勘弁してくれ!
「翔くん? わたし、なんにも聞いてないんだけど?」
ビデオ通話をしているわけではないので、相手の表情は見えない。
しかし、スマホから漏れ聞こえる声のトーンだけで、春崎須美が心底ご立腹であることは容易に想像がついた。
「えっと、何の話でしょう?」
自分に後ろめたい記憶はないはずなのだが、彼女の放つ威圧感に気圧され、俺の声は心なしか上ずってしまう。
「とぼけないでよ! 全く、翔くんといい、未惟奈ちゃんといい……」
あれ? 未惟奈も同罪なのか? そもそも、何の罪が確定したのかも分かっていないのだけれど。
俺が事態を把握できずに沈黙していると、ようやく春崎が本題を口にした。
「未惟奈ちゃんと、そして翔くんまで伊波紗弥子と対戦したんだって!?」
ああ、はいはい、その件か。
「いや、あれは対戦っていうか、ちょっとスパーリングをしただけですよ。春崎さんが大慌てするほどのことじゃありませんって」
「簡単に言わないでよ! 伊波ちゃんと未惟奈ちゃんが拳を交えたなんて知れたら、たとえスパーリングだってヤフーニュースのトップを飾るレベルなんだから!」
たしかに、世界的なスーパースターと「天才ムエタイ少女」として格闘技界に君臨する伊波の対戦だ。
メディアの書き方次第では、とんでもない騒ぎになっていた可能性はある。
だが、当人たちはそんな騒ぎを望んでいないだろうし、何よりあの対戦の内容は、事情を知らない世間様が簡単に納得できるような代物ではない。
「ところで、春崎さんはどこからその話を?」
「高野彰よ」
「え!? 高野彰って、確か前に言ってた格闘技団体『RYUZIN』のCEO?」
「そうよ。当事者の二人じゃなくて、高野さんから情報を回されるなんて、記者として恥ずかしいわ」
俺たち、そんなに懇意な関係だったっけ? まぁ、それはいいとして。
高野彰といえば、かつて未惟奈と伊波のドリームマッチを企画した張本人だ。
伊波側の大人たちが首を縦に振らず、一度は立ち消えたそのマッチメイク。
その穴を埋めるために春崎が芹沢を連れてきた、という話を以前彼女から聞いたことがある。
彼女の選手発掘スキルは高野からも高く評価され、信頼されているという話だったが。
「でも、どうして高野CEOがその件を知ってるんですか?」
「それが伊波ちゃんなのよ」
「伊波が? 伊波が高野CEOに直接話したってこと?」
「いいえ。いくら彼女が有名だといっても、現役選手がプロモーターに直接コンタクトを取るような真似はしないわ」
「じゃあ、どうして?」
「翔くん、チャンプア・プラムックは知ってるわよね?」
「いや、知りませんけど」
「え!? 知らない!? ……まあ、そうか。伊波ちゃんのことも知らなかったものね」
「誰なんですか、その人は」
「現在、ムエタイ界で最強と呼ばれている男よ」
「はあ。で、そのチャンプア?がどうしたんですか?」
「タイにあるチャンプアのジムに、伊波ちゃんはよく出稽古に行っているの。二人は交流が深くてね、どうやら伊波ちゃんが彼に漏らしたらしいのよ」
「はあ……」
いまだに要領を得ず、俺は中途半端な相槌を打つ。
なぜ伊波は、未惟奈とスパーリングしたことをわざわざムエタイ最強の男に話したんだ?
そんな話を聞かされたところで、彼が興味を持つとは思えないのだが。
「でも、伊波が未惟奈と動いたことを、なんでチャンプアがわざわざ高野CEOに伝えるんですか?」
「もちろん、その話を伝えるために連絡したわけじゃないわ。伊波ちゃんだって、未惟奈ちゃんとの件は『ついで』に話しただけでしょうし」
「ついで?」
「そう。チャンプアが食いついたのは、未惟奈ちゃんと伊波ちゃんの話じゃないの」
「というと?」
「チャンプアが興味を持ったのは……翔くん、あなたよ」
「え!? 俺!?」
「そう。高野さんが言ってたわ。『伊波も未惟奈も敵わない男子高校生の空手家がいるらしい』とチャンプアから聞いたって」
な、なんだか嫌な予感がしてきたぞ。
「そ、そんな噂話レベルの内容を、ムエタイ最強の選手が高野CEOにわざわざ伝えるものなんですか?」
「チャンプアは別に、単なる世間話をしたわけじゃないわ。伊波ちゃんがどう伝えたのかは知らないけれど、チャンプアは翔くんとのマッチメイクを高野さんに打診してきたのよ」
「な、な、な……なんだって!?」
ちょっと待て。
現役ムエタイ最強が、俺と戦いたい?
伊波のやつ、一体どんな盛り方をしたんだ。
ありえない、そんなの。
「だから高野さんに聞かれたのよ。『神沼翔という名に心当たりはあるか』って」
「な、なんて答えたんですか?」
「迷ったけれど、一応知らないフリをしておいたわ」
「ま、迷わないでくださいよ……」
「私はね、これはチャンスだと思うのよ」
「え!? チャンス?」
やめてくれ。
格闘技マニアの勝手な妄想に、俺を巻き込まないでほしい。
「だってムエタイと言えば、今や誰もが認める立ち技最強格闘技よ?」
「だから何だって言うんですか」
「前に言ったでしょ? 翔くんには空手こそが世界最強だってことを証明してほしいって」
いやいや、確かにあなたはそう言っていたけれど、俺は一言も同意していない。
「春崎さん、俺は空手の試合すら出たことないんですよ? それがいきなりムエタイ王者と戦うなんて、世間が許さないでしょう。まあ、世間が許す前に俺自身が許しませんけどね」
「まあ、そう言うとは思ったけどね。とにかく、この件もゆっくり話したいし、未惟奈ちゃんと伊波ちゃんの件も詳しく聞きたいから、来週時間を取ってくれない?」
「さっきの件については、もう話すことなんてないですよ」
「そう言わずに。来週の火曜日、九月二十五日でいいかな? 給料日だから、いいお店で接待してあげるよ」
春崎の最初の不機嫌なトーンはどこへやら、妙に機嫌が良くなっているのが逆に気味が悪い。
この人、自腹じゃなくて経費を使って全力で俺を説得する気じゃないのか?
実は高野CEOから「何とか説得しろ」と厳命されているのでは……そう思うと、めちゃくちゃ怖い。
結局、俺は春崎の勢いに押し切られる形で、来週の火曜日に会うことを渋々承諾してしまった。
「できれば、未惟奈ちゃんも呼んでおいて。こっちは薫子も連れていくから」
「え? 芹沢さんがなんで?」
「定期的に大成拳の指導を受けているんでしょ? 薫子からも、翔くんの大成拳の完成度を最終チェックしてもらおうと思って」
「なんで春崎さんがそんなチェックをする必要があるんですか? やめてくださいよ、本当に……」
「まあまあ、そんなに重く考えないで。とりあえず会って、気楽に話しましょう」
春崎須美はそれだけ言い残すと、一方的に通話を切ってしまった。
いやいや、どうやって今の話を「気楽」に受け止めろっていうんだ。
勘弁してくれよ、本当に。




