四
地下に潜り一本道を進んで、降りた分よりも更に長い階段を上がる。
上りきった先は下の大広間よりも大分狭いが、十分な広さがある、円形の部屋だった。天井は高く円天井で、銀の塗料で八角星が描かれている。
階段からまっすぐに進んだ所に祭壇を兼ねた暖炉があり、その脇には通路が二本、対を成して、逆側にも通路が二本続いていた。それぞれが南北東西の方角を示す、古い聖堂の様式だ。
下と共通しているのは、壁の隙間に柔らかな黄水晶の灯りがぽつぽつと見えることと、外から変わらない灰色の壁。風は遮られ、外より幾分かは温かいが――やはり肌寒い。
「……どうぞ」
毛皮を脱ぎ、帽子を替えて濃緑の帯襟をつける。完全に神官の装いに戻ったドローストに、フォードルが怯えた様子を見せながらも火打石を差し出した。
頷いて受け取った神官は祭壇の前で四回、打ち金を滑らせて火花を走らせた。古から続く、邪気を払う火の祭礼だ。バラシア産のラカ瑪瑙が発する火花は青白く、宙に散る。
「薪」
小さな儀式を終わらせた神官の後ろに、イグラが薪の束と点火綿を置く。声かけはやはり粗雑で、フォードルは再び表情を強張らせた。ミドヴィエとカミンが顔を見合わせた後で視線をやったが、イグラは顔を上げずに通り過ぎる。彼の横顔は無気力にさえ見えた。
ドローストがその背に一瞥くれて、今度は確かに眉を寄せて口を開く。
「……今晩はまず休む。祈りの部屋以外は好きに使って構わん。皆が此処では休まらんだろう」
が、口から出たのは糾弾ではなく、昼から変わらない、冷えるほどに淡々とした指示だった。
「誰か火を熾してくれ。私は祈祷に入る」
「あ、では私が」
場を取り持つように笑みを作ったカミンが素早く割って入る。ドローストは頷き、火打石と打ち金を手渡して西側の通路へと向った。通路の果てが、神官だけが入室を許される祈りの部屋だ。
三人が胸を撫で下ろして肩を下げる横で、イグラだけが神官が去った西を見、薄暗い顔でいる。ずっしりと重い沈黙が部屋を御し、彼らの口を縫いつけた。
最初に動いたのはイグラだった。装備を解くのに、無言のまま顔を下へと向ける。フォードルとミドヴィエも緩慢に手袋を外し始めたところで、カミンはふうーっと長く息を吐いた。
毛皮を雑に脱ぎ腕を捲り、手早く薪を支度した彼は殊更大きく、周囲の意識を引き付けるように音を立てて石を打った。さあ、悪いものは全部払え! と一緒に舌打ちまでして、暖炉の中に火を座らせる。
「さあさ、俺は飯でも作るかな。腹が減っちゃ休まらん。作業分担といこうじゃないか、諸君?」
仕上げに言う声も大きくなった。眉を下げ、溜息を飲み込んで口角を上げる。
「では――」
「出来るのかい? ……おっと、馬鹿にしたわけじゃないよ。所属はどこなんだい、野営をするようなところか?」
ようやく緊迫した状態から抜けたフォードルが声を上げると、年上の男は甥でも見るように笑みを深める。
フォードルは向けられた笑顔に合わせて笑ったが、質問の内容には眉を下げた。
「いえ、やったことはないのですが……」
「彼は王護兵候補なんだ。料理は、まあ、しないさな」
ミドヴィエが補足する。王護兵はその名のとおり王族の親衛警護を行う、城に勤める中でも上位に位置する兵職である。教養などの問題から、自然と貴族出身者が多く採用されている。
やっぱり、と頷いたカミンは、教養はあっても料理の腕はない王護の手伝いを諦め、イグラへと眼を向ける。身軽な格好に戻っていた彼は、視線に気付くと顔を上げ、三人を見てから小さく挙手する。
「俺がやろう」
「立候補なら、ちゃんとできるんだって期待するぜ。……それじゃ、お二方は他をよろしく」
溜息じみた声音に、真似をして挙げた手をひらりと返し、場を纏めた男は言った。
結局、フォードルは広間――談話室とでも言うべき暖炉の間から東の通路へ向かい、全員の部屋を用意することになった。寝具などかさばる大荷物を抱えての作業だったが、彼はなかなか機敏に動いて効率よく仕事をこなした。
ミドヴィエはある程度荷を分別した後、階下の熊たちを相手してくると告げて巨体を揺らしながら階段を潜っていった。城門番は、城で飼われているあの白い熊たちと最も親しい。
そして、本日の料理番となった二人は食料袋から白芋や人参といった野菜と鍋を取り出し、炊事場になりそうな場所を探すことになった。
「で、水はどうしたらいいんだ」
「南側にあるだろう」
「お?」
イグラが、独り言のつもりだったカミンの呟きに応じる。連れを待たずに言葉通り南側の通路へと爪先を向ける彼の背を、カミンは窺うようにしながら追った。
普通なら灯りを持って進まなければならない通路は指先ほどの小さな水晶の光で照らされ、夕方のように明るい。日頃見ることのない魔法の恩恵を受けて隅々まで見渡せる床は目立つ塵もなく、その古さと人気のなさに反して手入れが行き届いているようでもあった。
その不可思議な城は、イグラの言った通り少し南に進んだ先にある、左手の一室に炊事場を備えていた。何かの作業台じみた卓と椅子、大きな水瓶がある。
「本当にあるな。何で分かったんだ?」
「古い聖堂は、水場は南って決まってる」
感嘆の声を上げたカミンに、イグラはやはり言葉少なではあるが返事をした。カミンは目を瞬いて何か言いたげに厚い唇をもごもごとさせたが、ひとまず、その場は黙ることを選んだ。イグラが自分のほうを見ていないことを知りながら、動かした口を笑みの形にしておく。
そうする間に、イグラは水瓶を覗き込んでいる。一年間――前の使者たちが訪れたその後は何者も立ち入っていないはずの城。しかし、大人が何人か入れそうな大きさの蒼い瓶はしっかりと水を湛えていた。
涸れてもいない。その上、溜められた水は澱んでもいない。清流の澄んだ水をそのまま移したような、透明な表面と底を見せていた。
「これもか」
イグラが一応と持ってきた蝋燭で照らして呟いた。言葉が示したのは瓶の底、沈んで輝く、真珠に似た光沢を持つ拳大の石のことだ。もしかすれば瓶の底に埋め込んであるのかも知れないが、手が届かないので確かめようがない。
「水を腐らせないのか、この下に水路でもあって――吸い上げてるのかな。こんなきれーな石は初めて見たが、今のお城にもあんのかね……」
横から覗き込んだカミンも、床を踏みしめて首を傾げる。
ユフトで魔法が活きているのは、王城の中の限られた場所、この城の時代に編み出された魔法を継承する王家の周辺のみである。ユフトだけではなく北の大陸自体、あまり魔鉱石の類に恵まれておらず、高価な魔石と難解な術式を生活に組み込もうなどとの考えは皆無に等しい。貴族が燃料魔石を灯りや暖炉に使うことはあるが、それも火種に使うという程度の代物で、この城の物のように石が勝手に光ってくれるということはない。
周囲の国を越え海を越えた先、東にある黄水晶の大鉱脈を持つ国は民衆もその石の力を広く使っているというお伽噺じみた噂も聞こえてはくるが、所詮は遠い異国の話。彼らにとっての魔法は、日常とかけ離れた貴い事象だ。
この城は何もかも、日常とかけ離れているのだ。
「……考えても無駄だろう。此処はそういう場所なんだ」
その非日常を目の当たりにして、研究者でもない彼らの思考は簡単に停止していた。
此処は神域であり、遥か古の御代に神々が造ったもの。人の理で計れるものではないということが、意識の根底にある。
「……だな。さ、やるか」
考察も意見交換も放棄した二人は鍋に水を汲み、野菜の泥を洗い流してナイフを取り出した。小さく質素な木の椅子がちょうど二つあり、彼らは揃ってそれに腰を下ろした。
小さな刃が薄く芋の皮を剥ぐ。イグラの手つきは手馴れていた。ともすれば、普段から妻に催促されて手伝っているカミンよりも。
しょりしょりという小さな音だけが、暫く二人の間を繋いだ。暫く、の後。皮を剥かれた芋が五つも積まれる段になって、カミンは自分の手元から目を外し、寡黙に野菜と向き合う男へと言葉を投げかける。
「早いな。俺の唯一と言えそうな特技が霞んじまいそうだよ。……あんたは普段何やってんだい、その体格ならやっぱり武人か?」
イグラの手が、芋の薄茶の皮を落としきらないところで止まった。カミンの方を向かず、硬直した己の指先を見つめる眼差しからは険しさが滲んでいる。
「町を守っていた」
「――へぇ。レスコンストって言ってたよな? 聖都じゃないか。綺麗な大聖堂がある」
少しの間を置いて答え、彼の手は再び動き出した。カミンはその動作全てを見つめてから、殊更ゆっくりと声を発した。
「……ああ、そうだ」
無論、分かりやすく迷ったイグラの発言を信じたわけではない。ただ彼は、自分が立ち入る距離は弁えた男だった。国の名誉である春告げとして選ばれた、そのことだけが、今お互いをこの場に寄せているに過ぎないと知っている。会って一日足らずでは馴れ馴れしくするにも限界はある。イグラもまた、そんな彼の配慮を察していた。
それからはまた、沈黙が降りた。普通なら気まずくなりそうな空気だったが、何故だかそうはならず、静々と水の流れる気配のようなものが間を埋めていた。
野菜の下ごしらえにそれほど時間はかからず、十分ほど経った頃、二人は合わせたように作業を負えて立ち上がった。
「あんたさ、何があんのかは知らないけど、神官様にはもっと丁寧に接したほうがいいぜ。聖都育ちなら分かってるだろ? あんたは信心無しでも馬鹿でもないみたいだしさ」
鍋を持ち、通路へと向う途中でカミンが言った。イグラはただ、頷くのみだった。