動揺に動揺して
俺は視線を、倒れた有栖から道場内にいるメンバーへと移した。
すると、視線の正面には未惟奈の姿があった。
遠目にも、彼女の表情ははっきりと分かった。
さっきの対戦で見せた「悔し涙」とは打って変わり、彼女は彼女らしく感情を顔いっぱいに表現し、満面の笑みを湛えていた。
そしてまた、ブルーの瞳から涙が零れているように見えたのは、俺の錯覚だろうか。
俺はその涙を見て、またしても不覚に胸を熱くしてしまった。
有栖の攻撃に無意識に反応する身体はありがたいが、未惟奈の表情に無意識に動かされてしまう感情には、ほとほと困り果てる。
俺は自身の、そんな測りかねる感情を一旦スルーして、天井を仰ぎ「はあ」と安堵の息を吐いた。
高校生チャンピオンに勝ったという浮ついた気分は、正直ほとんどなかった。
おそらく未惟奈の涙を見てから、彼女を悲しませずに済んだということに、俺は心底ほっとしたのだと思う。
その後、まず両手を取りガッチリと握りしめ、涙を流して祝福してくれたのは……。
未惟奈……ではなく、竜馬先輩だった。
ですよねえ……。
「俺はお前ならやると思っていたよ。先輩の俺としても鼻が高い。俺は最近試合に勝ててなかったけど、指導力に自信を持つことができたよ」
いやいや、俺、先輩から何か教わった記憶はないんだけど。
まあ、別にいいんだけどね。
「お、おい! 翔? お前ってそんなに凄い奴だったのか? マジビビったんだけど?」
今度は、未惟奈と一緒にいたかっただけの及川護が興奮気味に絡んできた。
「俺は空手のこと分からないけど、なんか翔が必死に頑張ってる姿に感動したよ!!」
いつもわざとらしいオーバーアクションをする護だが、この時ばかりは真剣な眼差しで称賛の言葉を浴びせてきた。
さて、未惟奈だ。
さっき、対戦中に視界に入った彼女は、俺が押されている時は悔し涙を、挽回した時には嬉し涙を流していたように見えた。
そんな「らしからぬ」反応の真意こそ確かめたかったのに、野郎二人にまんまと先を越されてしまった。
冷静に考えれば、アメリカナイズされた彼女のことだ。試合に興奮して涙を流すなんて、日常的なリアクションなのかもしれない。
そう思い直して、俺は改めて未惟奈に視線を移した。
すぐに駆け寄ってきた竜馬先輩や護とは対照的に、彼女と俺の間には不自然な距離があった。
対戦前にはあんなに煽っていたのだから、少しはねぎらいの言葉をかけても罰は当たらないはずなのに。
俺はそんな不満を持ちつつも、あまり深い思慮を働かせるのは面倒になり、つかつかと自分から彼女に近づいて行った。
「どうよ? やっぱ俺って凄くね?」
わざとらしいほどの「どや顔」で言い放ってみる。
「まあ、うん……」
未惟奈は一旦”ちらり”と俺に視線を向けたが、中途半端なリアクションですぐに視線を逸らしてしまった。
「おいおい? なんだよそのリアクション。師匠が勝ったんだからもっと喜べ! そして褒めろ!」
「バカじゃないの?」
視線を少しだけ俺に向け、どことなく表情を硬くさせている。
なんだ?
いつもの彼女らしくない反応に、俺は次の言葉を失ってしまった。
すると護が、いつものように俺を出汁にして会話に入ろうとしたのか、この微妙な空気をものともせずに”つかつか”と寄ってきた。
「未惟奈ちゃん、俺は素人だから分からないんだけど……翔って結構凄いんだね?」
「護?”結構”じゃなくて”相当”だぞ? 高校生チャンピオンを倒したんだからな。……なあ、未惟奈?」
「うん、まあ」
ほら、まただ。硬いよ、未惟奈。
全くなんなんだ、その気のない返事は。
この空気感も、二人きりなら耐えられなかっただろうが、護というおふざけキャラがいることで、少しだけ軽口を叩く余裕が生まれた。
「なんかさっきから未惟奈がこの調子なんだよ。おかしくないか? 師匠が快勝したってのにつれないなあ」
「べ、別にそういう訳では」
慌てたように返すが、その微妙な表情は変わらない。
「おい、翔。そこはちゃんと未惟奈ちゃんの気持ちを汲んであげろよ」
「は? どういうこと?」
「ほんと翔ってこういうところが鈍すぎて引くわ」
「護に言われたくないわ!」
俺にとって「鈍い」は地雷ワードだ。
普段から彼女に言われ続けている言葉だが、護にまで言われる筋合いはない。
まさか護に、今の未惟奈の表情の意味が分かるというのか?
「お前は対戦中だったから気づかなかっただろうけど、未惟奈ちゃん、泣きそうな顔で必死にお前のこと応援してたんだぞ?」
「え? そ、そうなのか……」
涙ぐんでいるのは見えたが、護の目から見ても「必死」だったというのは意外だった。
チラリと顔色を窺うと、ついに未惟奈は下を向いてしまった。
「ほらな、未惟奈ちゃんは照れてるんだよ」
「は? そうなのか? 未惟奈?」
「お、及川君! 余計なこと言わなくていいから」
顔を上げた未惟奈の肌は、透き通るような白からピンク色へと紅潮していた。
え? マジか。
照れてるのか? 柄にもなく。
予想だにしていなかった本音の表情を目の当たりにして、今度は俺の方が慌ててしまった。
「な、なんだよ。嬉しいなら素直に飛びついてハグしてくれてもいいんだぞ?」
動揺を誤魔化そうと軽口を叩いたが、いよいよ彼女の顔は深紅色にまで染まり、形のいい両目がみるみると吊り上がっていく。
すると、彼女は意を決したように急に距離を詰め、フローラルな香りが鼻腔を突くほどに顔を寄せてきた。
まさか本当にハグでもするのかと狼狽え、俺は身体を大きく仰け反らせてバランスを崩し、数歩後退してしまった。
「武道家がそんな簡単にバランス崩して、情けなくないの? それとも私の踏み込みが早すぎて反応できなかったとか?」
さっきまでの動揺が嘘のように、彼女は勝ち誇った顔でそう言った。
踏み込みの速さは知っていたが、この場合はスピードの問題ではない。あまりに大胆な接近に、心が追いつかなかっただけだ。
咄嗟に距離を取ったものの、有栖との対戦時よりも心拍が激しく波打っている。
なんで俺はさっきから、こんなにも彼女に心乱されなきゃならないんだ。
自分の動揺の意味が少しも理解できず、俺の頭はただ混乱するばかりだった。




