだ戻っていない。それに、武器を持って外に出れば、〈白鳥の嘴〉かギムベイン隊か、どちらにぶつかっても厄介なことになる。ローディ一人、リズも伴ってでは、とても切り抜けることなどできない。
「だー、ちくしょう!」
思わず声を上げる。リズがびくりと大きく身を震わせた。ローディは渋面を浮かべる。
「ガダックならどうするかな?」
リズもうつむいて考え込み始めた。答えが出たのか、ローディの服の裾をつんと引っ張り、彼を見つめる。
「じいじ、ここ帰ってくる。待つ」
それで決まりだった。ただ漫然と待っているというのはローディの性に合わない。彼はガダックの荷物から遺骨の箱を取り出して、少しの硬貨と干し肉とともに、厳重に布でくるんだ。リズにそれを抱えさせ、水袋をひっかけてから、斜めがけにくくりつける。リズは自分に荷物が与えられた意味を察して、布の上から箱を撫でた。
「重いだろうが、捨てるなよ」
ローディはリズの肩に手を置いて、注意深く窓の外を覗いた。露天商の大半はすでに店をたたみ、逃げる用意を整えてしまっていた。申し訳程度に武装して通りに出ている人々、逃げるための荷物を抱えている人々で、往来はあふれかえっている。
と、ローディの目に、呆れるほど肉感的な美女の姿が飛び込んできた。
その顔は、見間違えようもない。美女は武装しているが、男を虜にするためなのか、豊満な体を主張することは忘れていなかった。胸の谷間は強調され、肌はできる限り露出するようにしてある。遠目で見ても顔立ちがはっきりわかるということは、化粧も濃くしているに違いない。町や村の娘たちには到底かなわないことを、彼女は全て実行して見せているようだった。豊かな赤毛は複雑に編みこまれ、髪飾りが挿してある。ローディは歯を食いしばった。
「イリーナ……あの女!」
リズが、いたい、と小さな声を上げた。どうやら、その小さな肩を掴む手にも、不用意に力を入てしまったらしい。ローディは焦ったが、リズは案じるようにローディを見上げてきた。ローディは無理やり口の端を上げてみせた。リズはまだ不安げにしていたが、窓の外に視線を戻した。
美女は〈白鳥の嘴〉の旗を持ち、風になびかせながら、凛とした声を上げている。背筋を伸ばして胸を張り、恐怖などみじんもなく、希望と闘志にあふれた笑顔さえ見せている。
「さあ武器をお取りなさい。戦うのです!」
いつの間にか〈白鳥の嘴〉の旗が幾本も並び立っている。イリーナの連れてきた部下たちであろうが、呼応する声が上がる。それに刺激された者は、少なくないらしい。少しずつ、同調するように、声が上がり始める。ローディの背筋に悪寒が走った。
「同じ手を……」
北の奥地の寒村で〈白鳥の嘴〉が老若男女の心を掌握した、その光景がローディの脳裏によみがえり、現状と重なって映った。
「見て!」
リズが指差す方を見ると、〈狩人〉の馬車が何台も走ってくるのが見えた。ただの馬車ではない。装甲で固められ銃眼を開けた戦車であり、人々を捕えれば牢屋に変わる、堅牢な荷車である。引く馬も、農村で犂を引くものとは全く違う体躯をしている。しなやかに引きしまった巨体は、恐ろしい怪物に見えるほどだ。
人々が色めき立った。しかしイリーナは冷静に旗を掲げ、声を上げた。
「さあ、戦うのです、自由のために、尊い自らの命を守るために!」
〈白鳥の嘴〉の者たちが、おお、と声を上げ、武器を振り上げた。その姿にあてられてか、街の者たちも武器をとり、自分たちも声を上げた。それはまさに、鬨の声であった。
銃声。しかし、これは威嚇だ。〈狩人〉たちは、無用な殺しはしない。殺せばそれだけ獲物が減る。反して、〈白鳥の嘴〉はためらわず〈狩人〉に狙いを定める。ローディは毒づいた。
「馬鹿どもが。抵抗すりゃあ、〈狩人〉連中だって遠慮なく殺しにくるってのに」
ローディはリズの顔を見て、彼女と出会った時のことを思い起こした。〈白鳥の嘴〉は、死を厭わない。自分の死も、他者の死も。全てを「尊い犠牲」で片づける。それで済むと思っている。疑いもしない。美化されすぎた死を、彼らは持っている。
「じいじ、じいじ、どこ?」
リズは胸にある箱を手で押さえつつ、窓から身を乗り出した。ローディは慌ててそれを引っ込めさせた。
「流れ弾くっちまうぞ!」
自分の腕の中にしっかり収める。そうしてから、彼も首を伸ばし、注意深く窓の下を観察した。確かに、老人が戻ってくる気配はない。
「くそ、まさか、どっかでくたばってねえよな?」
リズがローディの腕にしがみついたまま、叫んだ。
「じいじ、じいじ!」
その絶叫が引き寄せたのか、イリーナの首が動いた。ローディと彼女の視線が、ぶつかった。
イリーナは驚きに目を見開いた。その表情のままで銃口を向けてくる。ローディはリズの頭を押さえ、窓から離れた。直後、窓枠に弾が当たる。
「やべえ」
リズを抱え込んだまま、ローディは呟いた。リズが震えた声で謝る。
「ごめんなさい」
ローディはそれに答える余裕もなかった。ただ部屋を素早く見回して、必要最低限の荷物だけを選び出した。武装は機能するもの全て。衣服や毛布は捨てる。水袋と食料は手あたり次第、自分とリズにくくりつける。手早くそれらを済ませると、ローディはリズの手を引いて階下へ降りた。
宿の主人はいない。食堂には戦わない人々が避難してきて、テーブルの下に隠れていた。と思うと、火事場泥棒をもくろんで、辺りを漁り回っている者もいる。ローディは勝手に帳場の裏に入った。こういう建物には勝手口が設けてあるものだ。イリーナと正面衝突するのだけは避けたかった。
奥に行くと、裏口はすぐに見つかった。細く開いているところを見ると、誰かが逃げていくか、逃げ込んでくるかしたのだろう。
「矛盾してら」
ここよりも安全な場所を求めるか、逃げ回る危険を忌避して隠れやり過ごすのか、選ぶのはそれぞれである。ローディはリズを見やった。ここに隠しておくという手もある。しかし、それが安全だとは限らない。第一、イリーナにはもう見つかっている。まさか、洗脳するにもってこいの幼いリズを殺すことは有り得ないだろうが。
「いや……あの女は」
言葉をこぼす。と、リズが、彼を握る手に力を込めた。
「いっしょ、いる」
「俺と一緒にいるほうが、たぶん危ねえぞ」
ローディは迷いを口にするが、リズは遺骨の箱に手を添え、首を横に振った。その表情は固い。これ以上は何を言っても、幼子の気持ちを変えることはできないだろう。ローディはそう判断した。
裏口から外を伺う。まだ銃撃戦の段階だ。建物の壁や扉にクロスボウの矢が刺さり、銃弾がめり込んでいるが、その数もそう多くない。今ならまだ逃げられる。これが近接戦闘に発展すると、危険は一層増す。ぐずぐずしてはいられない。いずれ弾や火薬などがなくなれば、両者とも突撃せざるを得ないのだ。
ローディは弾や矢の飛ぶ方向をよく観察した。自分は武装しているので、〈狩人〉から撃たれる危険性は十分ある。逆に〈狩人〉は一目でそれとわかる装いをしているので、人々から誤解されて攻撃される可能性は低いだろう。とはいえその推測も、今この状況となっては心もとない。〈狩人〉たちの号令と、人々の怒声とが、入り混ざって聞こえてくる。
リズを自分の体で隠すようにして、ローディは宿屋を出た。幸い、こちらに向いている銃口はないらしい。それでも時に、思わぬところから銃声が聞こえ、首をすくめた。一度は廃墟であったとはいえ、市街戦である。死角が山ほどあって、いくら注意しても及ばない。周りは敵だらけである。この状況から逃れるすべは、この街から脱出すること以外にないだろう。
銃声が少なくなってきた。ひときわ大きい鬨の声が、大通りの方面から聞こえてくる。接近戦が始まったのだ。
「本格的にやばいことになってきやがった」
ローディは斧を右手に握った。左手ではリズを庇うようにしたまま、建物にはりつくようにして裏通りを行く。瓦礫で塞がっている道もあり、何度か道を変えるうちに、ローディは今自分がどこにいるのかわからなくなってきていた。大通りの戦闘音と太陽の位置から、おおまかな位置を割り出すしかない。それでも熟考している場合ではないので、自分の計算が正しいという自信もなかった。
角を曲がった時、二人は〈狩人〉の小隊と対面した。瞬間、ローディは、終わった、と思った。相手は、司令官の証であるマントを羽織った男だ。芋のようなでこぼこしたひげ面の、小太りの中年である。他の誰でもない、ギムベイン隊長に違いなかった。彼は自分で反逆者たちに手を下すべく、本隊を囮に使って自ら敵陣の横手へと回り込もうとしていたのだ。
リズが喉の奥で小さく悲鳴を上げた。ギムベインが、にやりと不気味な笑みを浮かべた。
「ほほう、いい声で鳴く子だ」
ローディはリズを左半身で庇いながら、右の手斧を構えた。ギムベインはしかし、動じない。嘲笑を浮かべてローディを上から下まで見聞する。
「ふん、よく見れば、若造とも言えんな。その子供は、慰みの道具か?」
ローディは頬の筋がきしむのを感じつつ、口の端をなんとか吊りあげた。
「いやまさか、俺の娘ですよ」
リズの肩がぴくりと動いた。ギムベインはローディとリズの顔を、わざとらしいほどまじまじと眺めた。
「嘘をつくものじゃないぞ、とてもじゃないがね、妻子のある男には見えない。第一、その子供、きさまにちっとも似ていないではないか」
怯えきった顔のリズを、ギムベインは舐めるように見つめた。
「どうだね、その子供を譲れば、今は見逃してやってもよいぞ」
リズがひっと息を呑んだ。身を強張らせ、ローディの服の裾をしっかりと握り、顔をうずめた。首を横に振る。ローディはそれを見ずとも感じながら、目はギムベインに据えて言った。
「こんなガキを手に入れて、どうしようってんです?」
「なに、楽しむ方法はいろいろとあるぞ」
言いつつ、ギムベインは片手を上げた。控えていた部下が剣を抜き、構えた。
「なんなら、今ここで、少しばかり披露してもよいぞ」
それとも、と言って唇を舐め、彼は続けた。
「差し出すなら、おこぼれにあずからせてやってもよい。わたしはこれでも、懐の大きさを部下に慕われていてね」
「それを言うなら深さでしょうよ、閣下?」
ローディは言い返し、ついでに、と付け加えた。
「その嗜虐趣味も、尊敬の的ってことですかね? だとしたら、よくもそんな悪趣味なお仲間ばっかり集めたもんです」
まずいまずいと思いながらも、言葉は滑らかに転がり出てくる。止めようがなかった。
ギムベインの顔色が変わった。部下たちも色めき立った。
「ほっほう、これほど死に急ぎたい男を見たのは、実に久々だ」
彼もまた腰の剣を抜いた。見事な装飾が施されているが、刃はこれ以上ないくらいに鍛え上げられ、砥がれている。決して飾りの剣ではない。
小隊の人数はギムベインも含めて七人である。野盗や〈狩人〉の下っ端ならば何とでもできる数であるが、ここにいるのは精鋭兵だ。リズを抱えて、限られた武器しかない状況では、分が悪すぎる。
ギムベインは、今度はリズに向けて、猫なで声を出した。
「どうだね、このわたしについてくれば、服も食べ物もやろう。お菓子もつけようか。そうだ、鳥なんか好きかね? 籠に入った、きれいなのがいる。お嬢ちゃんにも見せたいものだなあ」
そう言うギムベインの表情は至極優しげである。もし何も知らない者が見れば、疑いなく善人だと信じただろう。それほどまでに違和感がない。
「お嬢ちゃんが来てくれれば、おじさんたちは喧嘩しないですむんだよ」
リズの肩が、またぴくりと動いた。ローディは咄嗟に怒鳴った。
「耳貸すな!」
まるでそれを遮るように、ギムベインが続ける。
「親はどうしたね? おお可哀そうに、こんな男に連れ回されてなあ。どれ、このギムベインが親を探してやろう」
親、とリズの口から言葉がこぼれた。ギムベインの笑みに一瞬、粘つく影がよぎった。すぐにそれを消し、彼は笑みを深くする。
「そうだとも、かわいいお嬢ちゃんの願いは、なんでも叶えてあげようじゃないか」
リズの視線がギムベインへ向いた。〈狩人〉の隊長は、その肩書きにそぐわないほど親しげで、穏やかな笑顔を見せている。恐怖におののく子供であれば、すがらずにはいられないだろう。余裕のある態度からは、包容力さえ感じられる。だが、その目の奥に、巧妙に悪意を潜ませている。ローディにはそれがわかる。リズはどうだ、と幼子を向けば、彼女の瞳は、困惑したように揺れていた。
ローディは愕然とした。どれほど賢くても、やはり子供なのか。誘惑に目がくらんでいるのか、恐怖に判断が鈍っているのか。なぜ今、相手の言葉に耳を貸しているのか。それがひどくローディを苛立たせた。
「おい、おいチビ」
呼びかける。幼子は顔を上げない。ローディの腹に、苛立ちとは違う熱いものが湧きあがった。
「おいリズ!」
呼ぶ。リズが顔を上げ、驚いたように目を見開いた。ローディをじっと見つめる。そこへまた、ギムベインの誘い。
「そんな、乱暴で下品な男のところへなんか、いるものじゃあないよ」
ギムベインの笑みに、またも暗く粘ついたものが現れる。リズの目は、じっとまっすぐにローディを見上げていた。誘惑が幼子を振り向かせようとする。
「さあお嬢ちゃん、わたしといっしょにおいで」
リズの視線が、ギムベインへ戻る。彼女は、はっきりと叫んだ。
「パパだもん!」
ギムベインも、その部下たちも、怖れを知らぬ幼子の声に、呆気にとられた。しかし誰よりも、ローディが、その言葉に驚いていた。
「パパだもん。パパとじいじ、いっしょに帰るんだもん!」
片手で遺骨の箱をしっかりと抱きしめ、もう片手でローディにしっかりとしがみついて、リズは絶叫した。
白刃の一閃、倒れる男、広がる血。ギムベインの後ろに控えていた〈狩人〉の一人が、何者かの奇襲を受けたのだ。
真っ先に、リズが喜びの声を上げた。
「じいじ!」
ガダックは身をひるがえし、続けざま剣をふるった。さすがに次の一太刀は受け止められたが、ガダックは素早く切り替えて剣を引き、敵の刃を受け流しつつ走って、リズとローディの前に立った。腰を落とし、切っ先を前に向けて構える。その慣れた動作、玄人の物腰が、〈狩人〉たちを圧倒した。怯む彼らに対して、ガダックは乾いた声を吐いた。
「虐げる者らよ、己が受ける痛みのことは、露ほども思い描きはしなかったのか?」
ギムベインが歯をむいて、恐ろしげな笑みを浮かべた。
「ほほう、これはまた……その顔はもしや、西の反逆者の父親か?」
「左様。我が息子の死、貴様らには程よい余興であったと聞き及ぶ」
ガダックは淡々と返す。相手の言葉に心乱す様子は見せない。ギムベインはガダックの顔をまじまじと眺めた。
「ほっほう、なるほど、その顔を見ていると、確かにあの血気盛んな若者を思い出す。あれは最期まで面白く鳴いてくれた。処分方法に不満を漏らす者もいたが、わたしは満足したよ。あれほど活きの良いのは、そうそう見つからないからな」
「我が息子は力なく、愚かな未熟者であった。だが、決して卑劣な真似はしなかった。最期の時まで抵抗の意志を貫いた、そのことだけをもって、私は息子を誇ろう」
激昂することも、悲嘆にくれることもない。その背はただ静かだった。子の死の事実を見据え続けた親の、諦観の背。だからこそ彼は、これほどまでに乾いた声が出せるのだろう。
ローディは奥歯を噛みしめた。唐突に激しい感情が込み上げてきた。胸が重くなり、息苦しい。その感情の正体はわからない。しかしそれを自問する間はない。彼はリズを抱き上げた。
「おい、逃げるぞ!」
言って、ローディは駆けだした。ガダックは剣を構えて後ずさりながら、ギムベインに言葉を吐いた。
「部下どもが〈白鳥の嘴〉の思わぬ勢力に混乱していたようだ。貴殿もここで小物を追っている場合ではなかろうよ」
ギムベインは頬と眉根をひくりと動かしたが、嫌味な笑顔は崩さなかった。
「確かに。きさまらは運が良かったと見えるな。しかし貴重な部下を失くした償いは、いつかしてもらうことになるだろう」
その声を後ろに聞きながら、ローディは走って建物の死角に入った。すぐ後ろからガダックも走り込んできた。追い討ちの銃声が数発聞こえたが、すぐに止んだ。
二人の男はひた走った。途中、すぐそばを弾や矢がかすめたこともあったが、足を止めることはなかった。強い風が背中に吹き当たった。それに追い立てられるかのように、走り続けた。そして奇跡的なことに、一発の弾が当たることもなく、街から脱出することに成功したのである。