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普通男子と天才少女の物語  作者: 鈴懸 嶺
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ムエタイジム

 俺はうっかりジムの練習生を失神させてしまった。


「立ち技世界最強」という称号がある「ムエタイ」のジムで練習していれば、自分のレベルをすっ飛ばしてインスタントに「自分も他の武道・格闘技経験者より強い」と勘違いしてしまう人は多いのだろうか。まあこれはムエタイに限ったことではないと思うが。


「ムエタイ」が立ち技世界最強と言われる理由はそのトップ選手が強いのであって全ての練習生が他の武道・格闘技経験者を「下に見る」という精神性は勘違いも甚だしい。


「軽く感じを掴むために」


 そういう前置きで始まったはずの俺とムエタイジムの練習生のスパーリング。


 たしか彼は、俺たちがジムに入るなり、俺たち一番近い位置でサンドバッグにこれみよがしにミドルキックを打ち込んでいた練習生だ。歳は二十代前半だろうか。中肉中背で、Tシャツの上からでも分かる盛り上がった肩や胸の筋肉の盛り上がりから、相当ウエイトトレーニングもしているのだろう。その彼が俺の相手をすることになった。


 相手は俺が「未惟奈も敵わない天才空手家」なんて噂とともに「鳴り物入り」でこのムエタイ道場に来ていることはむろん承知しているのだろう。そんな俺の鼻をへし折りたかったのかもしれないし、東京の本部からわざわざこの人のために出張してきたジム会長やタイのトレーナーへ自分の強さをアピールしたかったのかもしれない。


 俺からするとそういった事情は関係ない。「軽く」との約束ではじめたスパーリングで明らかに「倒そう」という意思を感じる程に全力のラッシュをかけてきたその「性根」に腹が立った。


 俺が偉そうに言えることではないが、「これもいい経験になるはずだ」とばかりに自分の中でも「自分の行動」に言い訳しつつ俺は容赦なく「秒」で失神させてやった。


 なんども同じ軌道で、しかもそんなにもオーバーモーションの左ミドルに三日月蹴りのカウンターをレバーに合わせるなんて造作もなかった。


 未惟奈は嬉しそうにニヤニヤしていたが、今回のジム訪問を企画し、俺たちを引率して来た春崎須美は顔面蒼白になってどうしていいか分からないのかきょろきょろとジムの関係者の顔色を窺っていた。


 そしてジムの会長は苦虫を噛みつぶしたような渋い顔をしつつ、他の練習生に失神してしまった男をリングから降ろすよう苛立たし気に指示していた。


 ここは仙台にある割と有名なムエタイのジムで、系列のジムが全国区に存在しているらしい。だから俺たちが訪問する日に合わせて本部のジム会長やタイ人のトレーナーまで出張ってくれていたのだ。


 ジム内では縦笛や太鼓、鉦などで奏でられる独特の「あのタイの民族音楽」が今もエンドレスで流れている。しかし、俺たちが入ってきた時には耳障りなほどに聞こえていた鋭いサンドバッグやミットを打ち込む拳脚の打撃音は、ジム生の失神劇で鳴りを潜めてしまった。


 さて、俺と未惟奈が格闘技ライターの春崎須美に連れられて、このムエタイジムに訪問が決まったのは、春崎の強い勧めがあったからだ。


「キックボクシングとムエタイは違うから!」


 そんな春崎の「格闘技論」を永遠にされて辟易した俺と未惟奈は、結局彼女に押し切られて「キックボクシング」ではない「ムエタイ」のジムに訪問することになった。


 そうは言っても、今回のムエタイジムの訪問は、俺がテコンドー道場で黄師範と対戦したことをきっかけに「いろいろなトップ選手と対戦経験をしたい」という思いを春崎に語ったことに端を発していた。それを受けて春崎が色々駆けあって今回のジム訪問を実現させてくれたという意味では春崎須美には大いに感謝していた。


 俺はいままで「『武道』だから競技格闘技とは交わらない」と意地を張っていた。しかし数多くある競技武道、格闘技の中でももっともスポーツよりの競技であるテコンドーのレジェンド黄厳勇師範との対戦で俺はこの考えを捨てた。


 そして高校生という経験値のない俺がそんな意地を張ったところで、それが如何に幼い視野狭窄の発想かつ思考停止脳だったと、思い出すだけで赤面するほどに今では心底恥じている。


 また俺にはキックボクシングもムエタイも若干のルールの違いはあれど、そう大きく違わないという印象しか持ち合わせていなかった。しかしそのことを春崎須美に話すと……


「そんな適当な考えじゃ駄目よ!翔くん!」


 と強く諫められてしまった。


 俺はあまり詳しくないが、春崎によるとムエタイで最も権威あるタイトルが「ラジャダムナン・スタジアム」と「ルンピニー・スタジアム」のチャンピオンになる事らしい。


 俺の対戦相手「チャンプア・プラムック」という選手はタイの二大タイトルを最年少で獲得し、その実績を引っ提げて世界のあらゆるムエタイ、キックボクシングのタイトルに挑戦しことごとく勝ち続けた。

 今では日本はおろか海外でも「敵なし」で「相手がいない」ということがチャンプアの代名詞になっているそうな。一時期にはK-1の全盛等で鳴りを潜めたかに思えた「ムエタイ最強伝説」が「チャンプアの強さ」をきっかけにまた支配的になりつつあるらしい。


 春崎須美はその「ムエタイ最強伝説」を母国日本の「空手」で打ち破りたいと、俺と未惟奈を打倒ムエタイの土俵に引きずりだした。なんか昭和にも「空手vsムエタイ」という似たような話があったように祖父から聞いたことがある。時代は繰り返すのだろうか。


 春崎に言わせると、タイのムエタイ選手がキックボクシングルールでタイトルをとることは簡単なことではないそうだ。ルールが違えばどれだけ勝敗に影響を及ぼすかの議論は、未惟奈と伊波の対戦でルール協議をしたときに春崎須美や高野CEOからもくどいくらいに聞かされた。


 だからルールの壁を越えて圧倒するチャンプアは「普通のムエタイチャンピオン」ではなく規格外の選手であることを春崎は強調した。


「才能と努力を併せ持った天才でもあり秀才でもある。翔くんと未惟奈ちゃんのいいところを一人で併せ持った感じよ」


 春崎は真剣な眼差しでそう言った。むろん未惟惟奈は「私より才能があるはずないでしょ」とあざ笑うように言った。まあそれについては俺も同感。また俺にしてもこと「努力」に関しては負けている気はしない。


 さて、「挨拶代わり」にしてはちょっと刺激の強すぎるオープニングを演じてしまった俺だったが、むろんこれで終わりではない。


 先ほどから苦い顔をしていたジムの会長である藤本氏がまだリングの中にいた俺につかつかと歩み寄ってきた。


「いや翔くん。大変失礼したね。うちの道場生、教育できてなくてお恥ずかしい限りだよ」


 藤本会長は高校生の俺にするには丁寧すぎる程に頭を下げてたきたのでむしろ俺は慌ててしまった。藤本会長は五十台中盤だろうか。額の生え際が少し後ろに後退してるが、肩幅や胸板の厚さから近づくと威圧感を感じる。そういえば高野CEOにどことなく雰囲気が似ている


「いえ、私の方こそついコントロールきかなくて」


 そう返したもののこれは無論社交辞令。大人の対応。むろんさっきのジム生のように力のコントールができない(しない?)なんて俺ではない。むしろ超コントロールして意識的にピンポイントで「悶絶するポイント」へ一撃を入れた訳だから。まあ、そんなことはきっと藤本会長は見抜いているのだろうけど。


「いや、でも凄いなあ、翔くんは。高野CEOがチャンプとの対戦を許可した訳だね」


 わざわざ 東京本部の会長が出向いたのは高野CEOからの直々のお願いがあったと春崎から聞いていた。そう言った意味では高野CEOには何から何まで申し訳ないと思っている。


 俺と藤本会長が話をしていると、いつのまにそばに来ていたのか未惟奈が俺の背中を指でつついてきた。


「お?なんだよ」


「翔?いきなりやりすぎじゃない?」


 俺が振り返ると未惟奈は微笑みながら、そして揶揄うようにそう言った。


「いや、いつも通りだろ、あれくらい」


 俺は未惟奈の前なんでつい、今さっき社交辞令で謙遜したばかりなのに本音が口から出てしまった。


「フフフ、頼もしいなあ、二人とも」


 そう言った藤本会長はニコニコと嬉しそうにほほ笑んでくれていたので、俺は少しホッとした。


「今日は、高野CEOと春崎さんの依頼もあって、翔くんと未惟奈さんにムエタイの体験をしてもらおうと思っていてね。未惟奈さんの動きは何度も映像でみたことがあるが、翔くんはどんな戦いをするのか確かめておきたくて……ちょっと嫌な思いをさせてすまなかった」


 未惟奈が来たことで自然と、藤本会長と俺と三人で話が進んだ。昔の未惟奈なら空気を読まない本音の「一言」に冷や冷やすることが多かったが、今では殊勝な態度で笑みまで浮かべで黙って藤本会長の言葉に耳を傾けていた。


「今日は、元ルンピニーチャンピオンであるトレーナーから一通りのムエタイのトレーニング指導してもらうつもりでいる。だから未惟奈さんも、翔くんも一旦空手のこと話忘れて白紙の状態で体験してみてほしい。いいかな?」


 藤本会長が言うと、未惟奈は「はい、よろしくお願いします」と丁寧に頭を下げたので俺も続いて深々と首を垂れた。それにしても未惟奈は両手を腹の前で組んでデパートの女性定員のようにお辞儀をした姿がおかしすぎて噴き出しそうになった。そのうちバレリーナがやるカーテシーでもやりそうな勢いである。そんな未惟奈の姿を想像してニヤニヤしていたら未惟奈からゴルゴ並みの殺気でにらまれているのに気づき、俺はゴホンと咳ばらいをして誤魔化した……


 今日は、せいぜいムエタイ選手と「スパーリング」をする程度の「体験」だと思っていた俺にとって、「ムエタイが習える」というのは嬉しい誤算だった。「空手一筋」とはいえ、最近では大成拳を本格的に習ってもいるし、他流の技術に「対抗する」のではなく「取り込む」という発想は俺にとっても多いに好奇心をそそらるようことだった。


 そして未惟奈もこの体験を大いに楽しみにしているように見えた。


 その未惟奈は、上下ともボディーラインがよく分かるストレッチウェアに短パンといういで立ちだ。


「どう?似合うでしょ?」


「似合い過ぎだな」


 俺は呆れるように言った。未惟奈のトップアスリートならではのボディーラインの美しさは、ほんと呆れる程に美しい。


 未惟奈はいつも下は空手着を着ることが多いが、数日前に「ちょっとムエタイ風なスタイルしよう」と嬉しそうに話していたのを思い出した。


 さすがに俺は「この美しさ」に慣れたが、ジムの練習生には刺激が強すぎて「おい!男性陣、チラ見、いやガン見しすぎだぞ!」状態だった。まあ、同じ男子として気持ちはわかるけどね。



 そして……いよいよムエタイ体験がはじまる


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