残心
「そう来たか」
チャンプアがムエタイ以外の技に頼ることは想定していなかった。
だから一瞬、「おや?」とは思ったが、同時にそれは「そこまで追い詰められている」という事実を俺に晒してしまったことになった。
チャンプアが暴力的に、そして極めて執拗に俺を責め立てる連続攻撃。
しかし、これだけでは俺を仕留めきれないと判断したのだろうと俺は分析した。
大木ですべてをなぎ払うような威力重視のムエタイ技術だけでなく、チャンプアの技にはピンポイントを貫く精度があった。
これだけで、彼は並みのムエタイファイターとは一線を画していた。
しかし、その精度をもってしても、「針の穴を通す技」を極める俺の空手の技術体系を崩すことはできなかった。
いや、むしろその土俵は俺の最も得意とする領域であり、チャンプアには分が悪かったともいえる。
自身が繰り出すどんな攻撃をも、確実に捌き切る俺を前に、彼はその先に突破口が見いだせないと判断したのだろう。
精度の面では、すでにチャンプアが俺に勝ることはあり得なかった。
だからチャンプアが最後に見出したのは、「気」を使った攻撃だった。
しかし「その選択」をした瞬間こそが、チャンプアにとっての最大の不幸だった。
まず、「気」に携わってきた時間と質の決定的な違い。
俺は幼少期から大気拳を鍛錬し、芹沢薫子からその真髄を学んでいる。
チャンプアがたぐいまれな才能でようやく触れようとした領域は、俺にとっては馴染みのある日常の領域に過ぎなかった。
さらに決定的なのは、チャンプアが放った気の攻撃を、祖父の鵜飼貞夫が「一度だけ」俺に見せていたことだ。
未惟奈と芹沢薫子でじいさんのラーメン屋を訪れた時のことだ。
その時「いたずら半分」と言って見せた「気の球を投げつける」というあの芸当。
大成拳の伝承者である芹沢薫子をして「銃弾を撃ち込まれたと思った」と形容させ、いまだにトラウマ体験として語らせる“気のボール”という攻撃。
その日、俺もの技を食らって、あっけなく沈んだ経験をした。
だからこそ、その技は俺にとって既知のものだった。
それが、この土壇場で大きな意味を持つ。
俺は一度見た技を、二度ともらうことはない。
もしかすると、じいさんはチャンプアがこうした攻撃を繰り出すことを予見して、あの時に俺へ技を見せたのかもしれない。
生まれつきではない。
ある時から、俺は技の分析が一瞬でできるようになり、一度見た技はまるで脳の貯蔵庫に格納され、いつでも引き出せる状態を意識的に作れるようになっていた。
俺の特異な才能かもしれない。
しかし、これは天賦の才という安っぽい言葉で片付けられるものでは決してない。
果てしない反復の末に、頭と体に刻み込まれた技の数々が、即座の解析を可能たらしめているのだ。
皮肉なことに、ムエタイの技ならば一切の隙を許さなかったチャンプアが「気」を扱ったことで一瞬だけ淀んだ。
本人には刹那の“溜め”にしか感じられないだろうが、その重さは致命的な隙となった。
観客の目には、怒涛の連撃が途切れたことすら気づけないほどの一瞬。
しかし、俺はその瞬間を見逃すほど甘くはない。
チャンプアが放った渾身の「気の圧力」を、俺は左掌の捻りで後方へと受け流した。
ほぼ同時にその左掌を拳へと翻し、そのままチャンプアの鳩尾へとめり込ませる。
中段突き。
空手において最初に教わる、最も基本的な技。
しかし、それを極めたとき、その拳はどの技よりも恐ろしい凶器と化す。
しかも「その場所」は、チャンプアの気が「塊」として密度を保っていた場所だった。
「気」を外へ放った瞬間、内部の支えは空洞化し、防御が抜ける。
そのタイミングにおいて、そこは最も脆い急所となっていた。
俺の中段突きが鳩尾を貫いた瞬間、チャンプアの攻撃速度が明らかに落ちた。
「決まったな」
そう確信した。
しかし、なぜかチャンプアの動きは止まらなかった。
それはまるで、彼の本能が負けることだけは許さないと叫んでいるような、鬼気迫る感情の噴出のようでもあった。
ゆえに最後まで、俺とチャンプアの間で繰り出される打突音だけがアリーナに響き続けていた。
そして──。
ついに第一ラウンド終了のゴングが鳴った。
俺とチャンプアはリング中央で対峙していた。
ゴングと同時に俺は右足を一歩引き、静かに残心を取った。
異変は、その直後に起きた。
ゴングから数秒後、チャンプアの両膝がガクリと折れ、そのままうつ伏せに倒れ込む。
俺の鳩尾への一撃が入った瞬間、意識は途絶えていたはずなのだ。
ただ、負けることを拒み続けたムエタイ王者のプライドが、ゴングが鳴るまでその体を突き動かし、戦いを継続させていたに過ぎない。
* * *
おそらく、誰もこの現実をすぐには理解できなかったのだろう。
ただただ、会場は静まり返っていた。
無敗のムエタイ王者が崩れ落ちるなかで、たった一人。
試合直後とは思えないほど「普通の顔」で立っている少年がいた。
その、どこにでもいそうな高校生が無敗の絶対王者に勝利した。
その冷徹なまでの事実だけが、呆然とする会場に取り残されていた。




