十三
熊の様子を見に行くと、待ち構えていた二頭が寄り添ってきた。何かと思えば、もう一頭の姿が見えない。うろたえるうちに外から尋常ではない咆哮が聞こえてきて、急いで見に行くと、そこには前日のものとは比べ物にならぬほど巨大になったナライが居り、城と外との境界で勇敢な一頭が追い払おうと対峙していた。ナライは守りの獣の威嚇にも臆することはなく、加護の篤い城の近くであるというのに一向に退く気配がない。慌てて皆に知らせようとしたが、それを見咎めた彼の魔物に熊共々吹き飛ばされ――自分と熊を守るのが精一杯だった、とフォードルは申し訳なさそうに語った。
暖炉の火は赤々と焚かれている。カミンは寝具に押し込んだ彼の顔色を確かめ、節々の具合なども診てからほっと肩の力を抜いた。
「うん、心配ない。ちゃんと休めば明日には元気だ。……どうせ皆疲れてるから、まだ暫く動けないさ。安心してお休みよ」
静養院の護兵は緊急時の対応として、医療の基礎をいくらか叩き込まれている。このように役に立つとは思っていなかった彼だが、これも女神のお導きか、と内心で星を描いた。
「すみません……」
「なぁに、」
手渡される白湯を受け取りながら、フォードルは相手の笑顔に合わせて苦笑いした。その肩を、怪我がないと知った男が容赦なく揺する。
「ここは謝るんじゃなくて、礼を言うとこだぜ、坊ちゃん」
冗談ぽく顰められるカミンの顔はなかなか滑稽で――咄嗟にカップに手で蓋をしていた青年が噴きだしたのを見れば、彼は傷ついたような顔も作ってから笑った。
「しかしなぁ、あんとき気絶してたのは勿体ないな。すごかったんだぜ。絵物語かと思ったよ。……ま、俺も慌ててたからそうじっくり見たわけでもないけど」
通路へと視線を向けて言う。フォードルもそちらを見遣り微笑んだ。
「見ましたよ。あの方、凄い人だったんですねぇ」
「使者に選ばれる者に優れぬ者はない」
呟きにぴしゃりとする響きで言うのは、少し離れた所に座り、毛布に包まれているドローストだ。全員の無事に安堵してへたり込んだところを引き起こされ、負傷者のフォードルと同じ扱いで暖炉の前へと置かれたのはつい先程。
横になる必要はないと身を起こしてはいるが、立ち歩いても周囲が喧しいと敷かれた布団の上から離れることはない。
もう一杯白湯を用意しながら、カミンはフォードルと顔を見合わせて首を傾ぐ。
「……それは、褒め言葉ですか?」
「そう聞こえんか」
「神官様は昔から変わりませんね。何を仰るにも堅い感じで――……」
笑いを堪えながらの問いに決まりきった無表情が返すのに、安心して気の緩みきっていたフォードルが口を滑らせる。言葉は途中で立ち消えになり、パチン、と炎が薪を弾けさせる音が、三人の沈黙を取り繕った。
あの方は外を見渡せる回廊に立ち、春告げに出立する前の晩のことを思い出していた。彼の中のいつかの記憶と同じく、目を閉じずともはっきり思い出せる鮮烈な一時を。
冬晴れの日、夜半に呼ばれ身形を整えて向った王子の間には、昼に顔合わせをした他の男たちや神官の姿はなく。小さな木靴の足音だけがイグラに近づき、声をかけた。
「よく来た、イグラ。遅くにすまない」
奥から向ってくる、白く揺れる長衣。姿を見せた王子は、ユフトの他の者とはまるで違う色をしている。細く波打つ髪は新雪のように白く、猫のような目は淡い灰色。奇妙に存在感を持つ、美しいながらに不思議な容姿。
王子の身長は、イグラの腰ほどしかない。丸くふっくらとした顔の作りもまだあどけない。ただし表情は違い、浮かべられた笑みは長年を生きた神官のように穏やかで慈愛に満ち、かつ、威厳があった。声変わりもしていない高い音はしかし、落ち着き払ってゆったりと喋る。何かが乗り移っているようだった。
「手を出せ」
跪くことも忘れていたイグラは、命じる言葉に慌てて両手を前へと出した。持ち上げられた男の両手と比べるべくもなく小さな白い手がそっと載せるのは、城の宝物である細い白銀の矢。平素は宝物庫に安置されている物だ。
「……これは」
目を見開いた騎士に、王子は囁くように言う。
「イグラ、射る時は冠羽を狙うのだ。私はお前の腕前を信じている」
何もかもを知ったような口振りだった。
ユフトを治める王家エスカーヤは、代々の王子が稀有な予見の力を得る。その力の方向性と範囲は代によって様々であるが、いずれも優れたものであることに変わりはなく、内政においても外政においても王子の発言より強いものはない。十六代目の王子などは、十年先のことまではっきりと見通して政を行ったとの言い伝えが残っている。それらを人に思い起こさせる台詞だった。
矢を手渡した四十九代目の王子は、依然硬直したままのイグラの顔を見て、その時だけは悪戯をする子供のように無邪気に微笑んだ。大きな灰色の瞳は、すべてを見透かす色をしていた。
「何を、射るのですか」
「心配は要らぬ、お前なら問題なく済ませられる。何事も」
掠れた問いかけにはすぐさま返答があった。何も言えなくなったイグラの手を、王子はそっと握る。
「私はお前を信じている。無事に戻れ」
そこで王子の白い服は翻った。イグラは伏せていた目を上げて、現実に立ち返る。雲が退いた晴れ空には一つ目の星が輝き始めていた。
春告げの使者は後の祝福を約束されると言うが――とうに祝福はされていたのだと、イグラは思う。
「……何事も」
晴れの雪となった空を眺めながら呟く、横顔は薄く笑っている。
「おお、いい景色だ。春が楽しみだな」
その背後、金に紫に群青にと染まる空と雪山に歓声じみた声を上げて大きな体を揺らして歩いてくるのは、人々と共に戦った熊の体調確認を終えたミドヴィエだ。熊たちも三頭揃って大事なく、今はすっかり落ち着いて黄水晶の光の中で寛いでいる。
振り向いたイグラは肩を揺らした。
「ああ、大仕事終えたつもりでいたが。まだ終わってないんだな」
「そうだ。まだ帰れんぞぉ」
ミドヴィエも大口を開けて笑う。雪の積もっていないところで足を止め、腕組んで髭を撫ぜ、ふふ、とまた声を漏らした。
「それにしても立派だった。お前さん、騎士だったんだな。レスコンスト一の弓の名手……大神官様に仕えてる騎士というのが、そうかね? いやはや気づかなんだ」
それを聞いて、イグラは一度ゆっくりと瞬きをする。大神官という慣れ親しんだ呼び名を、何年振りか、とても久しぶりに聞いた気分になっていた。
レスコンストどころか国で一番の射手であろう、とかつて彼の腕前を称賛したのも、大神官サラカプートだった。そのことも酷く懐かしく思え、胸に痛みを齎しはしたが――イグラは努めて笑みを浮かべる。
「……ああ」
「なんで黙ってたんだい、素晴らしいことじゃあないか」
「色々ある」
「……そうさな」
やりとりは短く終り一度途絶えた。
「だが、もうぐっすり寝られる顔だな?」
けれども、朝とは違う穏やかな風の音が回廊を通り過ぎる沈黙は、あの夜と違い長続きしない。
己の顔色を指摘するミドヴィエの言葉にイグラは首を振った。横に。
「春が見つかるまでは無理だろ」
「それもじきのことだろうよ!」
冗談を言えるだけ心は穏やかだ。ミドヴィエがイグラの横に並び、力強く背を叩く。前のめりになるだけの遠慮のない力だった。
窓の周囲で遊ばれてきらきらとする小さな欠片は、冬の長の一部だろうか。冬も悪くない、と春告げの使者たちに思わせてしまう美しさは確かに魔を宿しているともいえたが――あの巨鳥のような荒々しさは微塵もない。
「酒が飲みたいな。……聖堂で飲むのよりうまかった」
美しいその光景に身を委ねていたイグラがぽつりと言い、ミドヴィエに向き直って続ける。
夕暮れの景色を背に姿勢よく立ち、穏やかな夜を織ったようなマントを風に揺らす騎士の姿は、実に様になっていた。ミドヴィエは目を細め、畏まるように胸に手を当てて見せた。
「そりゃ光栄だ」
「おおーい、騎士様門番様、温めなおすから飯食っちまおうぜー!」
返答の端に被さったのは、二人を探しに来たカミンの大声だった。落ち着きなく歩み寄る足音が聞こえ、イグラとミドヴィエは目配せし合って踵を返す。
「今行くよ! そうだな、食べ終わったら皆で酒でも飲もう。それがいい」
カミンの喧しさに負けぬよう、ミドヴィエが大きな声と手で制す。通路を引き返し広間に向かう足音は揃い、すぐに落ち着いたものとなった。




