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「こっち来るな化け物おおおお!」
どこまでも続く砂地を走っていた。
全力疾走だけどあまり速度は出ない。足場が悪く、何度も転びそうになる。後ろから追いかけてくるのは粘液を垂れ流す、醜悪な見た目の敵だ。足を器用に使って、かなりの速度で走って来るのだから堪ったものじゃない。
嫌だ。絶対に捕まりたくない。捕まったら確実に餌になると分かっている。
敵は砂地を走るのに慣れているらしく、姿は少しずつ大きくなっていく。冷汗が止まらない。開いた口から涎が流れるのを拭う事も出来ない。そんな余裕が有るなら、全部速度に転換して逃げなきゃならない。
ここまで悪臭が漂ってくる気がした。そっと振り返る。お互いの距離は二十メートル。
相変わらず臭そうな見た目だった。風呂に入れ。いや、入ったら大惨事なのかもしれない。温水に弱そうな見た目だし。
べしゃべしゃと水音が。相手はずっと一定の速度で走る。でも俺はそうはいかない。息が上がって疲れもするし、スピードも落ちる。そもそもチビの子供で、歩幅が普通より小さい。追いかけっこが出来ている段階で火事場のバカ力と言うか、生命の神秘を感じる。人間のポテンシャルってすごい。
もう限界だ。足が棒の様だ。ヴェルエナはどこに行った。あの姉なら大抵の事はどうにかしてくれそうな気がする。でもここには居ない。なら自己解決だ。俺はもう走れない。だったら、迎え撃つしかない。俺が出せる最高の攻撃力だ。走ってきた奴の急所に思いっきり右ストレートを叩きつける。幸い俺より少し大きい程度の身長。十分射程圏内だ。敵をここで迎撃し、無力化する。それより他に道は無い。
頑張れ俺、頑張れアリシア。自分で自分を応援する。
勇気を出して足を止め、くるりと振り返る。敵は相変わらず、マラソンランナーの様な良いフォームで走ってきていた。
気分は短距離走者か? 残念だな。レースはお終い。異種格闘技の時間だ。
極度の緊張で、時間がゆっくり流れている気がした。体の震えが止まらない。今すぐにでも踵を返して逃げたい体を押しとどめ、迎撃の構えを作る。
見ててくれよワン老師。自称仙人の貴方に教えてもらった必殺の一撃。とにかく凄い右パンチを出す時だ。天地照覧。美少女の本気をとくと見よ。
あの独特のテカリが有る肌を見よ。気持ち悪いだろう。体の震えが止まらない。鳥肌は治らない。まずいな、泣きそうだ。でもここで諦めたらどうなる? 俺が負けたら? そしたら奴の餌だ。やるしかない。殺るしかないんだ。
硬く握りしめたつもりの、アリシアのぷにぷにのお手々に、はあっと息を吹きかける。少し右半身を後ろにし、構える。
キッと迫りくる敵を見据える。
敵は手足が生えていた。魚の体から直接、手足が生えて、そしてランナーの様な芸術的なフォームで走っていた。巨大なブリのごとき肢体。まさしく魚人だ。時々エラから水を噴出し走る醜悪な姿よ。俺は、わたしは、魚が嫌いなんだよ。
この震えは恐怖ではない。武者震いだ。敵と目が合った。
あの眼を見てみろよアリシア。凄いぞ。とっても透き通って綺麗な目をしているんだ。死んだ魚の濁った眼じゃない。明日への希望に満ち溢れた明るい目だ。
――今だ。
インパクトの瞬間、威力が最大になる距離。間合い、角度。その時が今だ。全力の右ストレートを敵に叩きこむ。手ごたえは十分。敵は吹き飛び情けない悲鳴を上げる。
「痛てえ!?」
「え?」
聞きなれた男の声だった。
いつの間にか閉じていた目を開ける。まだ眠くてぼやける視界。でも見事に突き出した俺の拳は良く見える。頬を押さえて涙ぐむのはアリシアの父。
どうやら俺は寝かされていて、そして寝ぼけて父親をぶん殴ったみたいだった。
「あー……父さん。なんかごめん」
寝ぼけた声が出た。
「父さん大丈夫? 結構良いの入ったけど」
「いや、良いんだヴェル。元気で良かったよ……。ほらアリシア。村に着いたからまた寝よう。ぐっすりと、良い夢を。出来れば暴れてくれないと嬉しいけどね」
父は片方だけ綺麗に赤く染まった頬をさすりながら言う。
そういう訳にはいかないだろう、思いっきり顔面をぶん殴ったんだから、と。何か言おうとしたけど駄目だった。適度に暗い部屋と清潔なシーツは魅力的で、それなりにフカフカなベッド。落ち着く木の匂い。俺の脳はまだ寝足りないとしきりにがなり立てている。
「そうそう、一緒に居てあげるから安心して寝てて良いよ」
「でも……。そう、それじゃあ、おやすみ」
ヴェルエナがそっと薄手の毛布を掛けてくれる。ひんやりと冷えたそれが火照った身体に心地よくて、これまた眠気を誘う。そっと瞼を閉じ、微睡に身を任せる。それなりに柔らかい枕にグリグリと頭を押し付ける。頭を撫でられる感触。柔らかくて温かいヴェルエナの手だ。
目を開けると真っ暗で、しかも体が動かなかった。心臓は早鐘を打っている。焦ったと同じ感覚。訳が分からない謎の恐怖感に襲われていた。
誰かが俺を抱きしめて肩の火傷した部分を撫でていた。
一瞬ギョッとしたけど、何故か不快ではない。ほんのり甘くて良い匂い。華奢だけど柔らかさがちゃんとある、そんな感覚だ。反射的にぎゅっと抱き着いてしまう。
そうすると安心感がある。胸元と思われる場所に顔をぐりぐりと押し付ける。
幼いと笑うなら笑え。こっちは死ぬ物狂いだったんだ。
俺が起きたと分かったんだろう。背中をポンポンと叩いていた手が俺の頭を撫でる。
「ああ、ごめんね。起こしちゃった?」
「んー。嫌な夢を見た」
自分で出したとは到底信じられない程甘えた声が出た。ヴェルエナにぎゅっと抱き寄せられる。その時、ヴェルエナに足を絡めている事に気が付いた。
「どんな夢?」
「魚」
ああ、とヴェルエナは苦笑いをした。
こういう場合、虫にでも追いかけられた夢を見るのが適切なんだろう。なのに見たのは魚。しかも魚人というシュールな夢だ。客観的に見ればコメディだろうけど、俺にとっては立派なホラーだった。
ヴェルエナが撫でる肩が痒くて身じろぎをする。掻きむしりたい衝動。
「駄目だよ。掻いちゃ治らないよ?」
「でもぉ……」
「だーめ」
ヴェルエナにそっと押しとどめられる。痒いところに表面を優しく撫でる感覚。くすぐられている様な物だ。かなりきつい。
「わたしが掻いちゃだめなら、お姉ちゃんが掻いてよ」
「いやあ、掻いちゃダメなんだよね。もう少ししたら掻いて良いから」
もう少しじゃなくて、今が良いんだよと、視界の端に肩を捉える。ほんのりと光っていた。ヴェルエナが魔法を使う時に出る光だ。今は夜の様で、外は風の音くらいしかしない。そんな時間だ。
まさかと思った。まさかこんな時間までずっと?
「お姉ちゃん、もしかしてずっと治してくれてたの?」
「ずっとじゃないよ。休憩取りながらだから大丈夫。この怪我はちょっと時間かかるけど……傷跡一つ残さないって、約束したでしょ?」
目頭が熱くなる。恐怖や悲しみの涙じゃない。心温まる方の涙だ。謝るには今しかない。
「お姉ちゃん。突き飛ばしてごめん」
「ん? なんの話?」
ヴェルエナは不思議そうな声で言った。俺はヴェルエナの顔を見て言う。
「森で水浴びしてた時の、なんかこう……自分でもよく分からなくなっちゃって……。しかもみんなに心配かけちゃったし」
「ああそんな事。怒ってない。皆許してくれると思うよ」
「本当に?」
ヴェルエナは何も言わずに俺の頭を撫でた。
「それじゃ、もう眠くないと思うけど、もう一度寝ようか。体をしっかり休ませて怪我を直しちゃおう」
「寝たいけど、ちょっと無理かなあ」
「子守歌でも歌う?」
「まさか、そんな小さくないよ」
ヴェルエナと二人、一緒にクスクス笑う。髪の毛が細い指に梳かされる感覚が快かった。深呼吸を一つする。落ち着く良い香りだ。
「それじゃあお呪いしてあげる。ちょっと顔近寄せて。あ、目は瞑っててね。それが肝心」
何をするんだろうと首を傾げながら居心地の良く柔らかい胸から顔を引きはがし、ヴェルエナの顔に近寄る。吐息をすぐ近くに感じる。お呪い程度でどうにかなるとは思えなかったが、これもこれで悪くないと思えた。
ちょっと恋人同士みたいなシチュエーションだとドキドキする。
「う、ん」
「ぴゃ!?」
「目を開けない、あけなーい」
瞼に柔らかい物が触れる。むにゅっとしていて、吐息が近い、というよりも密着している。驚いて目を開こうとしたけど止められた。
まさか、瞼にキスでもしているのか?
傷を治す時の感覚。眼が温かい。贅沢な蒸しタオルみたいな感覚だ。眠気がまたやってきて、なにかする間もなく、また眠った。
日差しが当たる感覚がした。鳥のさえずる声が心地いい。子供がお喋りをしている声も。そっと目を開けると知らない小屋だった。眼をこすりつつ体を起こす。爽やかな目覚めで、眠気の欠片も無かった。
俺はアリシアのお気に入りの寝巻を着ていた。薄い水色の、少し薄手で涼しい夏用の服だ。気が付かないうちに着替えさせられたみたいだった。
周囲を見回せば木造古い部屋だった。壁や柱は黒ずんで光沢があったが、不衛生じゃない。きちんと掃除が行き届いていて、差し込む朝日と相まって良い雰囲気だった。
扉の向こうからは母親とヴェルエナが老婆と会話しているみたいだった。薬草と言うのか、ハーブと言うべきか。独特だが不快じゃない香り。
ぐっと伸びをする。関節が良い音で鳴った。肩に違和感を感じる。見れば包帯が巻かれていた。
今は何時くらいだろうと、窓の方を見る。
「わあ!?」
腰が抜けるかと思った。幾つもの顔が小さい窓に張り付くように並んでいた。
「見付かった! 逃げろー!」
「わあ、可愛い。お人形さんみたい……」
そのうちの数人かが蜘蛛の子を散らした様に走り去る。残ったのはアリシアと同年代くらいの女の子だ。
「あ、どうも。こんにちは」
目を輝かせて俺を見る少女に、何を言って良いやらと悩んだ結果、取り敢えず挨拶をする。
「はあ……可愛いなあ……」
「あのー。わたしの名前はアリシアって言うんだけど……君は? おーい?」
茶髪でくりくりとリスの様な目が印象的だった。そばかすも浮いていて、活発な印象だった。だったが、今はぽけーっと俺を眺めている。
駄目だ。この娘っ子は完全にトリップしている。
ちょっと引きつった笑いを浮かべながらすぐそばに寄って、焦点のない眼に映るよう、手を振ってみる。
俺の小さい手に焦点が収束していった。
「あ、おはよ……。あれ、皆!? 皆どこ!?」
「どこか走っていったよ」
俺がそう言うと、少女はソワソワとし始め、終いには汗を流し始めた。うわ言のように、まずい。まずいと呟き始める。
「ごめんなさい! 皆探さないと怒られちゃう!」
「え、ちょっと」
少女は手を振りながら走り去る。
何だったんだろう。一体。
「アリシア、起きた?」
「あ、母さん。はーい。起きたよ」
首を捻っていると、母が呼ぶ声が聞こえた。子供たちの事は放っておくことにする。そのうち会う機会もあるだろうし、会わなかったらそれまでだ。
とてとてと扉の所まで歩いていき、そっと扉を押し開いた。




