10
――我々は生き残るべきだ。
ヴェルエナの綺麗な顔が浮かんだ。いつもアリシアを見る時に浮かべる笑顔、そして驚いた顔。俺はまだ謝りたいのに謝れていない。そしてこれは、アリシアの体だ。俺の体じゃあない。だったら、俺の使命は無事に生き残って帰る事だ。女の、というか成長が遅いこの少女の柔肌を守ってやることだ。
まあ、もう傷だらけで手遅れの感が否めないが。
最後まで生き残る事を諦めるべきじゃない。記憶が無い俺だけど、一つだけ分かる事が有る。俺はかなり生き汚いタイプだって事だ。万事を尽くしてもダメなら、盤をひっくり返す人間だ……と思う。
昔誰かが言っていたような気がする。全ては生存の為の闘争だって。闘争ならば負けるより勝つ方が良い。負ければ終わって、勝てば続く。シンプルなルールだ。
崩れ落ちそうな体、立つのもやっとな脚にぐっと力を込める。人間、無理やり動こうと思えば疲れ切っていても動くものだ。後先考えるのは今じゃない。気合出せアリシアと俺。普通の子供じゃ生きて帰れなくても、俺たちなら大丈夫だ。なんたって俺が居る。普通の奴はこんなややこしい状況じゃないだろう。
なら俺たちは特別だ。特別なら、生きて帰れる。
まずは状況把握だ。
問題の物、シャッターと言うよりは隔壁と呼んだ方が良いか。コンビニにある様なペライ見た目じゃなくて分厚い壁だ。そんな隔壁が降りている。周囲の壁は損傷がなく頑丈そう。破るのはフィジカル的に不可能だ。山盛りの爆薬を駆使すれば行けるかもしれないが、手元に無い。道具もない。文字通り裸一貫だ。
隔壁の前には開けられなかった犠牲者が山盛り。ナイフに剣、ついでに照明器具が転がっている。ヴェルエナの使っていたのと同じ形式でアリシアの体じゃ使えない。武器で戦うか?
いや無理だ。一匹二匹仕留めたところで物量で潰される。肩がじくじく痛む。ああそうだ。触れたらアウトなんだったな。
肉虫どもの足音が大きくなっていった。あと三つ角を曲がったらここまで直線か。速度はさっきより遅い。獲物が袋小路に入ったと分かったんだろう。
「馬鹿にしやがって気色悪い虫モドキの癖に……。はあ、壁は損傷無しで力技は不可能。なら正攻法か」
俺は隔壁のすぐ横の壁を見た。液晶タイプの操作盤がある。照明がついている事から、電気系統が生きているのは分かっていた。黒い手形がべったり画面についている。その下には、やっぱり骨。出来る限り素早くそこに近寄る。
もう死体への怯えなんてどこかに消し飛んでいた。そっと退かして、立つ空間を確保する。チビだから、手の長さもあまりない。寄らねば触れん。
……ちと高いな。アリシアに身長があと五センチあれば、世界が変わるぞ。多分。
「よいしょっと」
ふんっと、背伸びして画面を眺める。ううむ。ちっこい奴に親切じゃない造りだ。壁にめり込む様に傾斜が付いている。こういうのは大抵、触れば起動するんだ。
「いってぇ……」
画面を触ろうと手を上げようとすると、さっきやられた肩がひどく痛んだ。足音は大きくなっている。あと二つ曲がればここに着く。反対の手でトンッと画面に触れる。画面が明るく名り、黒い手形に沿う様に手のイラストが表示される。
俺と同じような事を考えたんだろう。この手形の主は。そして食われた。
指紋か静脈か。どちらにせよ、無登録なら弾かれる。試してみる価値はあるが、確率はぐっと低い。無理だったらどうしようか。一戦交えるか?
そんな益体もない事を考えつつ、俺は手をイラストに重ねた。
「あ、がっ!?」
頭が真っ白になり、声にならない悲鳴。反射的に手を引っ込める。何が起きたかと思って見て見れば、真っ白で小さなお手々は血まみれだった。今の痛みで出血したんじゃない。擦り傷切り傷、そして肩に触った時に付いた血だ。それ以外は無傷。
それじゃあ、今の痛みは何だったんだ。手に穴をこじ開けられて、神経を細い糸で弄りまわされたみたいな痛みは。
なにか原因の物は無いかと見て見れば、画面には認証完了の文字が。息が止まるかと思った。
そう、文字だ。アリシアの使う共通語じゃない。なんなら、父親の母国の文字でもない。
見知った漢字だ。日本語で書いてある。
虫が近づいている状況なのに、俺は仰天していた。自分の目が信じられなかった。なんで日本語がここにある? 俺の知っている世界は、こんな剣と魔法の世界でもなけば、大昔のヨーロッパ風でもない。あんな化け物も存在しない。そんな世界だ。それが現実だ。
『生体データ認証完了。セキュリティクリアランス三。当該区域は重度粒子汚染に晒されています。防護装備なく暴露した場合ヒトを保つ保証はありません。施設の放棄を推奨。それでも入場を希望しますか?』
「ぴぃっ!?」
どこからともなくひび割れた女の声が響く。驚いて声の出元を探してみれば、頭上のスピーカーだった。合成音声で、いかにも機械って声。そんな懐かしい日本語で、かなり不穏な事を言う。
重度粒子汚染……何だそりゃ。放射能汚染か何かか? ヒトを保てないってどういう意味だ。言っている事の意味がさっぱり分からない。ただどちらにせよ、一つ確実な事が有る。ここに留まれば虫の餌って事だ。あの青年みたいに食われて溶かされて死ぬ。それは嫌だ。生存確率ゼロよりは、多少確率が有ると思える方を選んだ方が良い。
常にマシだと思える選択肢を選び続けるしか生き残る道は無い。
ふらつく体を気合で支えながら俺は怒鳴った。
「入れてくれ! 早く!」
にちゃりと湿った足音が近くから聞こえる。気がついたら隔壁に向かって全力で走っていた。我ながら良いスタートダッシュだと思う。駆動音をうるさく響かせて上がる隔壁は、俺がどうにか潜り込める高さまで上がり、止まる。ミシミシと音がする。
おい、まさか。止めてくれ。そういう文字通り上げて落とすような事は。
全裸だろうが知った事じゃない。俺は野球選手みたいに隙間に飛び込んだ。床に腹から叩きつけられて、一瞬息が止まる。狭い隙間を匍匐前進で進む。発育が遅いのか、それとも普通に幼児体形なだけか。薄い体が有り難かった。ヴェルエナみたいに胸があったら、多分引っかかっていただろう。焦っているから、尻を左右に振ってしまう。
ふいに想像してしまう。今の俺は相当変態チックな姿なんじゃなかろうか。人様に見られたら嫁に行けんぞ。行く気も無いが。ヴェルエナが見たら、金切り声どころじゃすまないな。多分無言で卒倒するだろう。
まあ誰にも見られていないのが救いだ。いや、でももし人が居たらアウトか。監視カメラとか無いよな。まあ無いだろうな。普通有ったら来るもん。守衛か誰かが。
虫が足の裏に触れた。激痛が走るが、奥歯噛み締めて堪える。あと少しで入り切る。持ってくれよ隔壁よ。まだ落ちるな。
「うう……」
奥歯よ砕けろとばかりに噛み締める。プルプルと疲れで震える細腕の、最後の力を振り絞って体を投げ出す。
どちゃあと体が床に崩れ落ち、足を咄嗟に引っ込めた。風圧と巻き上げられた埃。
「ごほっごほ!」
足の感覚はある。凄く痛い。スライディングしたときに擦り傷が増えた。傷跡が残らなければ良いけど。
つむっていた目を開け、恐る恐る振り返る。隔壁は完全に落ちていた。薄皮一枚の距離だった。あと一瞬でも遅ければ今頃は……とゾッとする。
すぐ近くに虫の前足の一部が落ちていた。はみ出た肉片。潰されて死んでいた。分厚い隔壁は凄いもので、あの耳障りな足音も聞こえない。
え? 生き残ったの? 俺が、本当に?
じわじわと腹の奥からよく分からない衝動がこみ上げてくる。頭から血は流れているし、肩は火傷みたいになっている。片足の足裏だってそうだ。満身創痍だ。でも俺は生きている。
「ははははは! ざまあみろ虫ども! 人間様を仕留められると思いやがって!」
ひくひく痙攣している虫の足にありったけの罵声を浴びせてやる。ひとしきり笑い転げて、スカッとしたところで前を見る。
「ぴいっ!?」
心底驚いた。人が壁を背に座っていた。
ここは狭い小部屋になっている。外とは打って変わって綺麗な内装だった。壊れている場所もなく、照明も明るい。奥には扉が一つ。丈夫そうな扉だ。でも操作盤は液晶じゃなくて、カードリーダーが付いているだけ。その前に男が一人座って目をつむっている。三十歳くらいの男で、顔つきが西洋人じゃない。アジア的な顔つきで、もっと言えば日本人の顔だ。
迷彩服に半長靴。兵士の恰好だった。
「あのお……はっ!」
声をかけて気が付く。俺全裸だ。虫に追い掛け回されて忘れていた。血みどろ傷だらけと言っても、アリシアは結構な美少女だ。子役でもやったら人気出るだろう顔つき。そんな美少女が、全裸だ。ロリコン趣味が有る奴が相手なら、貞操の保証はできない。
男が起きても恥ずかしい、起きねば困る。なんてこった。ここにきてこんなブービートラップが有ったとは。
慌てて股と胸を両手で隠す。しゃがみ込んで、極力色々見せなようする。体育座りの上位互換みたいな構えだ。
「い、いや違うんです! これは痴女ってわけじゃなくてその不幸な事故と偶然が重なってそこにスプラッタなバイオレンスホラーに追いかけられてスライディングでアクションして気合と根性見せて、だからわたし変態違うんです!」
これはどっちだ。俺かアリシアか。アリシアの方だと良いなあ。こんな焦るとバカみたいな事を口走る奴であってほしくない。
結構な大声を出したのに、男からは何も返答が無かった。
「あのお、私アリシア・ガソッドって言います。変な虫に追いかけられて……聞いてます? ハロー? ニーハオ、グーテンモルゲン?」
我ながら声が震えていた。腕も桜色に染まっている。顔が熱い。全身が痛い。鎮痛剤が欲しいくらいだった。色んな言語で話しかけてみるが、男は反応が無い。寝ているんだろうか。
どうした物かと黙り込んでしまう。
「いや、まさか。勘弁してくれよ……」
静かだった。寝ているなら、気絶しているなら聞こえる筈の呼吸音すら聞こえない程に。
想像が当たっているなら、とそっと近寄り、恐る恐る首元に手を当ててみる。ここでカッと目を見開いて掴まれたら、俺は多分失神するだろう。
首は冷たかった。脈も無かった。骨か肉か。形式は違えどもさっきと同じだ。
「結局死んでるのか……」
近くには錠剤が入っていそうな小瓶が、紙切れを抑える様に置いてあった。オーバードーズか、と俺は思った。薬を大量に飲んで、そのまま眠る様に。
紙切れは遺書か? なにか書いてあるみたいだ。
『封鎖に志願した事に後悔は無い。外には出ない。俺は人として死ぬ。俺は俺だ。他人じゃない』
「遺書か……。ひらがなに漢字。完全に日本人だな」
もしくは一時期流行っていたWEB小説に出てくる様な、日本語によく似た言語がある世界か。
彼の書いている内容はよく分からない。人として死ぬとはどういう事だ。まさかあの虫が人の成れの果てとでも言うつもりか?
それは嫌な考えだ。ゾッとする。
肌は多少乾いているが、それでも腐敗は無かった。死んでからそう時間が経っていないのかもしれない。
この施設が何なのか、どうやったら脱出できるのかは分からない。分からないことが増えていく。でも、奥に進まなければ状況は変わらない。それに、隔壁で隔てられていると言っても虫が近くに居るのは耐えられなかった。
彼が持っているカードキーを見やる。手に握りしめていた。死後硬直は解けているみたいで、すんなり拝借できた。無いとは思うが、いきなり動き出さないでくれよ、なんて祈りながらの作業だった。
そっと手を合わせて黙とう。頼むから化けて出てきてくれるなよと祈る。
痛みに耐えつつ深呼吸。足を引きずりながらもとてとてと近寄り、そっとカードリーダーにキーを通す。電子ロックが外れる音。精密機械はまだ生きている。やっぱりそう古い施設じゃないぞ、ここは。
俺はそっと扉を押し開いた。