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今もしも、お前は一体どこの誰だ、という質問をされたら上手い事答えられないだろう自信がある。俺は確かに男で、今は西暦二〇一八年の四月だって覚えている自分が居る。学校だったか仕事だったかは分からないけど、それの休みに家の近くの総合病院に健康診断に行ったって記憶もある。
ただそれだけ。
名前も覚えてない。職業を知らない。男で日本人。それしか覚えてない。
それなら記憶喪失なんじゃないか、と思うけど、物事はもう少し複雑だ。俺にはアリシアという少女として暮らしてきた記憶がある。というか、物事がなんとなく分かる。顔を見れば、あれは姉、これは母親、このオッサンは父親っていう具合で理解できる。話題を振られれば、昔何をしたのかっていう記憶も浮かんできて返答できるし、それなりに会話にもついて行ける。
男時代は英語というか、外国語全般が壊滅的だったのに、今じゃ二、三か国語はペラペラだ。と言っても大抵共通語っていう複数の国に跨って使われている言語がメインだけど。
アリシア、つまり今の俺は旅商人というか、流浪の民で定住地が無い一家の末娘、っていう知識もある。
つまり、俺はある意味記憶喪失の日本人の男なのか、それともこの訳の分からん地域に暮らすアリシアという少女なのか、自分でもよく分かっていない状態だ。
そんな俺でもはっきりと分かる事が、一つだけある。
「ほーら手を上げて。こう……ぐいーっと」
「絶対いや」
今重大な危機に直面しているって事だ。
アリシアも記憶が混乱しているのか、俺がこの漁港(アリシアの記憶では)の診察院に居る理由がなんなのか、さっぱり分からなかった。怪我無し病気無し、気絶から回復という事でここに居る意味もない。つまり、この病人が着る服を脱いでさっさと宿に戻ろうという話になった。
「早い反抗期かな……いつもは素直に脱いでるのに」
「いつもって何年も前の事でしょうが!」
姉のヴェルエナが嬉しさ半分寂しさ半分といった口調で言う。俺はと言うと、
「自分でできるって言ってるよね! あっち行ってって言ってるじゃん!」
「これは姉の仕事で妹の義務なのよ。私はね、正当な権利を! 使命を! 責務を! 行使しようとしているだけなのよ! 決して他意は無いの! だからお願いよ。私に脱がせてちょうだい!」
「本音は?」
「妹の体拭いてあげるの最高よね」
しみじみと言った。
――あ、やっぱりこいつ頭いかれてやがる。
やたらと妹重いもとい、妹想いの姉に脱がされてたまるかと両手でひしっと自分を抱きしめていた。自分で言うのもなんだけど、結構感触が良くていい気分だったりする。抱き心地良し、見た目良し。こりゃ将来化けるぞ。
これで性格が良ければ完璧な美少女だったんだけどなあ。アリシア視点じゃなくて俺視点から考えると、こいつはあれだ。中身が残念なタイプだ。
まあそれも多分許容範囲内。俺が男のままだったら惚れてたと思う。
舞台は診察院の裏庭の井戸。布を吊り下げてカーテンにした一角。当然周囲には人が居る。
「仲の良い姉妹ねえ」
「ほんとそうね」
「そういう恥ずかしい事大声で叫ばないでって、前から言ってるよね私!」
ヴェルエナの頭おかしいセリフを聞きつけた連中が、くすくすと笑う声。俺の顔が熱くなる。多分耳まで真っ赤になっているんだろうと思う。
「まあまあそう言わずに。風邪ひいちゃうから早く拭いてお着換えしようねー」
「姉さんが私の視界から消えてくれたら自分でやるよ」
「なるほど。目隠しすれば良いのね」
「そういう事じゃないってさあああああ!」
姉が一歩前へ。そんなに広くない水浴びスペース。肌が触れ合いそうな距離。アリシアの本能なのだろう。ぴくりと一回大きく肩が跳ね、プルプル小気味に震える。俺のメンタルはこんなに弱かっただろうか。涙目でヴェルエナを見上げる。
――怯えた様子を演出し、良心に訴えるべし!
本能の叫びが聞こえた気がした。アリシアよ。お前やっぱりいい性格してるよ。これは……自画自賛になるのかな?
「アリシア……そんなに……」
ヴェルエナの動きが止まった。何かに耐える様に、ぐっと顔を歪ませる。硬くタオルを握りしめた白魚の様な拳が、フルフルと震える。これはあれだろうか。効果あった感じだろうか。なら次からもジャンジャン使っていこう。
「アリシア……あなた」
「ヴェル姉?」
ヴェルエナが理性を投げ捨てた。
「その表情はね、その顔はね」
動きが静止する。周囲の風が、音が、すうっと遠くなる。あ、これ駄目な奴だ。姉を死んだ目で見る妹がこの世に居るだろうか。少なくとも居る。ここに一人。アリシアって名前の少女が。
見上げる姉はとっても大きくて、そして
「とっても卑怯なのよおおおおお! ああなんて可愛らしい!」
とっても変態に見えました。
肉食獣に狙われた小動物の気分ってこんな感じなんだろうなあと思った。ただのヤバい奴と化した姉の手がゆっくりとスローモーションで近寄って来る。
記憶が無いからか、それともこんなアホな状況ではやる気が出ないのか。走馬灯が流れる気配もない。多分走馬灯さんは、家でテレビ見ながら煎餅齧ってるんだろう。こう……四畳間に茶たく置いて、畳に横になって。
貫頭衣が一瞬でひん剥かれる。姉に貞操の危機を感じる妹が世の中に居るだろうか。ここに居る。アリシアって名前の少女が一人。
「きゃああああああ!」
記憶もない、そもそも自分が実在していた人間なのか、それともアリシアって少女が生み出した架空の存在なのかすら分からない。
それでも分かる事がただ一つ。この姉がやばい奴だって事だ。
「うぐう。えぐっ。うううううう……」
「ごめんごめん。やりすぎちゃった」
ヴェルエナの背中で泣き崩れる。何故って? そりゃ腰が立たないからさ。ヴェルエナは実にお上手だった。色々最高だったけど最低だった。大興奮したシスコン程怖い生物は無いってはっきり分かった。女の体ってこうなってるんだね。初めて知ったよ。知りたくなかったけど。
いや、別にエロい事をされた訳じゃない。普通に体洗って髪を拭いて貰っただけ。ただ、こう……ツボというか、こっちがこう、やって欲しいところを的確に刺激してくる。こりゃ金取れるぜ、って思った。
多分これが俺の初めての女体経験。元男としてとっても屈辱的だ。屈辱の極みだ。
「ヴェル姉のバカあ。大嫌い。あんぽんたん。おたんこなす……。大根足!」
「なんで大根足だけ声張り上げるの!? 細いよね? カモシカの様な脚でしょ? ほらほら見て見て!」
騒ぎだしたヴェルエナに周囲がざわつく。今は家族が泊っている宿へ向かう途中のメインストリート。港町らしく潮の匂いに、レンガの街並み。かなり賑わっている。そこで突然スカート片手でたくし上げて足を見せる美少女。当然注目を浴びる。
「うわああ落ちる落ちる。痴女に落とされる! シスコンの痴女に! 可愛い妹が落とされるう!」
「え? あ、ごめん! というか痴女じゃないから。私痴女じゃないから! というかシスコンってどこの言葉?」
ヴェルエナは咄嗟に俺を抑えると走り出した。集まる視線が恥ずかしかったんだろう。良い意趣返しになったと、ちょっとにやける。
それにしてもヴェルエナはかなりのバカ力の持ち主だと思う。だって俺の必死の抵抗も片手間で抑えるわ、中学生くらいにしか見えないのに、小学校低学年から中学年あたりの体格の俺を、あっさり背負って元気に走りまわるんだから。筋肉が有るわけでもないし。
現代人と、見たところ中世、近世程度の文明であるこの場所の住人。そもそもの身体能力が違うのかね。それか俺が特別非力で、特別軽いってだけかのどちらかだ。
姉の全力疾走の甲斐もあり直ぐに宿に到着。建物を見た瞬間思った。かなり小さいって。二階建てだが、隣の倉庫や店の方がよっぽど大きくて立派に見える。奥行きでカバーするタイプの宿なのかね。
姉が扉を開けた。ぎいっと軋む。中はやっぱり薄暗かった。両側を建物に挟まれ、その上窓も小さい。採光窓が採光できていない。潮と魚の匂いが強烈で、なぜか危機感を感じる。魚が嫌いだったのかな。俺かアリシアは。
カウンタ―の中に座る皺だらけの婆さん。多分受付、にヴェルエナは近寄って大きく息を吸った。
「町一番の美人で看板娘のお姉さん! うちのお父さんとお母さん帰ってきてますか! 二階の三号室のガソッド一家です!」
え? 美人? お姉さんって歳か? というかアリシアの苗字ってガソッドっていうのか。
婆さんはちらりと俺たちを見ると、手元の帳簿をめくった。じれったくなる様な遅さだった。姉は俺を背負い直すついでに、尻を揉んだ。今の俺は姉と同じような長いスカート姿。下着は紐で結ぶ短パンみたいなやつで、まだスースーしないのが救いだった。
これがノーパンだったら俺、多分キレてたと思う。
「アハハ。くすぐったいよもう」
仕返しに腹を軽く叩いたら、撫でたと勘違いされた。おのれ……。
「ガソッドさん……帰ってきてますよお」
間延びした声で婆さんは言った。なんだか眠たくなるようなのんびりした声だった。
「なら鍵は開いてますね。ありがとうございます。お姉さん」
「はいはい。良い夜をねえ」
ヴェルエナははきはきと答えると、二階の階段を登っていった。結構急な階段で、しかも一段一段の幅が狭い。落ちたら俺、下敷きになるなあと少し怖かった。というかあの婆さん。結構な歳だけど、二階上がるとき大丈夫なのかな、と心配になる。
二階の廊下は狭くて、両側に扉が並んでいた。奥行きもそれほどではない。アリシアの家族が泊っているのは大部屋ではなくて個室みたいだった。一番手前の多分二階の一号室をちらっと見た。狭い部屋に、狭い荷物置き場。後はベッドが二つ。ううむ、ウナギの寝床だこれ。
隣の二号室。閉まっているが大きなイビキが聞こえる。とてもうるさい。
三号室。扉は閉まっている。中から男女の声。行くか行くまいかで悩んでいるみたいだった。ヴェルエナはドアを軽くノックし、朗らかな声で言った。
「ただいまあ」