ムエタイ体験
「彼はルンピニーの元チャンピオンで、400戦近い戦歴の生ける伝説だから」
ジム会長の藤本に同行してきたタイのトレーナーである「マンチャイ」について春崎須美がそんな説明をしてくれた。
身長は俺より少し低く170cmくらいだろうか。一見華奢にみえるが胸や肩の筋肉の異様な「盛り上がり」から素人でも「ああ、この人格闘家だ」と分かるレベルだ。
「あの筋肉は、ウェイトトレーニングでつけたものじゃないわね」
そのコメントは、いかにもフィジカルトレーナーでもあるウィリス父の愛娘らしいのだが父がやるのとそっくりにマンチャイの頭の先から足の先まで、まるで「スキャン」でもするかごとくに凝視するのは如何なものかと。その視線は露骨に「観察してます」という鋭さと、露骨さがあったので見ている俺の方が慌てた。
「おい、女子高生が成人男性の身体をそうジロジロ見るもんじゃないぞ?」
俺が苦笑まじりに指摘した。すると未惟奈は鋭かった視線を俺に向け、その目をまんまるに見開いて「え?なんで?」とばかりに一瞬首を傾げた。
それからすぐにニヤリとばかりに口角を上げ、口を開いた。
「あれ?もしかして嫉妬?」
その表情が絵にかいたような「魔性」のそれだったので、俺は迂闊にも狼狽えてしまった。
「ばっか!そんなんじゃねえよ。いつもの失礼な態度を、彼氏として指摘してやったんだよ!」
「えー?何として?」
「だから彼氏としてしてだって言ってんだろ」
「彼氏としてだって……フフフ」
未惟奈はいたずらっ子に用にコロコロと笑った。
今の、絶対、分かってて言わせただろ?……まったく。
俺はさっきのスパーリングよりも何倍も汗をかいてしまった。
「はい、そこのバカップルさん、イチャイチャはそれぐらいにして」
すでに俺と未惟奈のこんなやり取りに見慣れてしまった春崎は、ジト目の呆れ顔で仲裁に入ってきた。
またトレーナーの「マンチャイ」も微笑を湛えて俺たちの「バカップル」ぶりを見守ていた。俺はマンチャイのそんな表情を見て恥ずかしさで顔が熱くなった。
マンチャイは、すでに赤い皮のミットを両腕に持っていた。そしてボディーがすっぽりガードされている「胴」のようなプロテクター。さらに両足には脛をガッチリガードするための皮のレッグガード。
彼はさっきから他の道場生と相対して、「このなり」でミット稽古をしていたので、これから「何がはじまるのか」は想像ができた。
「ムエタイのミット打ちを体験しましょう」
マンチャイは、「微笑」を崩すことなく、少したどたどしい日本語でそう俺たちを促した。
すると未惟奈は「よろしくお願いします」とお行儀よく「デパート定員風」の丁寧なお辞儀をまたまたやってみせた。俺もそれに続いて頭を下げた。むろん俺は武道家らしく両の手は体側においてね。
* * *
まずは未惟奈からだ。マンチャイはジム中央にあるリングのロープをくぐりリング中央に立った。次いで、未惟奈はトップロープに片手をついて、ひょいとそのトップロープを飛び越えてリングに入った。未惟奈のその動作が華麗過ぎたので、ジム内が一瞬どよめいた。
さて、未惟奈のミット打ちが始まった。その様子を俺は真横で見ていたが、色々興味深かった。
「空手とムエタイは違う」という事はむろん承知していたが、その違いは想像以上だった。
例えばミドルキックだ。ムエタイの「ミドルキック」は、全ての技の中でももっとも重要な技だといってよい。空手で言うところの「中段回し蹴り」ということになるが、その違いは「同じ技」とは思えないほどだった。
具体的には……
まずムエタイのミドルキックは踏み込み足の位置からして違う。つまり「のっけから」違うのだ。空手では相手の中央付近に置く足をムエタイでは正面の敵に対してかなりサイドに置く。しかもその足の角度もすでに45度を向いていているので、自然上体は引っ張られて足の付け根の腸腰筋が最初から伸びている。すると蹴り足は空手のように膝を上げるという動作がまったく発生せずに蹴り足は棒のように振り回される。さらに軸足も空手のように意識的に回すことはせずに、べた足からつま先立ちになる勢いで自然に回転している感じだった。
未惟奈は最初「空手の回し蹴り」をミットに打ち込んだ。その蹴りを受け止めたマンチャイはバランスを崩す程に後方に飛ばされてしまった。マンチャイにしても一見華奢に見える未惟奈からこんなにもパワフルな蹴りが放たれるとはさすがに予測できなかったのだろう。
「すごいねえ」
目を白黒させながらマンチャイは、未惟奈の蹴りを惜しみもなく称賛した。ただマンチャイは未惟奈の「空手の蹴り」を「ムエタイの蹴り」に修正すべく実演をまじえて解説しはじめた。
未惟奈にしてみると一度その動作を見るだけで十分だった。
「わかったわ」
マンチャイの説明を制してそう言うと、すぐに「ムエタイスタイル」でミドルキックを打って見せる。
今度は油断せずにガッチリミットを構えていたマンチャイは未惟奈のミドルキックをガッチリと受け止めた。
しかし、その際にとんでもなく大きな「打撃音」がジム全体に響きわたり、その音にビックリしたジム生がみな未惟奈に注目してしまった。
至近距離で見ていた俺は、未惟奈の蹴りは見慣れているはずなのに、その打撃音を聞いて鳥肌がたった。それほど未惟奈のムエタイキックは強烈だった。
未惟奈の学習能力の高さはいつもながら呆れてしまう。その後にやることになるであろう身体能力に関しては凡人な俺は非常にやりにくくてならなない。
さて、俺と未惟奈の対戦相手は共に「ムエタイ選手」だ。曰く未惟奈は天才ムエタイ少女「伊波紗弥子」、俺はチャンプア・プラムックだ。だからこそこうして二人でムエタイジムに来ている。
しかし、対戦相手は同じムエタイ選手でも俺と未惟奈では戦うルールが違う。
未惟奈はムエタイルールを基本とした「ポイントルール」であること。これは未惟奈の必殺の一撃で試合が終わってしまわないことへの配慮からきている。
対して俺は、ガチのムエタイルールになる可能性が高い。
おそらくそれが原因なのであろう。いよいよ俺がマンチャイのミット練習を受ける段になって、マンチャイの動きが未惟奈の時とは大きく変わってしまった。
具体的には「ミットの持ち手」であるはずのマンチャイが、突如攻撃してきたのだ。その驚きは咄嗟にダチョウ倶楽部ばりに「聞いてないよオ」と心の声を発したほどだった。マンチャイは確かに俺の打突をミットで受けるのだが、その俺の攻撃以上にマンチャイは反撃してくるのだ。しかも「ミット」というのは見方を変えれば「盾」にもなる訳で、マインチャイはいわば腕と腹と脚を完璧に守れるプロテクターをつけて俺に反撃を加えてきている状態といっていい。
これは「ミット練習」ではなくてプレテクターつけた相手、しかもムエタイのレジェンドとのスパーリングに他ならない。フルコンタクト空手でやるガンダムスパーリングがやや近いのか。
相手をKOするとき、俺と未惟奈では「要因」が大きく異なる。
未惟奈はさっきミット打ちでも肝を冷やされた程の「強大な破壊力」で相手を粉砕する。しかし俺の場合はそうではなく「急所を正確に射抜く」ことで少ない力でも相手を倒している。さっきのジム生を悶絶させた一撃にしたって俺は「約束」通りに「軽く」蹴っていたのだが、レバーにピンポイントで打ち込んだがために相手はたまらず倒れたのだ。
今この場で、俺が何を叫びたいのかというと「そんなガチガチにプロテクターを付けられると俺の攻撃で相手をKOすることが難しいんだよオ!!」ということなのだ。
だから否応なしに俺はレジェンドのガチの攻撃を永遠に捌き続けなければならない「はめ」に陥った。
しかし……
俺はすぐに「あること」に気づいた。
「ひょっとして、これは俺にムエタイの技術を一番効果的に、しかも長時間体験させよういう作戦なのか?」ということに。
それがジム会長の藤本さんのアイデアなのか、高野CEOのアイデアなのか、トレーナーのマンチャイのアイデアなのか、そもそもムエタイでは普段の練習でやることなのか知る由もないが、きっと間違いない。
ならば……俺はこの貴重な機会にやることは決まってくる。
今日という短い体験で、できうる限りのムエタイの技術を俺の『身体に体験させる』こと。そしてムエタイという技術の『本質を見極める』こと。
俺は即座に、俺の頭と身体はマンチャイというムエタイレジェンドのレジェンドたる「強さ」の分析にとりかかっていた。




