俺にできること
「翔、まだ起きてるの?最近遅くない?」
眠気眼をこすりながら、檸檬がキッチンに顔を出した。寝間着代わりの淡黄色をした厚手の部屋着を来た檸檬はのどが渇いて起きてきたのだろうか、冷蔵庫を開けお気に入りのアップルティーを取り出した。
いつも思うのだか、厚手の割に胸元がゆるふわ過ぎる檸檬の隙だらけな姿に弟ながらドギマギしてしまう。
「もう寝るとこだよ」
俺はそんな動揺を気取られぬよう、またさっきまで「使いすぎていた頭」をクールダウンするべく眼の前にあるホットコーヒーをグイと一口飲んだ。時間は深夜一時を回っているが、俺は体質的にコーヒーを飲んでも目が冴えて寝られなくなることはないので、寝る前の一杯はコーヒーと決めている。
変わっているだろうか?そうでもないよね?
檸檬は俺の対面の椅子に座って、グラスにアップルティーを注いだ。
「こんな寒いのにキンキンに冷えた飲み物よく飲めるな」
「あら、寝る前にコーヒー飲んでる翔に言われたくないわ」
檸檬は形の整った口の一方を上げながら微笑した。うん、少なくとも檸檬は俺のこの習慣を「普通ではない」と認識しているようだ……
「そういえば翔、なんか試合に出るんだって?」
唐突に檸檬らしからぬ問いかけに少し驚いた。
「え?なんで知ってんの?」
別に隠していたわけではないが、かといってあえて誰にも伝えた記憶はなかったので全く格闘技に興味のない檸檬がその情報を仕入れる可能性は極めて低いはずである。
「いや、未惟奈ちゃんから聴いたから」
「え?未惟奈?……なんで未惟奈?」
同じ高校に通っているのだから偶然廊下ですれ違うことはあるだろうが、未惟奈と檸檬がわざわざ立ち止まって会話をするイメージが全く沸かない。
「あら?最近よくLINEくるのよ、未惟奈ちゃんから」
「え?!そうなの?」
マジか?!
確かに未惟奈はマメに知り合いに情報拡散するタイプだということは最近気付いたばかりだった。しかし、その拡散の裾野が身内の檸檬にまで広げられているとは思ってもみなかった。
「わたし思うんだけど、未惟奈ちゃんって、凄く友達大事にするタイプよね?」
「そうか?俺は随分雑に扱われてるけど」
俺は未惟奈からいつも受ける極めてぞんざいで、不遜な態度を思い出しつつ顔をしかめた。
「なによその渋い顔……まあ、そこは彼氏なんだから仕方ないでしょ」
「いやいや、彼氏だからこそ大事にするべきじゃないのか?」
「アハハ……分かってないなあ、翔は」
一つしか歳が違わないはずなのに、そう言った檸檬の顔が急に大人びた女性の顔に見えた。
「ど、どういう事だよ?」
うっかりそんな檸檬の表情に見とれてしまった俺はごまかす様に声音を強くしてそう言った。
「未惟奈ちゃんね、私が翔の姉だからというより、大切な友達として接してくれてるのがよく分かるのよ。どこかにでかければお土産買ってくるし、嬉しい事があればすぐ連絡くるし、困ったことがあればつつみかくさず相談してくるし」
確かに、前にテコンドー道場見学に行った時も、檸檬にお土産買ってたな。恥ずかしながら彼氏で一番彼女のことを知っているはずの俺が知る由もなかった未惟奈の一面を聞かされるとは思ってもみなかった。いいのか?大丈夫なのか、彼氏さん?
檸檬は続けた。
「未惟奈ちゃんは、自分を変えようと、ちょっと無理してるところもあるのかな……でもきっと翔の前だけ唯一、気を遣わずに素でいられるんでしょうね」
俺は不覚にも込み上げるものがあり、顔が歪んでしまうのをごまかすためにコーヒーカップを口にして大げさにゴクリと喉を鳴らした。
そして何もかもお見通しで今の俺に必要な話を的確にしてみせる檸檬が、あらためて素敵な女性だと思い知らされる……まあ、昔のように惚れたりしないけどね!!
「そういえば、聞いたぞ……檸檬こそモデルのオーディション受けるって」
「え?誰から聞いたの?!」
そういえば……
「未惟奈から」
確かにお互いに未惟奈を通じて情報筒抜けじゃないか。
さて、檸檬との会話も終わり俺は自室に戻った。
机の上にはさっき纏めたばかりのノートが置いてある。
このノートは俺が空手を習い始めて、祖父の勧めでずっと続けてきた「稽古日誌」だ。もう100冊以上はある。
もう当たり前過ぎて、朝起きて顔を洗って歯を磨くように俺は毎朝この日誌に目を通す。
つい先日、未惟奈の「気を抑える」ことを学んだ後の、未惟奈全力のスピードを捌いた俺の動き。その後、俺はこのノートを辿って「その動き」を見つけることができた。頭では忘れていたが、身体は覚えていたから反応できたのだと悟った。
毎日の当たり前と思っていたこの習慣。一歩づつ、小石を積み上げるように積みかねてきた小さな技の数々が俺の空手を作ってきた。。
何から何まで才能がない普通の俺が頼るべきはこの努力の積み重ねでしかないことをいまさらながら気づかされた。
かつて、祖父にこのノートの件で、窘められたことがある。
もう新しい技を学ぶことも概ね無くなり、このノートに書きこむこともなくなっていた頃。たまたまその日、真っ白のノートを祖父に見られた。
「翔は一日稽古して、何も気づきがないのか?」
元来、「ガミガミ」と叱りつけるタイプの祖父ではなかったが、この時ばかりは祖父の厳しい視線に俺は背筋が凍る思いをしたのを覚えている。
当時の俺はいかに「思考停止」していたのだと、思い出しても冷や汗が出る。
ただ決められたことを決められたように練習する。その練習が「肉体的に」厳しさえすれば、それで満足してしまっていた。
今にして思えば、あの時の祖父に気づかされてもらわなければ、体力勝負、身体能力勝負の空手に突き進むしかなかったように思う。俺はこの時を境に「自分で工夫する」ということを覚え、「技」ということをより意識するようになった。
そして最近の未惟奈の俺に対する「想い」を突き付けられるにつけ、「俺のための気付き」で満足して良いのだろうか?と強く思うようになっていた。
だから俺は「未惟奈専用の考察ノート」を作ることにした。
その作業が思ったより時間がかかってしまい、さっき檸檬に指摘されたように最近少し寝る時間が遅くなっていた。
これからは、俺が積み上げたものをなんとか未惟奈に伝えたい。
将棋や囲碁の名人が過去の対戦局面をすべて覚えているように、俺は未惟奈との対戦の攻防を全て記憶している。だから未惟奈と初めて対戦した、「あの体育館」の対戦まで遡って、以降数えきれないほど戦った未惟奈との自由組手全ての攻防を一手も逃さず書き留め、その全てに考察を加えた。
今、俺が未惟奈のために出来る最良の方法と信じて。
「ほんと素敵な女性よね、未惟奈ちゃんて」
さっきの会話の最後に檸檬はそう言った。
むろん檸檬は見た目が素敵と言っているのではない。まあ、見た目も素敵だけど。もともと檸檬は見た目が突き抜けてるからあまり自分の、そして他人の容姿について関心がない。だから「人として」素敵だといったことは間違いない。
無論、俺だってそれは誰よりも知っている。
だから俺は未惟奈のために全力を尽くすと決めたのだ。




