三
白い白い雪。黒い影の木立。白い道。時折、空を鳥が去っていく。それさえも日の影で黒い。
空の青と人が持つ色彩が無ければ惑ってしまいそうな神域の道は長い。ユフトの街並みも色ならば似たようなものではあるが、やはり包みこむ空気が違うのだ。恐ろしく澄んでいる。冷えているだけではなく、浄めの香でも焚かれているかのように、肺に入り込んだ先から心地が違ってくる。
加え、遠い空を飛ぶ鳥の姿は見えるのに、木に止まり休む姿は見えない。獣の足跡も見当たらない。山は不可思議な静けさに包まれていた。
これは、不在の沈黙ではない。気配はあるが、皆眠っているのだ。彼らもまた、春を待って。――黙々と歩きながら、五人は同じことを考えていた。
山の空気がそうさせるのか、ただの偶然なのか。どの道、誰も声にしないので分かることではない。彼らは一つの考えに心を寄せ、凍える温度の中で手や足の先を冷やしながら進んだ。
神が人を受け入れるからなのか、進む道だけは不思議と積雪が少なく、柔らかかった。それでも膝ほどまではゆうに埋まるので楽な道ではない。雪国の男たちもそれで随分と体力を奪われる。黙々と歩くうちに体は温まってきたが、汗が出るとそれが冷える。息が上がることもあるが、鼻や喉が冷気に痛むのを危惧して、誰も襟巻には手をかけない。
昼前に発ち、休憩を挟みながら時間が過ぎた。彼らが第一の目的地に辿りついたのは、姿を現した太陽が地平に横たわる手前の時刻だった。
先に立ち止まったのは、この山で人を助ける役目を負った白い熊たちだ。何かに怯むような姿勢で立ち尽くす。男たちがせっつくことでようやく動いて、そしてまた止まってはせっつかれた。
「これが、古の――」
白と黒の風景の中に中間の灰色の岩の肌が現れ、先頭を歩いていたドローストが休憩以来の声を上げた。静寂を破る唐突さのない、この場に寄り添った静かな声だった。
彼の視線は、白雪を吹き付けた垂直に近い山肌の先に向けられている。
「……すげぇな」
神官の声を追うように、カミンが呟いた。他の三人はまだ絶句していた。荷物を負った大熊たちは、何か警戒する仕草で周囲を見渡した。
山に溶けるように。それとも山が飲み込んだのか。そのように、その城は存在していた。岩肌と城壁は同じ色をしているので、もしかすれば山を削り出して造ったのかも知れなかったが――どうやったらそんなことをできるのか、誰にも考えつかなかった。
歴代の春告げたちが都に戻っても、語る神域の事柄は多くない。誰もが畏れをもって口数を減らしたからだ。その少ない言葉の中でもよく語られてきたのが、この、山と一体化した城のことだった。
規模は都の王城を上回る、山の中に存在する、灰色の岩の城。
かつて、人々が今よりももっと神に近いところで暮らし、神の言葉を聴いていた時代の遺物。
千年近く前に人は神と別れて山を下り、都と新たな城、そしてユフトを作った。残されたこの城は神を祀る神殿として残され、今なおその形を保っている。
神殿とはいえ、神域に存在する故に誰も祈りに訪れることはない。しかし、春告げの儀式のときには神の篤い加護を受けた場所として、神官たちの拠点として使われている。
「噂には聞いていましたが……」
巨大な古代の建造物を前に、フォードルがようやく震えた声を発した。神話、伝説に直に触れた興奮と畏怖を抑えきれていない声だった。城だけではなく、山に対する、言葉になりきらない感想だ。
「本当に、これはたまげた……大昔にこんなものがあったなんて」
同意するミドヴィエ。その横で、イグラだけは依然として言葉を引っ込めたままだった。呆然として城を見遣る緑の目は、瞬きすら忘れている。
「おい、呆けてんのかい、イグラ」
「――ああ……悪い、入るか」
見かねたカミンが肩を叩いて揺さぶると、彼はようやく瞬いてこの場に意識を取り戻した。その彼の第一声はそんなもので、実に場にそぐわぬ、とても日常的な響きだった。今度はそれを聞いた他の四人がはっとした顔となる。
そうか、自分たちはこれからここで、暫く生活するのだ――
暫く、がいつまでかは分からない。春を見つけるまでだ。
「行きますか、神官様」
カミンが先程より小さな声でドローストに問う。皆、決まりきっていると知りながら答えを待った。この場で最も偉いのは彼で、指揮官と呼ぶべきも、彼だった。
神官ドローストは前に進むことを返答とした。
姿勢を正したフォードルが急いでその背を追いかける。カミンは後ろを振り向き、なかなか動かない熊を促すミドヴィエとイグラを待った。イグラは熊よりも後ろを歩いた。
後尾となった彼は前を進む仲間を視界の端に収めながら、城の最も奥に聳える、壁と接した尖塔を見つめていた。その表情は眩しいものを見つめるようにも、憂いを含んで眉を寄せているようにも見えたが、もう振り返る者もなく、誰も気づかない。
一行を迎え入れる城の入口に、扉のついた門はなかった。壁の一部が四角く大きく切り取られているだけで、どちらかといえば城と言うよりは、鉱山の入口のように見える。遠目にはわかりづらいが、この城は外廻りの回廊にある窓にも鎧戸が無く穴が空いているだけで、城でありながらどこか巣穴に似ているのだった。伝説では山のいたるところに出入り口が空いているとも伝えられている。やはり山の一部のようだ。
雪の吹き込んだ入口の先は、列柱の影が見える薄暗い空間。何処まで続くのかと皆が目を凝らしたが――最も視力に優れたイグラでさえ、先に見えるのは漆黒だけだった。
「火を点けましょうか、」
次に目が利くのは一番年若いフォードルだったが、彼は早々に闇の探索を諦めてドローストに尋ねた。大役の重圧の中で、彼は自分のすべきことを探すのに必死なのだ。
「いや、待て」
左手を上げ、進んでいた一行を制し、ドローストは周囲を見回しながら前へ出た。やがて立ち止まるのは、一本の柱、その表面に刻まれた古文字の前。
『我ら夜神の地に在り、女神の加護を受けん』。
読んで意味を解すことができるのは、神官としてその文字と文法を学んだ者だけだ。彼は己の左手を数秒見つめ、意を決して、その文字に触れた。人差し指で文字をなぞりながら、文言を口にする。――我らクロアの地に在り、ターリャの加護を受けん。
途端、奥の闇は黄昏の色に照らされた。
闇――のあった奥には、洞穴の内部のように凹凸のある壁が残されていた。その下方に、光の源がある。
壁から顔を出していたのは、内に煌めきを秘める巨大な鉱石。この場にいる男たちよりも、熊よりも大きな、橙に近い黄色の結晶だった。
「……これは、また……なんて大きな星の石だ……」
ミドヴィエが呟き、巨石に向って祈りを捧げる。
光と熱を生む燃料魔石である黄水晶は、女神への信仰においては『ターリャの御光が地に残った物』であるとされ、ユフト・エスカーヤでは紅玉や金剛石よりも高い位に位置づけられる至宝の貴石だ。大結晶ともなれば価値は計り知れない。この山になければとうに切り出され、別の神殿に運ばれていたことだろう。
輝く黄水晶はまるで女神が降臨したかの存在感で、脈打つよりは仄かな、血の巡った皮膚に似た生気と温もりを、光と共に放っていた。
――火を透かすのに似た柔らかな光に照らされ全容を現した部屋は、彼らの想像以上に広かった。
数十の柱に支えられた大広間、小さく砕けた枯れ葉が散らばる床には、彼らもよく知る王家の紋章がある。向かい合った二頭の大熊と、瑠璃薊の花だ。
描かれた熊の間には地下へと続く階段がある。暗いはずのその先も、この広間と同じ色でぼんやりと明るい。多くの水晶が照明として取り付けられているのだ。偉大な魔法の遺物だった。
「熊は此処に置く。荷を解いて各自で持て」
驚きと畏敬の連続。胸中で幾度目かの祈りを捧げ終えたドローストが背後の男たちに命じる。声を受けて真っ先に、やはり慌てた様子で動きだしたのはフォードルだった。
光に照らされ、雪に似た白銀色の毛並みを金に近く変えている大熊の額を撫でながら、荷を括る帯を解き始める。指先が冷えていることもあり覚束ない手つきに、見かねたミドヴィエが自分の作業を中断して指南に行く。
既に荷のいくらかを背負っていたイグラがカミンの下ろした荷を担ぎ、すかさず、ドローストが手を伸ばした薪の束も同じようにひょいと持ち上げる。行き場を失った神官の手が止まり、深い森の色をした目が隣の男を見上げた。
「……それくらいは持てるが」
「無理されて困るのは俺たちだ。大人しくしてろ」
「ちょっ、と!」
神官に対するなんともぞんざいな物言いに、俄かに顔を強張らせたフォードルが悲鳴に似た声を上げる。ミドヴィエも、誰よりも二人の近くにいたカミンも、驚愕に目を見開いている。
ドローストは贔屓目にも優しそうには見えない神官である。それでなくとも、今の言動は酷かった。間違っても春告げの使者がとってよい態度ではなかった。三人が全員、怒号を予感した。
しかし、どれほど待ってもそのときは訪れず――
「神官様!」
暫しイグラと視線を交わした――睨んだようにも感じられたが、彼の目つきは生来良くないので誰にも判断できなかった――神官は、何も言わぬまま、相手から眼を外して階段へと向った。フォードルが荷を持ち、躓きそうになりながら追いかける。
「……先行くぞ」
更に後ろを、イグラがもう一つ荷を抱えた上で行った。
取り残された二人はぽかんとし、やがて、カミンが自分の肩を抱いた。
「俺ぁとっても心配になってきたよ……」
ミドヴィエが重々しく頷く。呑気な顔をして見えるのは、荷を降ろして楽になった大熊たちだけだ。
「おい、置いていかれるぞ」
階下から声が呼ぶ。二人は熊たちの頭を撫でてから、慌てて荷を負った。