天才武道家
「薫子、大丈夫?」
「ええ、私は全く大丈夫よ?……フフフ、春崎さんのほうが緊張しているんじゃないですか?」
「あ、あたりまえでしょ?相手は日本女子ムエタイ界の至宝、伊波紗弥子だよ?ことの重大さ分かってるの?」
芹沢薫子は、不安も緊張もない普段と少しも変わらない態度で、これから始まる「試合」に興味すらないように見えた。
伊波紗弥子は、年齢こそ薫子より8歳も年下の16歳だが、彼女はすでに50戦以上のキャリアがあり、本場タイのタイトルを最年少でもぎ取ったまぎれもない本物だ。
薫子の全く動じない態度は、単に伊波の実力を知らないが故なのか?
それとも伊波の実力を知った上であの態度なのか?
彼女に知りあってずいぶん経つ私ですらいまだに芹沢薫子という”武道家”の底が見えない。
そう、彼女は「格闘家」ではなく正真正銘の「武道家」だ。
だから彼女は本来、このようなエンターテイメントの舞台に立つべき人間ではない。
「薫子、ほんとゴメンなさい。いきなりこんなことになって」
「もういいわよ、そのことは。でもウィリス未惟奈の代わりが、私で良かったの?」
天才アスリート、ウィリス未惟奈vs天才ムエタイ少女、伊波紗弥子という「格闘技界最大のドリームマッチ」が企画された。
まさに天才美少女対決。
しかしキャリアでは圧倒的なはずの伊波陣営がついに首を縦に振らず、この話が実現することはなかった。
伊波陣営からしたら当然な判断だと思う。あの男子高校生チャンピオン、有栖天牙を瞬殺した未惟奈と戦うには天才伊波にしても流石にリスクが大きすぎる……いや天才ゆえに若い才能をここでつぶしてしまうことを大人が恐れたのは当然だ。
ただ、先走りしてプロモーションをしてしまった日本最大の格闘技団体「RYUZIN」は興行を中止するわけにはいかなかった。
だから日本最大の格闘技団体「RYUZIN」のCEO「高野彰」が私に泣きつき、私はこの試合の「穴埋め」をするために強引に芹沢薫子を引っ張ってきた。
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「春崎須美、ほんとに大丈夫なのか?誰だっけ、その……芹沢薫子で?」
今や日本最大の格闘技団体にもなった「RYUZIN」のCEO「高野彰」は、今度ばかりは二つ返事でOKを出さなかった。
私はただの格闘技ライターだが、何度も「隠れた才能」を発掘してはその情報を高野彰に提供し、そのことごとくが現在スターとなって活躍している。つまり今の「RYUJIN」をここまでにするのに一役買っているという自負が私にもあった。
だからこそ「選手の発掘眼」を信頼された私は今回も高野から「だれかウィリス未惟奈の穴を埋められる選手はいないか?」と泣きつかれたのだ。
しかし、私は高野彰の不安をものともせずに言い切った。
「全く問題ないわ」
”格闘技界”を見渡して「ウィリス未惟奈」以上の選手を探すのは不可能だ。
でも”武道家”の中には「ウィリス未惟奈」「伊波紗弥子」以外にもう一人「天才少女」と呼ばれる女性がいることを私は偶然知ることになった。
いや正確には彼女は「少女」ではない。
外見こそ「少女」と見まがうほど若いのだが、年齢は24歳。
そんな少女に見まがう「芹沢薫子」が、埼玉県の郊外で太極拳の”雇われ”インストラクターをしていた。
彼女の見栄えが良いという評判を聞きつけた編集長が、うちの雑誌「スポーツ空手」の企画で取り上げると言ってきかなかった。私はこの手の武道・格闘技をアイドル化して売り出すやり方にあまりいい印象を持っていなかった。
しかし雑誌の「売り上げ」を考えれば、このような戦略も「やむなし」なのは分かっている。だから私もその取材を渋々引き受けた。
「春崎さん?太極拳の道場でキックボクサーの俺がスパーリングして大丈夫なんですか?」
撮影用に同行した若手キックボクサーの佐藤隆が明らかに太極拳を揶揄するかのように言った。
残念なことだが、キックボクサーに限らず日本人は「太極拳」と聞けば武道ではなく健康法かなにかだと勘違いをしている。
だから佐藤隆は「俺が彼女を倒してしまったらどうするんですか?」といいたいのだろう。
「相手は女性なんだから、そこは考えてやってよね?」
「分かってますよ……でも、それなりにやらないと嘘くさくなりませんか?」
「そこはあなたもプロなんだから上手くやってよ」
「ちぇっ!それにしてもババ引いたよな。プロの俺が太極拳の美女に負かされるとか」
「大丈夫、さすがに読者も分かってくれるでしょ?」
「まあ、そうだといいんだけど」
私はこんな「やらせ」企画に気が進まず、重い足取りで彼女に会いに行ったのを覚えている。
しかし……
そんな私のネガティブな想像は一瞬で「驚愕」に変わった。
とんでもないことが起きた。
そのプロキックボクサー佐藤隆は二回りも体の小さい薫子に一切触れることもできず、最後には子どもをあしらうように転がされ喉元に足刀を突き付けられ「極め」られてしまった。
決して佐藤隆が彼女に花を持たせたのではないことは、私にはわかった。
予想だにしていなかったこの女性の実力に私はただただ興奮した。
「これでいいの?」
プロのキックボクサーを子ども扱いにした薫子は、不服そうにそう言った。
「えっと、これでいいとは?」
「だって、こんな弱い相手じゃ私の実力、分かりにくくないですか?」
これを聞いた佐藤隆は顔を真っ赤にして怒りをあらわにしたが、この状況で彼が何も言い返せるはずがない。ありえない話だが、たしかに彼では力不足すぎた。
「ごめんなさい……彼も一応プロなんで」
「え!?そうなの?……彼、体調悪いんですか?もしかして試合直後とか?」
皮肉なのか、本心なのか佐藤隆は痛恨のトドメを「言葉」で刺されてしまった。
「いやいや、そういう訳では……あなたの実力は十分すぎるほどに分かったから記事の方はまかせて」
彼女の歯に衣を着せぬ物言いにひやひやしたが、私はウィリス未惟奈に出会ったときと同じくらい、目の前にいる原石に気持ちが高揚した。
彼女は、私が知る、どの格闘技でもない動きをした。私も中国武術のことはそれほど詳しくないけど、少なくとも芹沢薫子の動きは太極拳ではない気がした。
撮影後のインタビューで、おぼろげながら彼女のバックボーンが分かってきた。
中国名、李薫子。15歳まで中国河北省で育った彼女は、母親が日本人男性と再婚したことを契機に、日本に帰化したらしい。
つまり彼女の技術は本場の中国武術。
しかし彼女は「なんの武術を、誰に学んだのか」ということに関しては頑なに口を閉ざした。
実は古い伝統をいまだ残す古式の中国武術にはこういった面があるという。彼らは不用意に自分が学んだ流派を公言しない「秘密主義」を頑なに重んじる。
恐らく中国武術が最も実践で用いられた合戦、戦争。そこでは技が敵に漏れることは死に直結した……今の時代にはそぐわないが、きっとそういう危機管理が未だに伝統として残っているのだろうと思う。
そして私は彼女との別れ際、思わず口走ってしまった。
「あなた格闘技の試合に出る気ない?」
「は?何言ってるの?私、こう見えて24歳ですよ?」
「だよね……なんかあなたがリングに立つ姿がつい見たくなって」
私は社交辞令でもなんでもなく本心でそう言った。
「フフフ、あなた変わった人ね?女性でそんなに格闘技にのめりこんでいるとか」
「よく言われるわ」
そう言って笑いながら彼女とは別れた。
話してみればとても頭のいい、感じのいい大人の女性だった。
だから連絡先を交換して、私は定期的に彼女に取材をさせていただくことを承諾してもらった。
そしてこの時は、まさか二か月後にウィリス未惟奈の抜けた穴を埋めるために彼女にリングに立つことをお願いに来るとは想像もしていなかった。




