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扉が中から開かれる。俺はヴェルエナの肩に顎を乗せる。こうすると前を見るのが楽だった。扉を開けたのは気の弱そうなオッサンだった。真面目なだけが取り柄ですといった顔だ。見慣れた男。父親だと直感した。
「おかえり二人とも」
「おかえりなさい。アリシア、大丈夫だった?」
奥のベッドに腰掛けるくすんだ髪色の女。ヴェルエナを成長させて若干老けさせたような顔をしていた。つまりかなりの美女。これは記憶が無くても母親だと分かる外見だ。それにしても、なぜ二人とも俺を見ると一瞬笑いそうになるんだ。泣くぞ。
「ただいまー。元気だよ」
「すっごく元気だった。多分診察院に担ぎ込まれる前よりも。……ああでも、驚きすぎて腰が抜けちゃってるみたい。おぶって来ちゃった」
いや、お前のせいだろ。その言葉をぐっと堪える。なにか言いたそうな俺と、やけにハイテンションのヴェルエナに両親は苦笑いした。多分察したんだろう。顔が熱い。自分の腕を見てギョッとする。ちょっと赤くなっていた。
これ恥ずかしさが最高潮に達したら、全身茹でガニみたいに真っ赤になるんじゃないだろうな。それは可愛らしいとか、微笑ましいを通り越してホラーだぞ。俺がそんな奴見つけたら、暫く観察してから救急車を呼ぶ。
「ああー。背中が温い。アリシア温い」
部屋に入るも、ヴェルエナは俺を降ろす気配がない。
ヴェルエナがうっとりと言う。こいつはもう色々と駄目だ。狂ってやがる。医者が治療を諦めるレベルだ。なんで顔は良いのに、頭がぶっ飛んでるんだ。おかしいだろ。
「ヴェル? アリシアを降ろしてあげないか?」
父親が恐る恐ると言う。母親は優しい目で俺たちを見つめている。目じりを下げて俺たちを……凝視してる。ああ駄目だ。この母親ちょっと興奮してる。シスコンの姉とそれに捕まる妹見て興奮してるよ。
――父さんしかまともなの居ないよ。この一家。
そう痛感する。ヴェルエナのぶっ飛び具合はこの母親からの遺伝だと確信した。
「いやあ。アリシア腰抜けちゃってて立てないからさ」
「座るか寝るかするから降ろしてよ」
「…………」
「降ろしてあげたら良いんじゃないかな?」
なんか言えよ。ヴェルエナの腹を強めにぺしぺし叩いて抗議する。父親はただただ狼狽えていた。実の娘にすらビビるのか。アリシアの記憶では、父親はいつも裏方に徹していた。確実に気が弱いのが原因だろう。
「アハハハ。くすぐったいってえ。もうマッサージは良いよ」
俺の渾身の抵抗がマッサージ扱いだ。これはかなりショックだった。そうかあ。マッサージか。ゴリラ女め。ならばこれならどうだ、とじたばた暴れる。小学生が背中で暴れるんだ。背負うにはきつかろう。
「うわっ落とす落とす。危ないって!?」
「いいから降ろしてってば!」
ヴェルエナが慌てて俺を降ろす。若干ふらつくが、きちんと両足で立ち、胸を張る。我ながら薄い胸だ。もう少しあれば揉み心地も良かったものを。姉をギロッっとにらみ床を一回踏み鳴らす。下の人への迷惑とか知らない。ただこの怒りを姉にぶつけられればそれでよかった。
「わたしさっきからずっと止めてって言ってる事ずっとやってるよね! ヴェル姉は何なの? ずっと嫌だって言ってるのにそればっかりやっててええ!?」
「いきなり何!?」
「か、かかかか母さん。そ、それ。それえ……」
わたしは母さんが持っているモノを指さした。
「えっと……お魚だけど?」
「しゃかなっ!?」
髪の毛がぶわっと逆立った気がした。
「髪の毛が凄い……」
やっぱり逆立ってたみたい。
「ええ……アリシアの好きな焼き魚。御夕飯にしようって買って来たんだけど……」
母さんは私に見せた。
「それ見せないでえ……」
へなへなと腰が抜け、床に尻もちをつく。思い出す魚の大きな大きな口。生臭くて真っ暗だった。冷たく湿っててぬるぬるして、気持ち悪くて吐きそうで。
「ひえええええ……」
全力で逃げなくちゃって思った。
今思い出した記憶を見て見れば、俺、というかアリシアは魚に食われたらしい。なるほど。そりゃ笑える。でっかい魚にぱっくりと。振り返ってみれば、腰まで飲まれた魚が陸でびったんびったんとアリシアを咥えたまま跳ねて、アリシアも一緒に足をじたばたじたばたと。
笑えるのか悲惨なのか、そりゃ看護婦も笑うだろうさ。そんなアホな状況あんまりないぞ。
気が付くとヴェルエナの膝の上でグスグス鼻をすすっていた。両親は心配そうにこっちを見ている。魚は見えない。仕舞い込まれたんだろう。ヴェルエナは俺の頭を優しく撫で続けている。
柔らかい背中の感触や、温もり、安心する匂いがした。体重を預けると腰に回された腕に力が入った。
「落ち着いた?」
ヴェルエナがゆっくりと言う。俺は頷いて一言、
「うん」
と返す。涙声だった。アリシアのメンタル弱すぎやしないか?
俺以外の全員がほっと息を吐いた。母親は笑顔を浮かべて言う。
「ごはんにしようか」
出されたのはアリシアが食べなれた干し肉や硬いパンだった。ご馳走とはとても言えない上に、日本の料理に慣れた俺にとっては、口が裂けても美味いとは言えない味だった。ただアリシアにとっては、ある意味母の味らしく、気が緩んだのだろう。食べる途中でまた涙をぽろぽろとこぼしてしまった。
この日はこの漁港をに居る最終日だったようだ。旅支度やらなんやらと、やることをさっさと済ませると早々と寝るのがこの一家だった。俺も出来るかと心配したが、アリシアの体の方が覚えていたおかげで、特に手間取ることなく支度を終えた。
ベッドは二つ。家族は四人。寝るには二人組に分かれる必要がある。いつもはヴェルエナと寝ているアリシアだったが、さっきキレたのが効いたんだろう。おずおずと言った様子で
「一緒に寝ても良い?」
と聞いてきた。俺は黙って頷いた。
流石に抱きつくという事はせず、互いに狭いベッドの端に分かれて寝る。と言っても、狭さは半端じゃなく、かなり密着する。俺は壁側だった。ヴェルエナは通路側。なんだか気まずくて、片頬を壁に付けるようにしていた。
暗い天井を見上げる。外からは酔っ払いが騒ぐ声が聞こえる。栄えている港町。眠らない街なんだろう。天井裏から足音。小動物の様だった。多分ネズミだろう。
マットレスなんて上等なものじゃないから、寝心地は大分悪い。だがアリシアの経験から、これが普通だと感じる自分も居る。
今日一日を振り返る。年に一度。魚の群れが押し寄せてくる時期があるこの街にやってきて、姉妹だけで見物してて、そして魚に呑まれる。そして俺がここに居る。アリシアの記憶には、俺の存在なんてこれっぽっちもない。俺はイレギュラーだ。居ない筈のモノだ。
アリシアの顔で接して、アリシアの声で喋り、アリシアの動作で振る舞う。俺は一体誰だ? ヴェルエナやこの両親が向けてくる愛情は、全てアリシアの物で俺じゃない。
彼女たちからの親愛を受ける事が、申し訳なくて仕方なかった。そりゃそうだろう。ヴェルエナからしたら、妹の中身がそっくり訳の分からん奴に入れ替わっているんだから。いや違うか。俺は自分の喋り方を意識している訳じゃない。
俺は自分を俺と呼ぶ。わたしなんて呼ばない。でも会話だとわたしと言う。それにパニック状態になった時、明らかに俺の思考がアリシアの物になっていた。
記憶にある日本には、多重人格というのがあった。俺は多重人格なのか? アリシアが魚に食われた拍子に生まれた。となるとある程度の説明がつく。
「お姉ちゃん」
え? 俺が言ったのか?
無意識だった。気が付けばヴェルエナの方を向いていた。小さく甘えた声で呼ぶ。記憶では、アリシアは今より小さい頃、ヴェルエナをお姉ちゃんと呼んでいた。その呼び方、口調だった。
「なに?」
ヴェルエナも小さい声で返した。こっちを向いたのがぼんやりと見える。
「さっきはごめん」
「こっちこそ」
俺は特に抵抗もせず、口が勝手に動くのに任せた。恥ずかしくないと言えばウソになるが、この体の持ち主であるアリシアの望むとおりにしてやろうと思ったんだ。
「その……お姉ちゃん。大好き」
あ、やっぱり抵抗すれば良かった。今のは駄目だ。恥ずかしすぎる上にヴェルエナが暴走する。
「……ねえアリシア、そっち寄っていい?」
止めろ。マジで貞操奪いかねんぞこの姉、と抵抗しようとしたが無駄だった。というか無意味だと気が付いた。そんな雰囲気じゃなかったからだ。ここに邪魔者である俺が入るのも無粋だと思った。
「良いよ」
ヴェルエナがそっとアリシアを抱きしめる。アリシアも甘えた声を出しつつ抱きついた。
「お休み」
「うんお休み。アリシア」
ヴェルエナの胸に顔をうずめ、そっと目を閉じた。
「ねえ。ヴェル姉」
「なに?」
「我慢してたんだけど、漏れそう」
「え?」
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