君に捧げたかったもの
チャンプアとの会話を終え、俺は自身のコーナーへと足を進めた。
そこには、すでにリングインしていた未惟奈と芹沢さんが俺を待っていた。
芹沢さんは必死に笑顔を作ろうとしていたが、その表情はまるで未知の怪物を目撃したかのように強張っている。
隠しきれないその引きつり具合が、不謹慎ながら少しだけ可笑しかった。
だが、その怯えを含んだ眼差しこそが、俺の戦いが「達者」の目にどう映ったのかを何よりも雄弁に物語っていた。
果たして、未惟奈は──。
芹沢さんとは対照的に、彼女は一点の曇りもない満面の笑みを浮かべていた。
驚きも、恐怖も、そこにはない。
ただ穏やかな表情だけがそこにあった。
「翔、ありがとう」
短い、けれど重みのある第一声だった。
その一言と、向けられた眼差し。
それだけで、俺が命を懸けて彼女に伝えたかった「答え」が、しっかり届いてくれたことを確信した。
俺が彼女に見せたかったもの。
それは、未惟奈を長年縛り付けてきた「スポーツエリート」という名の残酷な呪縛からの解放だ。
かつて彼女は、自嘲気味に溢していた。
「自分の努力で手に入れた技を出す前に、フィジカルの才能だけで勝ってしまう」と。
持って生まれたDNAという圧倒的な資本が、彼女自身の意志や血の滲むような研鑽を、無慈悲に塗りつぶしてしまう。
だからこそ、俺はそのDNAの極致、いわば「立ち技最強」の完成形であるチャンプアを、物理的な力ではない「別の理」で凌駕してみせる必要があった。
才能という枠組みに収まらない、武道としての、純粋な技術でだ。
それを証明するためには、チャンプアの「全力」を、この身に引き出さねばならなかった。
俺がただの「筋の良い高校生空手家」として手加減されてしまっては、彼女を救うための証明にはならない。
だからこそ、俺はあえて彼の逆鱗に触れ、その感情を激しく揺さぶるよう仕向けた。
果たしてチャンプアは怒りの化身となり、俺の想像すら凌駕する、暴力の嵐を繰り広げてくれた。
未惟奈に匹敵する身体能力を、ムエタイという鉄の規律で磨き上げ、さらには思考を介さない野生の本能で放たれる打撃。
これ以上に危険な攻撃は、この世のどこを探しても存在しえないと思えた。
だからこそ。
その絶対的な「才能」を、身体能力に依拠しない「技術」だけで無効化することに、意味があった。
こんなことを言えば未惟奈には怒られるだろうが、正直なところ、俺にとって勝敗などという結果は些末な問題でしかなかった。
「才能」という名の牢獄に閉じ込められていた彼女に、その壁を突き破る別の道があることを、俺の身体を通して示せればそれでよかった。
裏を返せば、たとえKO勝利を収めたとしても、この真意が伝わらなければ、俺がこのリングに立った意味は塵に等しい。
だから……。
ちゃんと伝わって、本当によかった。
その事実に、俺は心の底から安堵の息を吐いた。
「未惟奈、俺の気持ち……伝わっているみたいだな」
俺は彼女の笑顔に応えるように、静かに問いかけた。
「もちろんよ。私を誰だと思ってるの?」
未惟奈はいつものように不敵に、けれど愛おしそうに言い返した。
ただ、その強気な言葉とは裏腹に、彼女の表情はかつてないほどに凪いでいた。
あの夜、自室で不安に押し潰されそうになりながら「翔みたいになりたい」と零した彼女は、もうどこにもいない。
「か、翔くん……。それは、どういうことなの?」
隣で俺たちのやり取りを呆然と眺めていた芹沢さんが、震える声で尋ねてきた。
芹沢さんほどの実力者であっても、この瞬間の俺と未惟奈の間に流れる「真意」までは読み取れないのだろう。
これは、ずっと近くでこの日のために作り出した俺と未惟奈だけの物語だからだ。
それでも、俺はあえてその一部を芹沢さんに明かした。
未惟奈にあって、芹沢さんにはないもの。
それは、スーパーアスリートとして生まれたがゆえの呪いと、それを超克しようとする狂おしいほどの渇望だ。
芹沢さんにとってチャンプアの動きは「攻略すべき強敵」だったかもしれないが、未惟奈にとっては「自分を定義する残酷な限界」そのものだった。
「芹沢さんから見て、俺の戦い方はどう映りましたか?」
これは、俺自身の修行者としての純粋な好奇心だった。
未惟奈の目と、彼女の目。そこにどんな差異があるのか。
「私が感じたのは、一つだけ。私からすればチャンプアの攻撃は想定をはるかに超えていて、ただただ恐ろしかった。なのに、顔色一つ変えずにそれを受け流す翔くんの動きは……もはや、この世のものとは思えなかったわ」
芹沢さんは、苦笑いしつつ絞り出すように言葉を繋いだ。
「私に見えたのは、翔くんは戦っていたというより、激闘の最中にただ静かに『気功』をしていた。日本の表現を借りるなら、ただ『禅』の境地に座っていたように見えたのよ」
未惟奈と芹沢薫子。
どちらも武道・格闘技においても頂点に最も近い二人だ。
だが、競技としての「技の極致」に触れ、その先にある絶望的な壁に突き当たったことのある未惟奈は、俺がチャンプアのフィジカルを「無効化」した技術の本質を見抜いた。
対して、武道としての精神性を重んじる芹沢さんは、俺の精神が到達していた絶対的な「静寂」の境地を、見事に射抜いてみせた。
これに関しては、俺の理解すら及ばない、芹沢さんの大成拳伝承者としての卓見だった。
それを正面から指摘してくれる指導者がいたことに、改めて深い感謝の念が湧く。
彼女の導きがあったからこそ、俺の空手は数段高い領域へと至るための「土俵」を得ることができたのは間違いのない事実だ。
俺はチャンプアという巨星を退けたことよりも、今こうして未惟奈に想いを届けられたこと。
そして彼女が、その想いを余さず受け取ってくれたことに、心底「ホッ」としている。




