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「普通」という「異常事態」

 ゴングの後の「ダウン」。


 ルール上はダウン扱いではない。


 もしチャンプアがすぐに立ち上がって自力で戻っていたら、試合は続く。


 しかし、そうはならないだろうと思っていた。


 果たして、ドクターが即座にリングインし、審判は試合続行不可能とジャッジした。


 結果は、俺のTKO勝利。


 たった三分。


 しかし、お互いが繰り出した攻防はフルラウンドの死闘に匹敵するものだった。


 それだけの密度が、あの時間には凝縮されていた。


 そんな激闘を作り出したのは俺というよりは、チャンプアの尋常ならざる連続攻撃だったと言える。


 そして──


 俺は戦いながら、ずっと感じていた。


 半年前の俺なら、おそらくチャンプアに勝てなかっただろうと。


 未惟奈に出会う前、俺は「武道」という名のもとに、自身の空手を狭い世界に閉じ込めていた。


 競技空手というルールが存在する中での技術を、どこか否定的に見ていたのだ。


 それが、未惟奈という天才アスリートの身体能力に晒され続けた。


 実際の未惟奈との練習で、俺が彼女に引けを取ることはなかった。


 しかし、それはあくまで未惟奈の空手そのものの練度の問題だ。


 彼女の超人的な身体能力から繰り出される攻撃を捌き続けた経験があったからこそ、高野CEOをして「未惟奈に匹敵する」と言わしめたチャンプアの身体能力にも、圧倒されずに済んだと確信できる。


 そして中国武術の中でも特に「気」に特化した流派である大成拳。


 その大成拳の正当な継承者である芹沢薫子から直接指導を受けられたことも大きかった。


 この試合、俺の「練り足」によるレンジコントロールが多くの場面で功を奏し、チャンプアの変幻自在な高速のステップワークに対応できた。


 じいさんからは大気拳によって毎日実践はしていたが、この「練り足」の精度が劇的に上がったのは紛れもなく大成拳の鍛錬の賜物だ。


 むろん、チャンプアが最後に放った「気」による攻撃にしても、気の存在を知らない選手ならば、あれですべてを狂わされた可能性が高い。


 しかし、大成拳によって自分の得意な領域として処理することができた。


 未惟奈と出会ってからの半年間で、俺は自分自身の想像を超えた「高み」にまでたどり着けていたのだ。


 それに気づいたのは、まさにチャンプアとの戦いの最中だった。


 *  *  *


 意識を取り戻したチャンプアは、セコンドの肩を借りながら自身のコーナーへと戻っていった。


 俺は自分のコーナーに戻るより先に、その後を追ってチャンプア陣営の方へと足を向けた。


 コーナーに近づくと、俺の存在に気づいたチャンプアと目が合った。


 そして、チャンプアはすぐに口を開いた。


「神沼翔……とんでもないヤツだな」


 そう言ったチャンプアは、満面の笑みを浮かべて真っ白な歯を覗かせた。


 そこには試合前に見せた不遜な態度もないし、試合中に彼を支配していたであろう「怒り」の感情も、もうどこにもなかった。


 ただただ、チャンプアは穏やかな顔をしていた。


「俺も、ずっと必死でした」


 俺は正直な胸中を答えた。


 しかしチャンプアは呆れたように言葉を繋いだ。


「必死だった?そんな訳なかろう。君は終始、まるで本でも読んでいるかのような普通の顔をしていただろう」


 そうか、チャンプアの目には、俺がそのように映っていたのか。


「でも俺からすると、その状態こそが余裕のない、ギリギリだった証拠なんです」


 そうなのだ。


 俺にとっては、あの場において「普通」でいることこそが「異常な状態」であった。


 日常生活における俺は、普通の高校生らしく簡単に動揺するし、子供っぽく感情的になってばかりだ。


 俺に「普通」という「異常事態」を引き出したのは、チャンプアに追い立てられ、立禅の状態に持ち込まざるを得なかったからだと言える。


「俺には理解できない話だな。それも空手ゆえのことか」


「たぶん、そうなんだと思います」


 ムエタイという格闘技が、立ち技において極めて洗練された高度な技術体系であることは言うまでもない。


 だが、かつての日本が培った「禅」などの精神作用の技術を組み込んでいるか否か、そこにわずかな差が出たのかもしれない。


 今回の試合において、お互いの攻防は思考を介さず、無意識下で行われていた。


 チャンプアは感情の爆発によってそれを完成させ、俺は感情を抑え込むことでそれを完成させていた。


 つまり、アプローチの差ということだ。


「楽しかったな」


 そう言って、チャンプアは視線を天に向けた。


 それはまるで子供が楽しい思い出を反芻しているかのような、純粋な笑顔だった。


「最高でしたね」


 俺もその笑顔につられるようにして、自然と言葉が口をついた。


「また、いつかリングの上で楽しもう」


 そう言って、チャンプアは大きな右手を差し出してきた。


 俺はこの先、自分から積極的に試合に出ることはないだろうと思っている。


 しかし、このチャンプア・プラムックという生ける伝説との再戦なら、悪くない。


 だから──。


「そうですね。またいつか」


 そう言って、俺はチャンプアの掌を力強く握り返した。

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