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書斎の扉がようやく開いた。待機していたベイスは出てきたローズに一礼する。
「ご機嫌はいかがでしたでしょう?」
「お父様からはお咎め無しよ。……お風呂にするわ、付き合って」
「かしこまりました」
そうしてバスタブに湯を張ると主人は入浴し、ベイスはそのカーテン越しに控えていく。暖かな光と湯気が、ローズのシルエットを浮かび上がらせた。
「お父様にもお母様にも、ひどく心配されたわよ。まあ当然だけれども」
「やはりレースの内容を?」
「そりゃそうよ。娘が非難されて糾弾されて炎上するのを喜ぶ両親ではないわ。いくら意図は理解できても忍びないって、半泣きだったもの」
「歯がゆいでしょうね、旦那様も」
「……。あと二年よ、今のお父様に力は無い。翼を折られているのだから」
ローズは湯に素肌を浸らせていても落ち着かない。ふるえが芯からやってくる。
今日というレース当日の、結果が出るまで隠し通した結果として、ローズは父に叱られると覚悟していたのだが。
「でもまさか謝られ、さらに突き放されるなんてね。政治闘争に負けたも同然、親しい貴族も支援を渋らざるを得なくてアドバイザーやコーチとしてレースに関わる機会も奪われたのに。まったくお父様も人が悪い……闘志はちっとも折れてない」
ベイスは主人の声色を聞きながらローズの気分の上下を察していた。従者以外には小耳にも挟まれたくないからと、風呂に誘ってきたのだと。
ローズは笑う。高らかに。
「あははっ、本当にひどいわ。レースの道を断たれかけた娘に『一年以上も燻りやがって』と罵倒したのよ? 怒って褒めて、謝って、レース観戦も禁止させておいて、自分はちゃっかりトレーニングを一日たりとも欠かしてないとかなによそれ? 客観的には落ちぶれてるのに、続けてこう言ったのよ。『今のまま七光りなしでやってみろ、やれるだけ』って」
「尊敬していらっしゃるのですね、旦那様を」
「当然よ、英雄だもの。酒で身を滅ぼしかけはしたけどね」
楽しげな話しぶりとともに、口調も軽くなって、
「だいたいね、これまでも七光りなんてなかったわよ? あっても去年で途絶えたコネと金、指導だって幼いときだけで才能も実績も自前だし、私も修練は欠かさなかったわ。だけどまあ言ってることは分かってる。一人で飛ぶことはできないし、二人でも厳しくて当然で、だから今の私のやり方でどこまでできるか学んでみろって――そういうことを言われたのよ」
ローズは贈られた言葉を噛み砕いて反芻する。
二年後の復帰に備え今できることに励むしかない父親だが、娘を顧みていないのではない。その心遣いと厳しさが嬉しくて、ローズはしかしはしゃぎたくなる喜びを蓄えた。
顔を半分ほど湯にうずめ、目を瞑る。
(自由が許されただけなのに。……まだまだわたしも、年相応に子どもよねっ!)
きっと主人はにやけている。その気分が伝わってきてベイスも顔を笑みにする。
しかし共に夢見心地でいられたのも束の間だ。
「さて、あがるわよベイス。私のローブとブルームは工房に届いているかしら?」
「はい。すでに整備に入っていると、旦那様とのお話中に連絡が」
「なら明日の夕方には終わってるわね。受領の準備をしておいて、また次に向けての調整よ」
「かしこまりました。今晩は髪を結いますか?」
「いらないわ、ぐっすり眠って寝ぐせ付けるから朝から直しを手伝って。――タオル」
「はい、お嬢様。それと明日の学校は」
「行くに決まっているでしょう。期末試験は通っておかないと伯爵家の面目が立たないもの」
いつもは従者が拭く仕事だがベイスは残念と思わない、ローズの上機嫌の証だからだ。
だがその途中で声のトーンが僅かに下がった。
「とはいえ、決闘の件だけはお父様にも伏せておいたけど。リリィとの」
「……。賢明です」
「決闘の契約は結んだわ。ただ繰り返し言っておくけれど、手放すつもりはないからね?」
「僕はお嬢様の従者です、それ以上でも以下でもなく」
「でも飛び立つ自由は与えるわ。負けたときに意固地になるなんて恥だもの。理解した?」
「イエス、マイレディ。ですが僕は勝利を信じ、尽くします」
「当然よ。私は飛ぶわ、あなたのくれたこの翼、折れるまで」
返答を聞いてベイスは思う。
この気高い主人にふさわしい従者であり続けたいと。