五
「静養院というのは、そんなに広いところなのかね」
「広いさ。掃除婦だけでも何人いるんだか。あ、庭師も多いな。そりゃあ見事な庭なんだぜ」
小さく爆ぜる暖炉の前で、食事を終えた男たちが翌日の支度をしながら言葉を交わしている。
主に喋っているのはカミンとミドヴィエで、今の話題はカミンが務める東の静養院のことだった。
ドルホーフ――東の山間にあるサニ・イレラ静養院は、病気や怪我、または世俗に疲れた貴族たちの、病院兼集合住宅だ。大半は百歳を超え一線から退いた老人たちで、残りの一握りが、生まれつきに病気がちか、体のどこかを壊したかで政に手出しのできない若者である。
死に前の楽園、と縁起の悪い言い方をされることも多いが、貴族御用達の施設であることには違いない。貴族で王護兵候補のフォードルや城門番のミドヴィエを羨む冗談を多く口にしているカミンだが、彼も彼で、恵まれた職場にいる男だ。
「俺も嫁とガキと、あんな所で余生過ごしてみたいねぇ」
「君は余生を思うには早いだろうよ! わしならともかくなァ」
「あんただって早いさ! 孫は何人いるんだい? 曾孫はまだか?」
背を叩き合い、肩を揺らしながら交わすやり取りは明るかった。家族の話題を出しても余裕を持っていられるのは、この務めがまだ始まったばかりだからだろう。
「そういえば君は、奥方は?」
一頻り笑ったミドヴィエが、武器を並べて点検していたイグラを振り向いた。丁寧に弓を取り扱っていた男はちらりと彼らの方を見て、緩く首を振る。
「いない」
「……その歳で? 珍しいな」
カミンも振り向き、身を乗り出した。イグラは無言で頷く。
ユフトの婚礼は大抵、二十代のうちに行われる。遅くても三十になる頃には家庭を持って、子供を作って暮らしているものだ。イグラの歳なら、子供が一人か二人いてもおかしくはない。
「いや、人それぞれだろうよ。うちの末娘ももう二十八歳だが、まだ決まらん。――気を悪くしたならすまんね」
「いや」
ミドヴィエが笑いながら詫びをいれる。イグラはもう一度頭振って、自分の作業へ戻ろうとした。
「ただいま戻りました……」
その時にカタンと鳴ったのは、木製の盆が円卓に置かれた音だった。食器を重ねたそれを置いて、西側――神官が身を置く祈りの部屋から戻ってきた青年、フォードルは深く溜息を吐いた。緊張が解けたものに、疲労が混じった吐息だった。
率先して神官に配膳を行った真面目な彼はもうほとほと疲れた顔をしている。見取ったカミンがにやりとして立ち上がった。
「お疲れさん。……疲れた顔だなぁ。神官様に取り入ろうってんじゃないだろ、力抜いていきなよ」
「どうにも。僕、あの方苦手なんです……」
彼にしてみれば、若者を労いながらの、ちょっとした冗談だった。そんなことはない、と慌てて否定されるのを前提とした。
しかし返されたのはそんな元気のない言葉であり――カミンはきょとんと目を丸くした。直後、発言した本人もはっとする。
「あっ、いや、悪い方ではないですし、嫌いというのではないですよ! ただ――ちょっと怖いというか、気は休まらないというか」
「あの方は城の神官の中でも、とりわけ真面目で厳しい方だからなぁ」
「でも自分からせっせと近づいてるな? ……ああ分かった分かった。分かってるよ。大事な神官様だものな」
慌てて早口で捲し立てるフォードルをミドヴィエが助ける。彼は何度も頷いて、カミンに真実を訴えた。焦る若者を宥めて、カミンはちらりと西の通路へと視線を走らせる。
ドローストは、まだ戻らない。
「……苦手でも、尊敬はしてます。とても、国に仕える神官に相応しい方ですから」
ミドヴィエが言ったとおり真面目で厳しい神官のことを思い、若い男は困った声色のままにぽつりと呟く。皆が――イグラも含めた全員が、彼のほうへ、顔を向けた。
「子供の頃――友人と、王城の庭で遊んでいたときにお会いしたことがあって。あの方……ドロースト様も、勿論、その頃はお若かったんですけどね」
王城の庭で遊ぶ、という一般の民にとって非日常的な文句にカミンは眉を上げたが、口を挟むことはしなかった。他の二人も黙ったまま、手だけ動かして話を聞いている。
「今でもはっきり覚えてるんです」
――これは十年前の秋の出来事。
と、フォードルは一時、過去に立ち返った。
紅や黄、鮮やかに染まった庭木が葉を散らす城の中庭で、二人の少年は座り込んで話していた。八歳になったフォードルと、その友人の、少し年上の貴族の少年。金の柔らかな髪を持つ彼は、身分でもフォードルより少しだけ上に居た。
「他の国はさ、黙ってても春が起きるんだってさ。雪ばっかりじゃなくてさ」
仕立てのよい青い服の裾を握りながら友人は言った。幼いフォードルは彼を見上げて目を瞬いた。
「……ほんとうに?」
「父様の本に書いてあったよ。一年中雪の降らない国もあるんだ」
父親の本で得た知識を語る兄貴分と、それに感心して語り手を尊敬する弟分。それが、いつもの彼らの関係だった。
普段どおりの関係、普段どおりの会話。
「……いいよなあ。僕もそういうところに生まれたかったな。そうしたら、冬でも毎日お菓子とか果物とか、食べられるし。それに好きなだけ森で遊べるよ。――こんな国に生まれたくなかったなぁ」
それは少年の呟きの後、突如として破られた。
「生まれた国を悪く言うものではない!」
中庭の周囲に廻った回廊から響いた怒声に、二つの小さな体が竦む。彼らが見開いた目を向けた先には、白い服に黒無地の帯襟を付けた若い神官が立っていた。
聖堂や城に引きこもりになる神官らしい薄い体躯。どこからそんな大声が出たのか、という声量は、二人に逃げ出すことを許さず、その場に縫いとめる。
――この前、絵で見たヴーカー様に似てる。
少年フォードルは、父に連れられていった屋敷に飾られていた絵画のことを思い出した。
長身の老人の姿で現れる裁きの神と、柱の横を抜けて庭を歩いてくる神官との共通点は、そう多くはなかったのだが……表情一点で言うのなら、あながち間違いではなかったかもしれない。
眉を寄せ、元からきつい印象を与えがちなつり目を更に吊り上げて。下位神官であることを示す黒い襟の胸を張り、彼は自分を見上げる少年たちの前に立った。貴族の少年たちにとって、優しい母が怒ったとき、威厳のある父が怒ったとき、それに匹敵する――もしくは上回る剣幕と恐ろしさだった。
「貴方はこの国が悪い国だとお思いか。生まれた者が祝福されない国であると。――そうでないのなら、そのようなことを言ってはならない」
その顔に比べ、先の怒声と比べ。引き結んだ口を開いた神官、ドローストは、落ち着いた声を重ねた。二人の子供は黙って、神官の歪んだ顔を見上げるしかなかった。
「羨むのはよいだろう。だが、ユフトを悪く言うのではない。本をお読みになられるのなら、菓子や果物がどうやって貴方の手に届くのか、それも調べてごらんなさい。麦も果実も黙ってはろくに実らない。蜜は集めねば口に入らない。それは他の国でも変わりはない。貴方が遊ぶ間に、誰が何をしているのかを考えなさい。……貴方がどれほど神や人々に、国に愛されているのかを」
フォードルは呆然と状況を受け止めていた。隣で友人が怯んでいるのも、意識の外だった。
見上げた先で神官の瞳が揺れるのは、彼には泣き出す手前のようにも映った。強く吐き出される言葉に含まれていたのは、怒りではなく嘆きだったのかも知れない。
「貴方のできることを考えなさい。もしこの国が恵まれていないと言うのならば、貴方がよくなさい。豊かな国にするために努めなさい。誰もが冬に瑞々しい果実を食べられるような国に。貴方たちが此処に居るのは、その為なのだから」
「……泣きも逃げもしませんでしたが、人に怒られてあれより怖かったことはありません。すべてが、物凄く真剣でしたから」
当時とばっちりを喰らった少年は、まだ眉を下げた困り顔のままで呟き結ぶ。
話が終わって一時静かになったその部屋で空かさず動いたのは、壁際で黙っていたイグラだ。全ての矢を点検し終え、矢筒にしまいこんで立ち上がる。
「寝てもいいか。暖炉番が必要なら、残るが」
日が沈んでから、既に結構な時間が過ぎていた。山登りをした後で、明日も山登りをすることを考えれば、休むには少し遅いかもしれない時間だった。
「あ、僕が――」
「お前は寝ろ。明日に引きずる」
真っ先に前へ出たフォードルの眉間に、疲労を指摘する言葉と人差し指が突きつけられる。指の持ち主は矢筒を提げたイグラだ。
「大丈夫。俺がやるよ」
たじろいだフォードルの背を押さえ、カミンが片目を瞑る、似合わぬ表情を作って言う。
すみませんと謝る年下の男を尻目にイグラは彼の顔を眺めた。確認する目つきにも、カミンはにこにこと笑顔で返すだけだ。
「……あんたも、そこで寝込むなよ。後で代わる」
「分ってるよんなこたぁ」
「ま、あ――火が消えることはあっても、火事になったりはしませんからね。女神様のご加護があると言うでしょう」
「神様にお任せするな。自分たちのことは自分たちで、だ」
軽口の応報は短く済まされる。イグラは少々きつい響きのする言い方で呟きながら、暖炉のある部屋を抜け、東へと消えた。足音は、フォードルが用意した中で広間から一番遠い、奥の部屋で止まった。
フォードルがゆっくりと瞬きしてから、残った二人を見遣る。
「あの方……なにか、変ですよね。無愛想とか不敬っていうより……」
心配を滲ませた口調に同調したカミンが頷いた。纏めた髪を乱すように掻いて、年長者で経験も豊富なミドヴィエを仰ぐ。
「どうも――なにか心配事を置いて出てきたんじゃないかね。そんな顔だ」
「ああ」
ミドヴィエは同じように手を上げて髭を撫で、ううむと唸った。歳で目尻が下がった顔を東から西へと移し、また東に戻して嘆息する。
「しかし神官様の前でもあれというのは、本当に困ったもんだ。神様に選ばれたというのに」
三人は揃った動作で頷いた。彼らにとって目下一番の心配事と言えば、ドローストがいつ、これに対して怒りを炸裂させるかなのだ。彼も厳しい見た目や態度よりは気の長い男だと今日の一日で知れていたが、それでも心配なものは心配である。
国の大事、春告げの儀式で仲違いなどあってはならぬことだ。特に神官となど。
「……神官様が嫌いなんでしょうか」
「どうだかなぁ」
苦手なのではなく、とフォードルが呟く。三人は揃った動作で、今度は首を捻った。