モンスター
「でかいなあ」
俺の口から、思わず独り言が漏れた。
それは感嘆というよりも、あまりの規格外さに呆れ果てたという響きに近かった。
ファミリーレストランで対面に座っていた時よりも、距離はずっと離れているはずだ。
それなのに、今こうして正面から向き合う高野CEOの体躯は、何倍にも膨れ上がったかのような錯覚を抱かせる。
格闘団体『RYUJIN』のCEO、高野彰。
極真空手の全日本大会を制した経歴を持つ男だ。
年齢は確か四十代半ばだったはずだが、その肉体は引退した元格闘家のそれではない。
間近で見れば、現在進行形で過酷なトレーニングを積み上げていることは明白だった。
一見すれば、穏やかで気のいい叔父様といった風情だ。
しかし、俺と戦うと口にした瞬間の強烈な威圧感、そして今、目の前で俺を射抜かんとする鋭い眼光を見れば、とても同一人物とは思えない。
レストランを出た後、俺たちは芹沢が予約していた市民体育館へと向かった。
もともと芹沢から大成拳の指導を受ける予定だった場所だが、今、その中央で俺は高野CEOと対峙している。
俺は未惟奈との稽古では、Tシャツに空手着のズボンというのがいつものスタイルだ。
だが今日は、気分を変えて上下とも空手着に身を包んだ。
一方の高野CEOは、黒いトレーニングウェアという出で立ちで現れた。
宿泊先のホテルでも身体を動かせるよう、常に常備しているのだろう。
ストレッチ素材のウェアから浮き出る筋肉の隆起は、あまりにも分厚く、ボディービルダーのそれと見紛うほどだ。
これは「元」ではなく、ガチの現役レベルと見たほうがいい。
フルコンタクト空手の試合なら、今すぐに出場しても優勝をさらってしまうのではないか。
本気でそう思わせるだけの説得力が、その身体には宿っていた。
「じゃあ、翔君。どう進めようか? さすがにこの立ち合い、ルールは決めないとな」
「そうですね。俺のレベルを知ることが目的なら、極真空手ルールでいいんじゃないですか?」
「ほう、私に有利なルールになるが、いいのかな?」
「ええ、構いません」
俺がそう告げると、高野CEOの瞳の奥がギラリと光った。
錯覚かと思うほど、その眼光はさらに鋭さを増していく。
一瞬、背筋に冷たいものが走った。
だが俺は、空手着に袖を通した瞬間から、意識を空手モードに切り替えている。
この程度の威圧感で精神を乱されるほど、やわな稽古は積んできていない。
「時間はどうする? 翔君」
「俺は何分でも構いませんよ。でも……一分もあれば充分じゃないですか?」
「ほう……」
高野CEOが俺の言葉をどう受け取ったのかは分からない。
ただ、それ以上は口を開かなかった。
「じゃあ、私が審判をするわね」
高校の空手部顧問でもある芹沢が、ストップウォッチ代わりのスマホを手に間に入った。
「では、一分間の極真ルールで始めます」
「いいですよ」
俺は芹沢を見ることなく、目の前の大山に意識を集中させた。
高野CEOは不敵な笑みを浮かべ、芹沢に向けて深く頷いた。
同行した春崎は、体育館に入ってからというもの、緊張のあまり青ざめて黙り込んでいる。
こんな事態になるとは予想もしていなかったのだろう。
逆に未惟奈は、平静を装って何気ない言葉をかけてくるが、ずっと俺の隣にぴたりと張り付いている。
時折、横目でこちらの様子を覗き込んでくる姿が、少しこそばゆい。
彼女にしても、高野CEOの前であれだけ俺を強気で推した手前、負けられれば立つ瀬がないのだろう。
「お互い、構えて!」
芹沢の凛とした声が響いた。
始まる。
高野CEOは両腕を天高く掲げ、そのまま拳を顎のラインまで下ろした。
極真の選手特有の息吹とともに、「せりゃあ」と短い気合を吐き出す。
それは単なる発声ではない。
突風のような威圧感となって、俺の全身を包み込んだ。
なるほど、以前の俺ならこの気圧で足がすくんでいたかもしれない。
だが、今の俺はこの感覚を知っている。
これは未惟奈が放つ威圧感と同質のものであり、俺は大成拳を通じて、まさに「これ」をいなし、コントロールする術を磨いてきたのだ。
俺はいつも通り、スタンスを広めにとった後屈立ちで構えた。
その瞬間、高野CEOの口元がニヤリと歪んだ。
憧れていたという俺の祖父、鵜飼貞夫の姿を、その構えに重ねたに違いない。
「はじめ!」
芹沢の甲高い声が、静まり返った体育館に鳴り響いた。
その残響すら消えぬ刹那、高野CEOが地を蹴った。
まるで猛り狂う闘牛のような突進だ。
一瞬で距離を詰められ、視界のすべてが高野CEOという巨大な山に塗りつぶされる。
それでも、俺の脳は冷静に相手の動きをトレースしていた。
上半身の予備動作から、初手は右の直突き(ストレート)だと判断する。
未惟奈ほどの速度はないが、巨体から繰り出されるその圧力は、並の選手なら受けきれずに一撃で沈むだろう。
類まれなフィジカルと突進力を背景に、相手を委縮させて粉砕する。
これこそが高野CEOの真骨頂であり、現役時代から磨き上げてきた渾身の一撃。
俺はコンマ数秒の間で、すべてを分析し終えた。
刹那。
高野CEOの両膝が、同時に床を叩いた。
突進の勢いそのままに、巨体が派手に前のめりへと突っ伏す。
俺は開始位置のまま、開始した時と同じ姿勢で、静かにそこに立っていた。
素人の目には、何が起きたか分からなかったはずだ。
大男が勝手に躓いて、勝手に転んだように見えたかもしれない。
だが、ここにいる面々は素人ではない。
何が起きたかを理解したからこそ、皆の表情は凍りついている。
審判役の芹沢も絶句し、声を出すことさえ忘れていた。
俺は倒れた高野CEOに駆け寄ることもなく、彼が起き上がるまでの数秒間、その場で残心をとっていた。
相手が立ち上がれる程度のダメージであることは、攻撃した俺自身が一番よく分かっている。
打突を完全にコントロールし、危険を回避しつつ、一撃で無力化する。
今の俺には、それが必要だった。
予想通り、高野CEOは何事もなかったかのように、むくりと起き上がった。
「翔君……私は随分と、失礼なことを言っていたようだな」
「いえ、そんなことは」
「はあ……」
高野CEOは深く息を吐き出し、天を仰いだ。
肉体的なダメージはないはずだが、精神的な衝撃は隠しきれない。
その顔は、わずかに青ざめていた。
「翔君、本当にすまなかった。とりあえず、着替えようか」
そう言った時の高野CEOは、レストランで見せた穏やかな叔父様の顔に戻っていた。
「ええ」
右直突きでくると判断した瞬間、俺の左足は思考よりも早く、ふわりと浮き上がっていた。
つま先は最短距離を通り、斜め下方から高野CEOの顎へと吸い込まれる。
その軌道は、顎とこめかみを結ぶ対角線に完全に合致していた。
軽く触れただけのつま先が、高野CEOの脳をほんの一瞬だけ揺らす。
三半規管に混乱を招き、膝を突かせる。
それだけの力加減。
放った技は上段の左三日月蹴りという、極めてシンプルなものだ。
だがその一撃は、計算され尽くした「最善の解答」だった。
「あんなことができる君は、一体何者なんだ?」
背を向けていたため表情は見えなかったが、高野CEOの声は穏やかだった。
「普通の高校生ですよ」
「アハハ、それを言って伊波にこっぴどく叱られたそうじゃないか。でも、私も今、彼女と同じ気持ちだよ。君が普通なはずがない。モンスターだ」
伊波は俺を「鬼」と呼び、今度は「モンスター」か。
俺のイメージ、そんなに物騒なんだろうか。




