ショート物語集
恋するキューピット
僕は恋に悩む乙女を応援するキューピット。でも、お年頃の恋する乙女の薫子ちゃんのひたむきな姿に、胸を打たれて好きになってしまったんだ。本当はいけないことだと分かってるのに、薫子ちゃんを前にすると心臓が高鳴って、ポンプのように体中へ血を巡らせる。
「ねぇ、キューピット君、あなた私こと好きでしょ?」
「ええ!? どうしてわかったの?」
「その……あなた、裸でしょう? あのぉ……そのぉ……ね?」
「……あ! これは面目ない」
僕は照れ笑いを浮かべて抑えられない気持ちを隠すのに必死だった。
仁義なき戦い オブザシー
「あ、どうもペンギンはん」
「こりゃどうもオットセイさん」
「なぁ、知ってます?」
「何がですのん?」
「最近、この海の近くにギャングのホオジロはんが来よったらしいで」
「ホンマかいな。怖いわぁ、時速二十五キロから三十五キロで追いかけられたらひとたまりもないわ~」
「ワシャホオジロザメじゃ! 腹空かしとるけん、お前ら食っちまうけんの!」
「あかん! 噂をすればなんとやらや!」
「キャー! 止めてー! わしペンギンやから食ってもそないうまくないんで、隣のオットセイはん食ったってー!」
「何友達売ろうとしよんねんコラ!」
「腹へっとるから両方食うわー」
「止めてー!」
「助けてー!」
「アンタ、うちのシマで何しくさっとんねん!」
どごぉ!
「あ、あれは!」
「キャー! キラーホエールキラーこと、海のギャングシャチさんや!」
「うぐぅ、シャチの頭突きは非常に強力すぎて、わしらサメの肋骨のない腹にぶつかられたら、もう、死ぬしかないんじゃー、がくっ」
「やった! さすがシャチさんやで」
「ホオジロはんを一発で仕留めよった」
「自分ら危ないとこやったなぁ」
「ほんまですわ。見返りになんでもしまっせ」
「せやせや、うちらにできることあったらなんでもいうてください」
「今、なんでも、いうたな」
「はい」
「やったら、うち腹空かしとんねん。あと、わかるやろ?」
「え?」
「はい?」
がぶぅ!
「あーーーーー! オットセイはん食われてもうた! あかん、わしも食われてまう、逃げな!」
「逃げられへんで、ペンギンはん」
「うわー! シャチは群れで行動しよるさかい、周りに何匹もおるわ! 絶体絶命や!」
「さて、じゃあ」
「止めてください、シャチさん。わし食うてもそないうまくありませんて。わしケープペンギンですもんで、油も肉もそないにないですから。食うとしたらキングペンギンはんの方が太ってておいしいでっせ」
「せやな」
「せやろ?」
「じゃあ、うちの若い奴らが退屈しよんねん。せやから、たっぷり遊んだってくれや」
「あ、遊ぶって具体的になにをすれば……」
「せやな。ぶつかったら即死の「命がけ鬼ごっこ」にするわ」
「やめてー! あかん、こらダッシュで逃げな!」
「ほら、あんたら追いかけい!」
「わーい、鬼ごっこや」
「楽しいでー」
「楽しくなんかあらへんわ! わしだけ命がけやん!」
「まてー」
「まてー」
「くそう、時速六十から七十キロにまで及ぶ速さで追いかけられたら逃げられるわけないやん! あ! 目の前に流氷があるやん! それに乗ったらさすがの奴らも追っかけられへんやろ!」
「あんちゃん、あいつ流氷の上に乗るつもりやで?」
「ホンマに……あ、あれ流氷ちゃうで!」
「ふぅ、なんとか流氷に上れたわー。あ、他にも仲間がおったわ。良かった良かった」
「おい、ペンギン! それ流氷ちゃうで!」
「何ゆうてんねん、海の上に浮かんでるもんは流氷以外無いやろ」
「あるわ! そいつはぼーというてな、人間の乗りもんや! うわ、人間おる!」
「はぁ? 何ゆうてんねん。ここに乗っ取るのはわしの仲間や。ちょっと大きいけど、二足歩行する生き物はわしらペンギン以外におらんねんぞ!」
「あかん、あんちゃん、あいつ人間のこと仲間やと思うとるわ。どないしよう。転覆させる?」
「止めとき。人間は怒るときったない茶色の液体を海にばらまきよんねん。それで母ちゃんの仲間も何匹も殺されたらしいわ」
「うわー、アイツらわしら以上にギャングやのう」
「せやで。ここはアイツら怒らせんと帰ろう」
「せやな。それがよさそうや」
「ふぅー。アイツら逃げ寄ったで。あー、良かった。急に乗り合わせてすまんなぁ……。それにしても随分大きなペンギンやのう。もしかして皇帝ペンギンはんか……あれ? それよりも圧倒的にデカいし、何より体から毛が全然生えてへんやん。それに……羽やのうてなんか足の爪みたいなのが横にぶらさがっとる……もしかして、あんたペンギンやない!?」
「せやで。わし、人間や」
「どきぃ! なんやめっちゃ低くてええ声やのう」
「そうか?」
「せやせや。もう、ペンギンやないとかどうでもええわ、わしアンタと結婚する」
「マジで?」
「マジや。アンタの巣ぅまで一緒に居ったるわ」
「まぁ、ええわ、お前可愛いし」
「かわいいとかそんな褒めんといてーな。せや、一応いうとくと、わし、雄やで」
「……え?」
めだかの学校の避難訓練
「みんな! 今日の避難訓練は三分もかかりました。この間にもしも本当に大きな魚がやってきたらみんな死んでいましたよ!」
めだかたちは彼らが入れるほどの隙間の空いた岩の下で集合していました。
「まったく! 僕のお姉さんはね、大きな魚に食べられて死んでしまったのですよ。そんな悲劇に一匹でも遭遇しないためにも「おかしも」をきちんと守ってですね……」
「せんせい!」
「なんだね、池野めだ二郎くん」
「せんせい、もしもこの岩が落ちてきたらどうするんですか?」
「はっはっは、そんなことはありえないよ。先生が生きて来たこの数年間で、そんなことは一回も起きたことはないからね」
ぐらぐらぐら!
「う、うわー! 世界が揺れている! これは天変地異か!」
がたっ!
「あ、岩を支えていた石が!」
ぷちっ。
めだかの学校の生徒たちは全滅してしまいました。
健康診断・不健康診断
とある病院に一組の夫婦がやってきた。彼らは一人ずつ呼ばれて、それぞれに診断結果を報告された。
「旦那さん、あなたはとても健康ですね、一体どんな生活をしているのですか?」
医者の先生は興味本位に聞いてみることにした。
「ええ、私は禁酒禁煙を掲げて、毎日朝六時に起きて家族の朝食を作り、肉体労働に出かけ、十二時ぴったりに行きつけの定食屋さんでサラダ付の生姜焼き定食を食べ、うららかな日の光の中で眠気に誘われながらも仕事を済ませ、七時に家に帰り、家内の用意した夕飯を取って十時には寝ていますね」
「これは健康的な生活だ。しかし、随分と忙しそうですね」
「ええ、しかもその上日曜日は子供の世話をすべて任されるのですよ。家内や子供のために働いているとはいえ、日曜にくらいはゆっくりお昼寝をしたいものです」
「おやおや、その子供との触れ合いが特にあなたの気分をリフレッシュしているように私は思うのですが」
「そうですね、そう言われればそんな気もします。なんせテレビもあまり見れずにずっと子供と公園で遊んだりしていますから、それだけが生きがいなもんですよ」
「結構ですね、では、次は奥さんをお呼びしますので、ご退出お願いします」
旦那さんと入れ違いに奥さんが入ってきた。
「奥さん、あなたは旦那さんと対照的でとても不健康です、一体どんな生活をなさっているのですか?」
医者の先生はまた興味本位に聞いてみた。
「そうですねぇ、私は毎日煙草を二箱、ビールを六本ほど飲んでいますわ。それから朝は子供を見送るために八時に起きて、全自動掃除機と全自動洗濯機、果ては全自動食器洗い機なんかにすべて家事を任せて、私はソファに寝転んでスナック菓子を食べながらテレビを見て、お昼には友達と高級料理店でおいしいご飯を食べ、それからお昼寝をしますね。夕方に起きて夫たちのために夕飯の準備をして……早く全自動料理機ができるといいですのにねぇ。あら、脱線しましたわね。それからまたテレビを見ながらだらだらと過ごし、夜更かしをして三時くらいに寝てますわ」
「これは大変不健康そうだ。折角なので旦那さんの休日の過ごし方もお聞きしましたので、よろしければ奥さんの休日の生活の方もお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、むしろ話したくって仕方ありませんわ。私は旦那に子供を預けて、毎週日曜日は私のことを必要としてくれる若い学生さんとデートをしますのよ。そして二人で真昼間からお酒を飲んでどんちゃん騒ぎ、もうこれが楽しくて楽しくて」
「そ、そうですか……とても楽しそうだ」
「ええ、人間、いくつになっても恋はするものですよ。それに昔と違って今は旦那がお金を稼いできてくれるので、私は何不自由なく暮らせてしかも遊び放題。まさに天国にいるみたいですわ」
「ちなみに、生活態度の方を改めることを医者として進めますが……」
「それはしませんわ」
「少しはお体を動かしたり、お酒やたばこを控えた方が……」
「ありえませんわ。今は何でも楽にできる道具がありますから、それを使わなくちゃ損ですし、煙草やお酒をなくしてしまったら、人生がつまらなくなりますもの。今の私の生きがいは、毎日だらだら過ごして、ちょっとばかりの刺激を余すところまで堪能することですもの」
「そうですか、あなたが満足しているなら、それでいいでしょう。では、もう十分ですのでお帰り下さい」
奥さんを送り出した医者の先生はついため息が出てしまう。
「全く、人間的な生活というのがちっともよく分からないなぁ。真面目に誠実に過ごすのか、自堕落に不誠実に過ごすのがいいのか、全然分からないや」
医者の先生はそう言って、次の患者さんを呼んだ。この医者さんも、お仕事が忙しくて二日も家に帰れていない。人のためお金のために頑張ることが、少し空しくなったとある日のことであった。
伝統
これはとある学生達のクラブ活動の今後の方針を決める会議のこと。先輩たちが引退し、新しい代に生まれ変わった幹部たちの最初の話し合いの最中、最上級生の二年生の中に一人混じった一年生の彼が発言をした。
「僕は、この新入生歓迎飲み会というのは開かなくてもいいと思います」
言い切った彼は最初が肝心と言わんばかりに得意げに持論を展開し始めた。
「新入生たちはみな未成年でお酒も飲めやしないのに連れていくのは可哀そうだし、楽しめるはずがありません。それに現在の部員たちが新入生の分も負担するので、かなり苦しくなるのではないかとも思います。僕はデメリットの多さから今年は廃止すべきだと思います」
淡々と言い切った彼は涼しげに席に座った。
「いや、それは無理だ」
しかし、先輩たちは一堂に難色を示した。
「なぜですか? やる意味がないじゃないですか」
もちろん、彼は先輩たちの反応に怒り心頭だった。
「やる意味はある。新入生たちは緊張でがちがちでなかなか先輩たちの中に溶け込もうとしない。そこに俺達先輩らが酒を飲んで、酒の力を借りて彼らの壁を崩してあげれば、馴染みやすくなる」
それには一理あった。しかし、彼は自分の言い切った言葉に絶対の自信を持っていた。そのデメリットを覆されない限り、彼は先輩たちの反論に食いつこうと思っていた。
「それに、これは昔からある伝統行事だからな」
一人の発言に、彼以外の人間はみな頷いた。伝統。彼の嫌う言葉だ。そして何より、その意味のないことを伝統と呼ぶことで、その行為は神格化され難攻不落の城と化してしまう。そうなったら、彼がどれだけ捲し立てても、覆りはしないと彼は悟っていた。
「……わかりました。この話は無かったことにしてください」
彼は食い下がるしかなかった。しかし、彼の目はいまだに爛々と闘志を燃やしている。まるで革命家のようなその目は、ゆるぎない決意の証だった。
それから一年が経ち、次の部長は彼となった。一年前と同じ幹部たちの最初の会議で彼は真っ先に発言した。
「今年の新入生歓迎飲み会は無しということにしよう」
それに彼の同学年の人達はみな賛成した。彼は、自らの意見に従うイエスマンばかりを幹部にしたのだった。
「先輩! それには反対です!」
すると一年前の彼と同じ境遇だった、後輩の代表としてきた二年生の女子が彼に食いついた。
「それはなぜか、理由を教えてくれ」
彼は自信満々に問いかけた。
「私は新入生歓迎飲み会で、先輩たちと仲良くなれました。また、それを契機にして入部していった子もいます」
「しかし、今年入部したのは君たちを含めて三人。新入生歓迎飲み会に来た新入生は八人はいたはずだが、結局入らなかった子もいるじゃないか」
「それは……」
彼女が言いよどんだところで、彼はしめた、と微笑した。
「先輩たちの新入生歓迎飲み会での態度が僕は行けなかったと思ってるんだ。決して僕らの代ではそのようなことは無いと信じてはいるが、万が一ということもあり得るし、大きなデメリットを背負いつつ、見返りは少なかった。このようなことを延々と伝統として続けていくのは意味がないと僕は思うんだが?」
「でも、伝統は守らないと……」
「守るべき伝統は意味があるものだけでいい! 随時変えてその時その時に合わせることの方が大事なんだ!」
彼はすさまじい剣幕で言い切った。それにはさすがの彼女も、沈黙せざるを得なかった。
「では、今年は無し、ということで決定だ」
そうして、新入生歓迎飲み会は中止となった。彼は革命家のようになった気分で、大変満足していた。けれど、彼のやり口は明らかに独裁者のそれと同じであり、この後、彼がクラブを引っ張っていくたびにいくつもの問題を抱えることとなった。
そうして彼が引退した。後輩たちの中で彼は非常に悪名高い部長として名を連ねたが、肝心の本人はとても満足げだった。
そして、また例の会議の時がやってきた。
「先輩! 俺は新入生歓迎飲み会をやるべきだと思います、他の部では……」
今度は、後輩の男子が発言するも、新入生歓迎飲み会をしないのがうちの部では伝統だと言い切って却下し、その次の年は昔の伝統を復活させるべきだと主張し、新入生歓迎飲み会は再び開催された。勘のいい皆さんはお分かりでしょうが、この次の年ではまた屁理屈を巧みに使って新入生歓迎飲み会が取りやめになりました。
これではもはや、伝統を壊すのが伝統と言ったようなものですね。壊す人は必ず、改革を成功させたとお思いでしょうが、その彼、彼女が伝統を否定したように、いつか必ずまた彼の作った伝統を否定するものが現れるのです。意味のない伝統はいらない、と彼は言いましたが、伝統として残っているものには少なからず意味があるものです。彼は狭い視野のせいでデメリットだけに注目して、メリットを完全に無視していたから、このような愚行に走り、自らの作った伝統をも否定されるのです。改革をうまくする人間は、メリットデメリットをうまく見極め、メリットをうまく際立たせるように変えていくものなのですが、それができるほど頭のいい人間がそうそういるわけではありません。はてさて、このクラブに真の改革が訪れるのはいつになることやら……。
健康販売
各界の著名人たちが良く訪れるため、一部ではセレブクリニックなどと呼ばれている行インが、都内某所にあった。
そこへある会社の社長が訪れた。
「先生、ここでは健康を買うことができるとお聞きしたのですが……」
社長は脂ぎった顔をてかてかさせ、煙草臭い息を吐いた。
「はい、一か月から一年までの健康をお買い求めできますよ」
先生はにこやかに答えた。
「それにしても、あなたは大変不健康そうですね」
「ええ、ある病院で余命三年とまで言われてしまうほどの不健康なんですよ、私。ですが、生活を改めるなんてとんでもないと思いまして、なんとか楽をして健康になれないものかと思案していたら、ここを見つけたのですよ」
「そうですかそうですか、では、どれくらいの健康をお買い求めですか?」
「そうだなぁ、せっかくだから一年分お願いしましょう」
「では、一か月分の健康が税込百万円ですので、一年で千二百万円頂戴しましょう」
「それ位なのか、本当は一億でもするのかと思っていたよ」
社長は自らのアタッシュケースから、札束をぽんぽん放り投げて、先生の前に札束の山を積み上げた。
「はい、では千二百万円ちょうど頂きました。どうぞ、この特性健康ドリンクをお飲みください」
先生が取り出したのは、紫色の液体だった。それがジョッキになみなみ注がれており、つーんとした匂いまで漂わせている。社長は顔を顰めて先生に問いかけた。
「これを飲むんですか? 酷いアンモニア臭がしてとても飲めたものじゃないと思うのですが……」
「良薬口に苦しと言うではありませんか、匂いも見た目も味も酷い物ですが、これを飲むだけで向こう一年間病気も怪我も一切起こらなくなりますよ。老化にだけは効果はありませんが、それでも十分な効能があるはずです」
体にいい、しかもきちんと効能まで教えてもらってしまったら、飲まないではいられない。ええい、ままよ。と社長はジョッキを一気に煽った。ごくごくと喉を鳴らして液体を腹の中へ押し流していくが、顔は真っ赤にそまり、今にも破裂しそうなほどにうっ血している。
「ぷはっ!」
社長は飲み干すと、すぐにジョッキを手放して自分の喉を抑えた。
「ま、まずい、それに喉が焼けるように熱い。ぐるぐるとお腹もなっている。ああ、今にも死にそうなほどに苦しい」
「大丈夫です。そのうちすぐに楽になりますよ」
「そのうちってどれくらいだ?」
「さぁ、個人差がありますが、だいたい五分くらいは……」
「ご、五分もこれに耐えるのか……辛いなぁ」
そう聞いて、先生はげらげらと笑った。
「そうですともそうですとも。苦しくって当然ですよ。健康を維持するには食事制限やら禁酒禁煙やら運動が必要なんです。それをたったの五分で完璧に健康な体にするのですから、それ相応の苦しみを受けて当然なんです」
「うぅ、少し良くなってきた。しかし、このドリンクは何でできているんだ?」
「それはですね、人の健康でできているんです。ある人の健康を一年分、特別なお薬と機械で吸い取って液体にするのです。それを私たちが高価で買い上げて、それをお客様に提供しているのですよ」
「そうなのか。それにしても自分の健康を売るだなんて馬鹿なことをするやつもいるんだな」
「バカなことかどうかは私には分かりかねますが、そうですねぇ、多くの人はお金目当てでお売りになりますね。そのほかにも中毒になってしまって、何度も健康を売りに来る人もいらっしゃいますね」
「中毒?」
「はい。この健康を吸い取る薬と機械は、精神的な快楽と肉体的な快楽を与えるのです。それはもう大変心地よいらしく、これにはまってしまうことを中毒と我々は呼んでいます」
すると、社長は目を輝かせて先生を見た。今はすっかり苦しみを忘れてしまったらしい。
「そんなに、気持ちいいのか?」
「……ええ、煙草よりもお酒よりも麻薬よりも気持ちよく、どこのお店でも誰からも味わえないほどの快楽だとお聞きしていますね」
「少しだけ、少しだけそれをさせてはもらえんか?」
社長はすっかり「快楽」という言葉の虜になっていた。
「仕方ありませんね、では最初は無理せずに一か月から……」
その後、社長は一年も経たずに亡くなった。彼はあれから中毒者となってしまい、あれよあれよという間に残りの人生分の健康を全て明け渡し、ただの風邪にかかって死んでしまったのだった。彼が最期に残した言葉はこうだった。
「最後に、最後にもう一度だけ、健康を吸い取ってくれ……」
彼は一生、あの快楽を忘れることができなくなってしまったようだった。
何かを忘れた
朝起きると、僕はすっごく大事なことを忘れているような気がした。あれ、何を忘れたんだろう。起きてすぐから僕はずっとそればっかりを考えていた。
しかし、お腹がすいた。そう思っていると、扉の近くの小さな窓から、お皿にたっぷり盛られたカレーが入ってきた。
「おや、こいつは便利じゃないか」
僕はそれをひとしきり食べるととっても眠たくなった。
「眠い、寝よう」
もしかしたら寝て起きたら何かを思い出すかもしれない。布団に横になると僕はすぐに寝付いてしまった。
起きた。しかし、僕は何を忘れているのかさっぱり思い出すことができなかった。ああでもないこうでもない、あああ、僕は一体何を忘れているんだろう?
夜になった。昼寝をしたせいかなかなか目がさえている。けれど、やることもなく、何かをしようとも思えないほどに僕が何を忘れているかが気になって仕方がない。僕は布団に横になって必死にそれを思い出そうとした。
……ところで、僕は一体だれなんだ? いや、待てよ。もしかしたら僕は僕自身が誰かを忘れていたことがずっと気になっていたのかもしれない!
ああ、そうだそうに違いない。ほら、どんどん思い出してきた! 僕は高校卒業してから五年間も引きこもっていて、両親もすっかり僕の社会復帰をあきらめて、僕自身も何をしても全部が全部だめで、途方に暮れ始めて……あぁ、ダメだ、いやなことばっかりを思い出してしまう。止めた。こんなこと思い出したって、何にもならない。寝よう、寝て、すべてを忘れよう。それが一番だ。
究極の選択
僕は会社の重役を任されているサラリーマン。朝七時出社で帰ってくるのはいつも十二時を超えてしまう。今日も、十二時半に帰宅した。
「ただいまー」
「今日も遅かったのね」
「ああ」
妻は大変不機嫌だった。最近、僕達の関係に隙間風が吹いているような気がする。これがすれ違いというものだろう。
「ねぇ、あなた。私と仕事、どっちが大事?」
「急にどうしたんだい?」
「ねぇ、教えてよ! 私ってあなたにとって必要なの!?」
「はっ!!!」
僕は気付いた。そうだ、僕は妻がいないとご飯も作れないし、こんなに夜遅くに帰って迎えてくれる人も誰一人としていない。そうだ、僕にとっては仕事よりも妻の方が大事なんだ。やっとそれに気が付いた。
「もちろん、お前の方が大事だ!」
「本当に!?」
「ああ、その証拠に今すぐ仕事を辞めて見せよう」
こうして、僕は無職になった。
そして一週間後。僕が今でゴロゴロとしていると妻がぷりぷり怒りながら言った。
「もう! こんな一日中ごろごろしていないで、仕事でも捜しに行ったらどうなの!?」
「僕は君の方が大切なんだから、仕事なんかいらないよ」
「そうですか、なら私は出て行きます」
こうして、妻は出て行って、僕は仕事と妻の両方を失った。
「……あの時、僕はどうしていればよかったのだろう?」
卒業式
『卒業生、答辞』
「お父さんとお母さんが、文句を言って順位を付けられなかった」
「「運動会!」」
「お母さんが着いてきて、家族旅行と大差なかった」
「「修学旅行!」」
「僕は友達とお話ししながら寝たかったのに、お母さんと同じホテルに泊まることになりました」
「みんなで桃太郎をやった」
「学芸会!」
「でも、みんな桃太郎でちっともお話が面白くなかった」
「僕は犬がやりたかった」
「私は鬼がやりたかった」
「「僕達の意志を踏みにじったのは、お母さんとお父さんたちです!」」
「だんだんやつれていった」
「「新しい担任の先生!」」
「僕は先生のことが好きでした。でも、二か月前に自殺してしまいました」
「「先生を返して、お父さん、お母さん!」」
「授業参観でもないのに学校に来ていた」
「「たかしくんのお母さん!」」
「そのせいでたかしくんはいじめられ、転校してしまいました」
「お父さん、お母さん、過保護な子煩悩から」
「「卒業してください!」」
人生やり直しスイッチ
妻と結婚してから早二十年、僕は後悔していた。昔は可愛らしかったのに、今では見る影もない。それどころかもうすっかり優しさも何も残っていない。
「ああ、人生をやり直したいなぁ」
僕がそう呟くと、とんとん、と肩を叩かれた。
「おや、誰だい?」
振り向くと知らない人がいた。
「もし、あなた、人生をやり直したいのですか?」
「聞いていたんですか。ええ、もちろんです。妻と出会う前からやり直したいです」
男は懐からスイッチを取り出して僕に向けた。
「では、このスイッチを押して御覧なさい。さすれば、あなたはやり直したいところから人生をやり直すことができるでしょう」
「何とも信じがたいことだが、やるだけやってみよう。えいや」
スイッチを押すと、目の前が暗くなって、ふたたび明るくなると僕は懐かしい風景の中にいた。桜並木の坂道の中。そうだ、ここは僕の通っていた大学だ。
自分を見てみると、これまた懐かしいチェックのシャツをズボンに入れているファッションをしていた。僕は本当に僕がやり直したかった、妻に出会う前の大学生に戻ったらしい。
校内を歩いていると、妻に出会った。いや、のちの妻となる女性に出会ったとしよう。彼女は困っているようにおろおろとしている。そう言えば、この時に彼女に声を掛けたことからすべてが始まったのだった。
僕は彼女の横を通り過ぎようとした。何食わない顔で、困っている女性を見捨てるのは、とても心苦しいことだったが、この際は仕方がない。
そう思って彼女とすれ違ったとき、ぺきっ、という小気味よい音が足元から聞こえた。
「あーー!!?」
すると彼女が大きな声を上げて、僕の足もとに駆け寄った。僕が足を避けるとガラスの破片のようなものが粉々に砕け散ってしまっていた。
「私のコンタクトレンズが……もう、なんてことをするんですか!!」
彼女は私を見上げながら眉間にしわを寄せて怒鳴った。
「こ、これは申し訳ない」
「もう、弁償してください」
彼女は強気に僕に迫った。
「わ、分かった」
僕は彼女の勢いに押されて弁償する約束を取り付けてしまった。
「ああ、随分と高い買い物になってしまった……」
「もとはと言えばあなたが悪いんですから、当然です」
「いやぁ、申し訳ない……」
「……ところで、あなた野球は好きですか?」
「ええ、好きですよ」
「良かった。……そのぉ、弁償してもらってからいうのもなんですけど、やっぱり私も少しは申し訳ないなって思ってて、そのお詫びとお礼もかねて一緒に野球を見に行きませんか?」
そう言えば、初デートは野球観戦だった気がする。彼女がそう言ってチケットを見せると、明日のナイターの試合だった。
「あ、この試合は……」
あの有名な松田選手が記念すべき八百号ホームランを打った試合じゃないか。確か、外野席で観戦していて僕の隣に座っていた人がそのボールを取ったはず。僕はそれがどうしても欲しくて悔しい思いをしたのだった。そうだ、結果を知っているんだから、僕がその席に座れば今度こそそのボールが僕の物になるのでは?
「よし、一緒に行きましょう」
「本当ですか? ありがとうございます!」
翌日の晩、僕達は試合の観戦に行った。
「じゃあ、ここに座りましょうか?」
彼女が座るように促すのを、僕は止めた。
「いや、こっちに座った方がいい。きっといいことがあるよ」
「え?」
僕は彼女の手を引いて、ホームランボールが落ちる場所に座った。
そして試合が始まり、七回の裏、松田選手の打席が来た。そうだ、この時に彼は八百号のホームランを放ったんだ。
「よし……」
僕は身構えて待った。
「どうしたんですか?」
「いや、松田選手がこれからホームランを打つんだ。そのボールがここに来るよ」
そう言うと、彼女は笑った。
「ははは、だといいですね」
彼女はちっとも真に受けてはいない。まぁ、そうだろう。だが、僕は未来を知っている。かきーんという音を響かせると、ボールは大きな山形を描いて外野をそしてフェンスを飛び越えた。
僕はグローブをはめた手を大きく空に掲げた。すると、そこにめがけてボールが一直線に落ちてきた。計算通りだった。
「す、すごい! 本当にホームランボールが落ちてきた!」
「ははは、どうだ、言った通りだろう?」
「ええ、すごいですね。よく分かりましたねぇ」
「いやぁ、それほどでも……」
「でも、いいなぁ、松田選手の八百号のメモリアルホームランボール。私も欲しかったなぁ」
「そうかい? でも心配することはないよ。これから、僕達は結婚してこのボールも君のものにもなるんだから」
「え?」
「……あっ」
僕は有頂天になっていて、つい口を滑らせてしまった。
それからまた二十年が経った。結局、僕はまた彼女と結婚してしまった。僕は人生をやり直せたのに、そのチャンスをすっかり棒に振ってしまったらしい。
でも、僕はそれでも今は良かった気がする。あれから、僕はもう一度彼女に恋をして、同じような恋愛を楽しむことができた。
今ではすっかり太ってしまった妻。でも、あれからもう一度痩せていたころの、可愛かったころの妻ともう一度結ばれたということは、どれだけやり直したくてもやり直せない、決められた運命なのだろう。
「もし、あなた、人生をやり直したくありませんか?」
僕はまた、あの男に声を掛けられた。
「いいえ、結構です。一度きりの人生、どれだけやり直しても結果は変わりませんから」
僕はそれだけを彼に告げて、妻の待つ家路についた。
三上司
私の名前は樽谷アン。今日から新社会人、バリっバリの営業ウーマンとしてこのフランス保険会社に貢献して見せるわ!
そんな私に教育係として三人の上司が付いた。
一人は、とても大柄な男性。
「俺の名前は、堀俊夫。自慢の腕力で契約をもぎ取るぜ!」
「ダメじゃんそれ! 完全に暴力に訴えて押し付けてるよね!!?」
二人目はイケメンの男性。
「僕の名前は、荒瑞樹。僕は女性に目が無くってね、人妻でも食っちまう美男子なんだ。自慢の美貌で契約を掴みとるよ」
「男性版枕営業!!?」
三人目は上品なダンディなおじ様。
「私の名前は安登翠。真面目な営業でお客様のニーズにお応えします」
「よかった、最後はまともそうだ」
「よし、私たち三人がそろったところでいつものあれをやろう」
「フランス保険会社の社訓だな!」
「ああ、景気づけにやりましょうか」
「新人の君も、これからやることになるから、よーく見ておくんだよ」
「は、はい! わかりました」
いったい何が始まるのだろう? 三人の上司は胸ポケットからペンを取り出して、それを空の一点に集中させるように掲げた。そして、安登さんが高々と叫んだ。
「社員は会社のために!」
その後で、三人は一斉に言った。
「「「会社は社員を奴隷に!!」」」
「ここ完全にブラック企業だーーーーーーーー!!!!!」
禁忌の旅
乾いた風が砂塵を舞い上げる荒野の真ん中で汽車は止まった。そこで僕は車掌に連れられ、汽車を降りた。
車掌は慣れた手つきで拘束具を外し、僕はやっと自由を手にした。
「君はここで下車だ」
「僕だけですか?」
汽車を見ると、窓に群がった他の子供たちが僕に視線を注いで、騒がしく声を立てている。
「ああ、彼女は予定通りに終点まで連れて行く」
車掌はそう言うと、外した拘束具を拾い、汽車に戻ろうとする。
「待ってください。一瞬だけでも会わせてくれませんか? 一目だけでも、彼女の姿がみたいんです」
車掌は振り向かずに首を左右に振った。
「ダメだ。会いたいのであれば、君がその足で、自分一人の力で終点まで来なくちゃならん。それが君の罪、掟を破り、禁忌に手を染めた責任だ」
無情な言葉を浴びせ、彼は車両へと入っていく。僕は痩せて骨ばった膝を地面に着いた。知らない痛みが膝小僧に突き刺さる。
汽車が汽笛を鳴らして動き出した。泣きそうな顔を上げると、通り過ぎていく何両もの車両が目の前を通り過ぎていく。すべての車窓がみすぼらしい僕の顔を見届けて行った。罪を犯した罪人。力のない僕の姿を彼らは目に焼き付け、禁忌を犯した者の末路を見届け、教訓として心に刻んでいっただろう。これまでの僕と同じように。
最後の車両を見送って、僕は立ち上がった。いつまでも泣いてはいられない。生きてあるかなければならない。僕は歩く。先に着いた終点で僕を待っているであろう彼女と、もう一人に会いたいから。
欲望と悪魔
拝啓サタン様
私は、つい先日までアフリカで活躍していた悪魔にございます。今、日本におります。その日本で私はじつにおかしな体験をいたしております。
日本に来て、私は最初にとある女に目をつけました。彼女は妙齢でいかにも欲深そうな独り身の女で、私は女よりもすぐれた知能を持っていると自負しておりましたから、早速彼女に交渉を持ちかけました。夜、彼女が一人で仕事場のクリニックに居る時に背後から声を掛けました。
「私は悪魔だ。お前の願いを叶えてやろう」
「そう、悪魔ですか。でしたら、今すぐ知り合いの神父様をお呼びしますので、退魔されてください」
彼女はそう言って、奇妙な小型の機会、人間が良く使うスマートフォンという奇怪な道具です、を取り出して、ここに憎き神父を召喚しようといたしました。
「止めろ。分かった、私はすぐに出て行こう」
神父を呼ばれたらひとたまりもありません。ですので退散しようとしたところ、女はにやにやと笑いながらそれを止めました。
「待って、あなた、悪魔でしょう? 人の魂を喰らうの?」
「ああ、もちろん。願いを叶える代償にじわりじわりと魂を喰らうのだ」
「そう、だったらいい話があるの。私にとっても、あなたにとっても有益な話よ」
彼女はあろうことか、私に交渉を掛けようというのです。私はその話に乗りました。悪魔ですから、自らの利益になることは進んでするのがモットーでしょう?
そして、彼女の持ちかけた企てを私は実行しました。彼女が指定したある家に、私は深夜に忍び込み、寝ている住人の一人の枕元で、こうささやくのです。
「私は悪魔だ。ほおら、お前の弱い心に付け込んでくれよう」
そう言うと、人間は寝ながらに苦悶の表情を浮かべます。それを見ているだけでも私は愉快極まりないのですが、本当ならこのまま魂を喰らった方が、空腹も満たされる。けれども、女からそれは止めろとくぎを刺されているので、できませんでした。そんな餌を前にしながらも私は夜中ずっと囁き続けたのです。
翌日、女のクリニックに昨日の住人が現れました。
「先生、昨夜私は変な夢を見てしまいました。どれもこれも、私の心の病気から来る悪夢なのでしょうか?」
住人は沈痛な面持ちで女に相談を持ちかけました。
「それは大変ですね。心の問題よりも、睡眠の質によるものかもしれませんね。でしたら、こちらのお薬をお飲みください。そうすればぐっすり眠れます。きっと、その悪夢を見ることもなくなるでしょう」
その晩、私はもう一度その住人の家に行きました。夜中、寝ている住人の横で今度はこうささやくのです。
「この夢は薬の効果によるものです。あなたの心の弱さを私が直して見せましょう」
そう言って、私は住人の魂の半分ほどをその場で食べるのです。住人は苦悶の表情を浮かべますが、食べ終わった後にこう言ってあげるのです。
「これでもう、あなたの心の病気は治ります。しかし、薬を絶えず先生からもらわないと、また、弱った心に付け込んで、悪魔が現れるかもしれませんよ」
そうして、翌日になれば、住人は大層な笑顔で女に報告するのです。
「先生、お薬の効果は絶大でした! 副作用のせいか体はだるいのですが、それでも悪魔が出る夢を見なくなりましたよ。先生、これからもお薬を買いに来ます」
女はそれを聞いてニタリ、と笑うのでした。
サタン様はお分かりでしょうが、女が渡した薬は、ただの小麦粉でしかありません。すべてが女の策略なのです。女は自らの利益のために、私を利用しているのです。私も魂に楽にありつけるため、今も彼女の手先となって一連の作業を夜な夜なこなしているのです。
人間と言うものは随分と変わりました。道具を巧みに使い、さらに言葉巧みに悪魔までも道具にしたてあげてしまう。人間の欲望は尽きず、それをみたすためなら、全生物一の頭脳を使うことを惜しまない。欲望の権化と化した人間を、私たち悪魔がペテンにかける必要は、もうないのかもしれません。むしろ、これからは我々がペテンにかけられるようになるかもしれません。人間は、その欲望のために成長を続けているようです。奴らこそ、欲望の悪魔です。
花へ
麗しい花へ。僕は君に何をしてあげられただろう。水をあげること、虫がとりつかないように君を守ること。君が無事に枯れることのできるよう、君を見守り続けること。
ときに君は折れそうなほどに萎れたことがあった。その時は僕が支えてあげた。その反対に、僕が折れそうになったとき、君はずっと僕に寄り添って支えてくれたね。
僕は君が種だったときを、芽だったときを知らない。僕が君に出会ったときに、君はすでに大輪の花を美しく咲かせていた。心惹かれた僕は、君とずっと一緒に居ることを誓った。花びらが色を失い、一枚一枚地に落ちていく姿を、残酷な時に君の美しさをもぎ取られていく姿を見届けられる権利を手に入れた。
枯れ行く君も美しい。ただ枯れていくだけじゃなく、君のありったけの生命力を次の命へと繋いていた。僕はそれをただ眺めることしかできない、苦しみを分かつこともできず、ただただ自分の平穏を憎み続けた。
今、君はその短い生涯を終えようとしている。僕は、その最期を見届けている。最初に誓ったことを後悔するほどに悲しみにくれながら、君に触れ、残りわずかな君の生を感じている。君と逝きたい。寂しさがあふれ出てくる。けれど、それはできない。君の繋いだ新しい命を、僕は支えていかなくちゃならない。
だから、君とお別れをしなくちゃならない。ただ、君の最期までは寄り添わせて欲しい。君に見せたいものがある。ほら、見えるかい? 君が残した種だよ。僕が立派に育ててあげるからね。いつか、僕が君を手に入れたときみたいに、他の男の手に譲り渡すときまで。
甲子園の恋
八歳の夏、父と母に連れられてやって来た炎天下の甲子園。私はそこで初恋をした。マウンドに立つ、エースナンバーを背負った白いユニフォームの彼。彼の放った白球が、爽快な音を立てて、キャッチャーミットに収まる。
試合終了。腕を高らかに上げる彼のもとに、同じユニフォームのチームメイトが集っていく。私もその輪の中に入っていきたい。切実に願ったけれど、私には離れた客席から声を上げることしかできなかった。その声が、彼のもとに届くように、ただひたすらに言葉にならない声を上げていた。
それから、私は野球に夢中になった。彼に会いたかった、彼に近づきたかった。選手になって彼と同じマウンドに立つことが夢になる。そのうち、そのことも忘れて夢中になった。いつしか初恋を忘れて、甲子園のマウンドで投げる私の姿が夢と変わった。でも、女の子は甲子園に立つことはできないと知り、夢をあきらめた。
夢をあきらめて、私は恋をした。彼は野球部のエースで、私はマネージャー。彼は私に約束をした。
「必ず、甲子園に連れて行く」
十八歳の夏。私は再び甲子園にやってきた。今度は客席じゃなくて、選手をサポートするマネージャーとして。プラカードを持って行進した際に、私は自分の夢がかなったかのような気がした。私は心の底から満足した。
チームは一回戦で敗れて、早々に退散。けれど、恋人の雄姿は評価され、彼はプロになった。私は彼の後を付いて行くことに決めた。マネージャーからパートナーとなって、彼を支えることを誓った。夢を叶えてくれた恩返しだったのかもしれない。
プロで活躍する彼を日夜応援する。なかなか会うことのできない生活。それでも私は満足していた。満足するしかなかった。一軍で活躍する彼のおかげで、お金も十分にあり、家族や友人から羨まれる誇らしい夫を持てている。ただ、私の胸には何かが不足していた。
二十八歳の夏。私は夫を応援するために甲子園へとやって来た。関係者席から打席に立つ夫に声援を送る。
九回の表ツーアウト。〇対一、私が応援するべきチームは負けている。最後の打者となるか、ゲームを振り出しに戻す立役者となるか、チームの命運を背負った夫が、バッターボックスに入る。
「打って……」
願う。甲子園でこんなに応援するのは、十年ぶりだった。けれど、私には二十年前のことの方がよっぽど思い出されていた。あのときは打たないで、と願っていた。私の人生のすべての始まりの時と真逆の願い。
相手チームのピッチャーが白球を放つ。それが、二十年前と同じ音を立ててキャッチャーミットに収まった。
「バッターアウト!」
無情なひと言が高らかに叫ばれる。肩をがっくりと落とす客席の中で、私は一人、マウンドに立つ勝利投手に目を奪われていた。
二十年前と同じく、腕を高らかに上げる男。その日に焼けた黒々とした顔を満面の笑みにした姿が、私の心を二十年前まで巻き戻す。
マウンドに集まる相手チームの面々。ユニフォームはあの頃とは違うけれど、あの時と同じ花がマウンドに咲いた。
私は声を出せなかった。代わりに胸がどきどきと高鳴っている。懐かしい、二十年前と全く同じ気持ち。それが、眠りから覚めるように舞い戻って来た。
私の初恋は、まだ終わっていなかった。
どうも作者です。短編を書くことを日課にしようとしてすぐに挫折して、ちまちま書き続けて出来た作品たちです。のっけから申し訳ないです。何がかはお分かりでしょうけども。基本的にゆるい作品たちでしたので、楽しんでいただけたら光栄です。では、またどこかでお会いしましょう。