光速の先にある違和感
「俺にこんな攻撃ができるのか?」
人智を超えた猛攻を繰り出すチャンプアに会場が驚愕する中、その威力に誰よりも驚いていたのは、他ならぬチャンプア本人だった。
足払いで転がされ、膝蹴りでダウンまで奪われた。
「格闘技」という土俵において、彼は生まれて初めて「屈辱」という毒を味わった。
歴代ムエタイ戦士の最高峰、あるいは全格闘技界の頂点に君臨しているという絶対的な自負。
その確固たるアイデンティティを根底から揺さぶられた反動は、あまりに大きかった。
格闘技界のレジェンドといえど、チャンプアもまだ二十代の若者に過ぎない。
傷つけられたプライドから過剰なまでの怒りが沸き起こるのは、仕方のない反応といえた。
だが、その激情をそのまま「攻撃力」へと昇華させてしまった点にこそ、チャンプアの天才性があった。
ゆえに、彼はこれほどの自分を引き出してくれた神沼翔という空手家に、ある種の感謝すら覚えていた。
もっとも、その先にリスペクトを抱けるほどの心の余白は、今の彼にはない。
ただ、自分に屈辱を刻んだ対戦相手を完膚なきまでに叩き潰す。
彼を突き動かしていたのは、純粋で暴力的な衝動だった。
「それでも、この高校生は俺の攻撃を捌き続けている……」
そんな得体の知れない違和感にチャンプアは気づきつつあった。
確かに数センチ単位の精度で「ずらして」いたはずの翔の打撃は、少しずつ、確実にチャンプアの急所へと肉薄していた。
しかし、チャンプアの放つ一撃の数々がその事実を覆い隠してしまった。
これほどの猛威に耐えうる人間が、この世に存在するはずがない。
そんな全能感が彼を包み込んでしまっていた。
この万能感は、並の選手であれば巨大な威圧感となって圧殺されるほどのものだっただろう。
しかし、神沼翔が立っている場所は「並」ではなかった。
彼はすでに立禅と変わらぬ精神状態にあり、その攻防もまた、無意識下で繰り出されていたからだ。
翔はかつて、チャンプアを凌ぐほどの感情の渦に晒され続けてきた。
未惟奈というスーパーアスリートが放つ圧倒的なオーラ。
それを受け流し、制御する訓練を積んできた彼にとって、この種の「威圧感」は既知の領域だった。
大成拳という技術が、チャンプアの放つ「怒り」の波動を容易く霧散させていく。
翔にとってこの戦場は、どこまで行っても「日常」であり「普通の空間」に過ぎなかった。
その翔の異常さをチャンプアは、魂のレベルで察知したのかもしれない。
だから、チャンプアはこのまま泥沼の長期戦に持ち込むわけにはいかないという意識が芽生えていた。
事実、鍛え抜かれた肉体といえど、最大出力を維持できる時間には限りがある。
それは人間である以上、決して超えられない壁だ。
ついにチャンプアは、限界が訪れる前に「極め」にかかるという決断を下す。
刹那──。
隙の少ないミドルやロー、近距離のパンチや肘の連打というこれまでの流れを断ち切り……
彼は自らが食らった「テンカオ」――上段への飛び膝蹴りを選択した。
その速度は、チャンプアの渾身の一撃であるがゆえに、これまでの光速の連撃すら凌駕した。
針の穴を通すような精密さで、翔との最短距離を貫こうとする。
誰もが「終わった」と息を呑んだ。
その絶対的な速度とタイミングを前に、チャンプアの勝利を確信しない者などいなかった。
しかし、バランスを崩したのは、またしてもチャンプアの方だった。
膝が顎に到達する、まさにその直前。
翔は重心を後ろ脚へと預けながら、左フックを放つ要領でチャンプアの膝そのものに拳を叩きつけた。
左サイドから振り抜かれたその拳が、全身の力が集中した膝の威力を薙ぎ払った。
チャンプアの身体は大きく泳ぎ、止まることを知らなかった苛烈な連撃がついに途絶えた。
しかし攻撃の手は止まったが、チャンプアの「オート攻撃モード」はまだ死んでいなかった。
一瞬の空白の中で彼が取った行動は、翔の予測をも裏切るものだった。
チャンプアは、試合前に美影壮一が指摘していた、腹部に蓄積された「気」の塊。
それを解放した。
まるでボールを投げつけるかのように。
そう、かつて鵜飼貞夫がラーメン屋で芹沢薫子や翔に見せた、あの不可解な技。
ムエタイの化身であるはずのチャンプアが、その一撃を放ってきたのだ。




