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『エントランスでお待ちしています』
その送られたメールの通り、滞在先のホテルのエントランスまでベイスが下りるとリリィはそこで待っていた。そして挨拶する間もないままに、
「どうですか、この都市の夜景は。あそこが私の泊まっているホテルで、あれが世界遺産にもなっている――」
「本当に空を飛ぶのがお好きですね、リリィ様は」
「え!? あっ、あの」
「すみません。嫌ではありません、ただ夜間飛行は初めてで」
「……その、ずっと一緒に見たかったんです。この街に来てから――」
スクールGPの舞台となったマギア・サーキット擁する港湾都市は、経済的にも華やかで、雲のない上空から眺めるライトアップされた街並みは宝石箱さながらの煌びやかさだった。
「そうですね、とても綺麗です。それに今回は」
「はい、座りながら見るだけよりと思いまして作らせました♪」
リリィは純白のローブ姿にレース用でないブルームを携えて待っていた。今回は夜間飛行の申請も通してある。ローズには二十時までにはベイスを解放するよう事前のセッティングにも気を配った。
その特注したブルームのシートは操作一つでポールスタンドとチェアになり、今は二人とも箒の上に立ちながら光の満ちる天空のナイトクルージングを楽しんでいた。
ベイスは一礼し、告げていく。
「改めまして、おめでとうございますリリィ様」
「……。はい、勝ってしまいました。あなたの主人に」
「今は違います。そしてあの戦いは決闘でした、気に病むことはありません」
「それが嘘ではないとは分かります、けれど」
「ナショナルカテゴリ全制覇――そのような偉業を成し遂げた方と同じ戦場に立てたのです、僕はそれを光栄に思います。こんな言葉のほかに何もお返しできない自分を、僕は恥じます」
「……。うれしいです、何よりも」
リリィは歓喜に泣きそうな表情をあらわにする。
勝てて良かった。全ての努力が報われた。そう心から実感する。
地上の輝く星と天上に昇った月に照らされてベイスの顔が映えて見える。そのやわらかさはたとえ真意魔法がなかったとしても真実だと理解できる。
簒奪者も同然の己はしかし――悪し様に想われていないのだと。
そしてベイスが目をそらさず向き合ってきて、
「ではリリィ様。どうかお望みをお果たし下さい」
「いえ、私はその……この時間を得られただけで」
「いまの僕に主人はいません。この得難き自由を与えた方に、僕は尽くしたいと思います」
「――ぁ、あの。では、その」
ごほんと一つ、咳払い。リリィは言う。その望みは、
「ベイスさん。今回で私が得た賞金をあなたの労役免除に使わせて下さい」
「……。リリィ様、それは僕を、平民に?」
「いえ。私はあなたをオフィサーの位に据えたいと思っています。仕人のままではなく」
「では僕を、貴族にすると?」
「はい。昇格の【洗礼】はミッドランド侯爵家で執り行います。その費用も私が持ちます」
「それなら二ヶ月前、僕を従者に迎えたいと望まれたのは?」
「あれから私も考えたのです。自分が真にどうしたいか……それは察していただけませんか」
リリィは僅かに頬を染めて告げてきた。
現時点では階級差のある関係だ、その意味が分からないベイスでない。
しかしながらリリィの願いは、ベイスにとって……。
「――ありがとうございます。お気持ちを、僕はとても嬉しく思います」
「!! ではっ」
「ですがリリィ様、どうかご辞退させていただけないでしょうか?」
「……ぇ」
今のベイスは貴族相手に嘘をつけない。その意味が分からないリリィでない。
つまり先ほどの懇願は本心から、拒まれたと。
「……ローズのことを、想っているのですか? 女性として」
「違います、誓って僕は以前の主人に懸想したことはありません」
「で、でしたら私は?! わたくしのことは!?」
「好きですよ、こうしていられる時間を大切にしたいとも想っています」
「じゃあどうして! 聞かせて下さい、そのわけを!」
ベイスはどう言おうか困ったように目を伏せて、けれども向き直って告げていく。
この己という人間が、どのように卑しい本性を持っていたか。
「リリィ様。あなたはとても正しいお人です。僕のような仕人も対等に扱い、いえむしろ僕を立てようと計らわれていることも分かります。僕の自由意志を尊重し、常に一歩引いて判断を決して強要しない――貴族のあるべき高潔なお姿です、尊敬します。ですがそれは」
「ベイス、さん」
「間違いです、僕の願いと逆なのです。あなたが僕に与えて下さった自由の立場に則りまして嘘偽りなく告白します。絶対的な意志を持つ貴人を主人と仰ぎ従い、尽くすこと。それこそが僕の求める唯一つの望みなのです」
「え……」
『ベイスを一般的な男だと認識するのは間違いよ』
ローズは確かにそう言った、リリィの表情が凍りつく。ベイスは苦い顔を隠せない。貴人の気高い精神を否定することを言ってしまっているからだ。
だが続ける、何もかもを言わなくてはならないと、天地からの明かりに見守られながら。
「あなたがもし僕の所有権を主張されたなら、恋人になれと『命令』を下していただけたなら従いました。でもあなたはそうすることはできません。あなたの信じる対等の理念は、相互の主体性と公平性を是として支配を良しとしません。それはとても正しいお考えと分かります」
「で、でしたら!」
「僕にとってそれは正解ではありません。僕が求めているのは僕を正しく支配してくれる人。強く気高い心を持つ絶対者に一生を捧げること、それが僕の望みであり命題なのです」
「だったらわたくしは、そうなります! 変わります!」
「無理ですね、人はそう簡単に変われません」
「変われます! 私はいま、そうなりたいとっ!」
「ではリリィ様、お尋ねします。ここは空ですね、あなたにはこんな選択肢もあるはずです。ここから落とされて死にたくなければ、従えと」
「そ、そんなことは!」
「できないでしょう、あなたはそういうお人です。その御心は紛れもない美徳です。僕ごとき歪んだ価値観の仕人に貶められていいものではありません。そんなあなたにこそ僕は尽くして従ってみたかった。けれどもそれは満たされません。先ほどのたとえは反例です、そのような卑しい支配者でしたら僕は主人と認めません。……こんなに心惹かれることもなく」
「――ッ、だったら! だったら私は、どうすれば……!!」
リリィはわけが分からなかった。自分の心を否定されているのではない。むしろこの上なく賞賛されている、想われている。なのに違う、告げられている言葉の意味はただ一つ。
この望みは叶わない、価値観が違い過ぎるという明確な拒絶だった。
それは階級差という住む世界が異なる隔たりよりもなお、残酷な。
「……私は、変わってしまったのですよ? 簡単に、ただ一目見ただけで!! だからこうしてあなたが欲しいって、その想いは何度も会うたび募ったのに!!」
距離があまりに遠かった。こんなに近く、空で二人きりなのに。
その思いはベイスも同じく感じていた。たとえ矛盾していると罵られてもそうだった。
高潔で直情的で大胆で、想い伝えることを躊躇わない――そんな正しい人に応えたい。
そしていまもまだ胸の奥が熱かった。生涯忘れることはないだろう、夏風に流れる蒼髪が、あの一瞬で桜花の色に染まって羽ばたいた勝利のとき。ベイスは従者として恥ずかしく思う、あの刹那だけは主人を見ていなかった、空の〈白百合〉に心奪われてしまっていた。
だからこそ――
「どうしろと、いうのですか? ローズのように従えることはできなくてっ、なのに欲しがる気持ちだけが毎日毎日ふくれあがって! 諦めることなんて、できません! ベイスさんっ、私はあなたに、こんなにも変えられてしまったのに!!」
「……でしたら」
ベイスは思う。一歩も前に近づけない、この夜空の足場がもどかしい。
けれども言う、風に頬をなでられながら、それでも先に進みたいと思っていることは。
「でしたら今度は、僕を変えてみて下さい。あなたの持つ高潔で強いその意志で」
「……っ、それは」
「今の僕はあなたの隣人としてふさわしい人間ではありません。貴族となるべき資格のない、従うことを本懐とする仕人です。人権を主張できる平民になることも望みません。ですが」
諭すようにベイスは言う。
己は奴隷ではないが主体性を持ちたがろうとしない人間だと。
その価値観は間違っていないかもしれないが、正しくないとも分かっている。だから。
「ですがリリィ様、僕はあなたが空を舞う姿を見て心ふるわせられました。仕えるべき主人を得たときにひとしいほど、仕人であることを忘れるほど」
「あ……」
「今も真実そう思っているのです。失礼を承知で伝えさせていただければ――」
「か、構いません! どうかっ」
「……永遠にあなたを見ていたいと、生まれて初めて焦がれる想いを抱きました」
落ちてしまう、墜ちそうだった。リリィはしかし視線を必死でそらさず向き合った。
停止しているときはマナコントロールを意識せず滞空できる特注のブルームで助かった。
赤面する顔を両の手で隠したくなって、けれどしない。いま自分に伝えられたことを正しく理解し、受け止めたことを伝えるために。
「それはつまり――挑発ですね、ベイスさん?」
「はい、こんな僕を変えてみて下さい。あなたが望む未来は僕の求める価値を超えられると」
「いいんですか、本気にしますよ? 私の本気は見たばかりでしょう?」
「また見たいと想っています。その結果、僕の求める主人に変わってしまっても本望です」
「そ、そういう口説き文句はどこで覚えてくるのです!」
「仕人学校では教えられておりません、独学です」
「なぜそんなっ」
「貴人に仕える従者の言葉に力が無くては支えになることはできません、そのためです」
「っ、あなたはもっと自分を客観的に理解すべきです!」
「存じております。この身も貴き方の目に楽しんでいただくためのものですから」
「本ッ当にあなたはローズの従者よね!! ……ええわかったわ、わかりました!! こんなにも私の心をかき乱して、その責任を必ず取らせてみせましょう! いまこの時よりベイスさん、あなたはリリィ・ミッドランドの標的です! 必ず変えてみせますわ、その心!」
ベイスはそれに微笑んだ。リリィも暗い陰のない、今日の夜空のように澄み切った気持ちで宣言した。だからこそ返答し合う、契約の必要はなかったがこれは確かに紛れもなく。
「はい。それでこそ僕の尊敬するリリィ様です。その勝負の相手を務めさせていただくことを光栄に思います。いつ終わるか分かりませんが――始めましょう。僕とあなたの、決闘を」




