十二
「祈り続けろ」
荒ぶる魔を祓う弓の音。風を抜けるそれに交じり、男の声。凄まじい風の中で、何故だかその声は掻き消えなかった。理由を探すとするならば――恐らくは、女神の加護だったのだろう。
声が神官の耳に届くと同時、魔の風雪を引き裂いた矢がナライの翼の端を砕いた。ナライの瞳がぐるりと蠢き、ドローストの目が見開かれた。
弓を構えて立つのは、藍のマントを纏った男。彼の前には抜き身の剣が導のように突き立てられ――その剣よりも鋭く、恐怖を捻じ伏せ意志を宿した眼差しがある。
「女神はそこに在られる。声は届く。諦めるな」
言いながら、前に出たイグラは二本目の矢を筒から抜き取る。ふっ、と鏃に息を吹きかけ、無駄のない動きで弓に沿わせ、先端を北風の魔物へと向けた。
硬直していた時が動き出し、目を見開いていたカミンが引きつり気味の声を上げる。
「この、風の中でそんな――」
「俺はやるぞ」
ナライを見据えた目を動かさないまま、イグラは口を歪めた。何か冗談でも言うような口元だった。
「俺は大聖堂の騎士だ。ナライぐらい狩れる」
言葉と共に二本目の矢が放たれる。
先程とは逆の翼を狙ったそれは、中ほどまで飛んだところで風に折れた。
「あんたらも諦めるなよ。……剣を抜いて行け。神官に怪我させんな、家に帰れなくなるぜ」
呆気にとられている二人を、舌打ちしたイグラが急かす。彼の手はまた矢羽を摘まみ、三本目を引き出していた。視線は依然としてナライから逸らされていない。
早くしろ、と騎士が小さく叫ぶのと同時、彼らの背後で猛々しい声が聞こえた。それまで怯えていた大熊たちが、ようやっと城から飛び出して威嚇の声を上げたのだ。自棄になってしまったのか、その様子は恐れるものなど何もない風で、力強い。
「……おお、おう! 任せろ!」
勇気づけられたカミンとミドヴィエが、顔を引き締め、白刃を抜き放って走り出した。ナライの風が二人を追いかけるが、透くように磨かれた剣がその力を退ける。
更なる風を生み出そうとした翼は飛来した矢に千切られ穴が空き、空に散り散りとなる。視界の悪さと風の妨害をものともしない、精確な射撃だった。
苛立ったナライの首がゆっくりとイグラへ向けられる。光る瞳が見据えたのは、遮る物のない積雪の上に立ち、睨み返してくる男の姿。堂々たる騎士の姿。引き裂けんばかりに揺れる藍色が、その何よりの印だ。
瞬きの間に番えられた新たな矢の先端は既に、定められている。
「そうだ、狙うなら俺にするがいい。神官と民に手を出すな。――聞け、猛る北風よ」
彼は酷く穏やかな調子で言った。新芽色の目が矢と共に魔鳥を射る。男の後ろで援護に吼える二頭も魔払いの獣に相応しい目つきで、王家の紋章によく似ていた。
「此方は騎士イグラ。今お前を討つ狩人である。其方、去らぬならば我と競え。力及ばぬときはこの身を喰らって去れ」
呪いを唱えるイグラを狙った風が鞭打つように襲いかかり――途中で解けた。辺りに、途切れ途切れの祈りの言葉が聞こえ始める。他ならぬ、神官ドローストの声だ。
「神官様!」
イグラがナライの意識を引きつける間に、カミンとミドヴィエが二人の元へと辿りついた。カミンがフォードルの頬を叩き反応を見る。ようやく呻き声が漏れ聞こえ、一時、三人に安堵が広がる。
「フォードルを頼む」
二人に庇われる形となったドローストは、荒れた息と心臓を鎮めながら震える手を伸ばし、雪に切っ先を沈めた剣の柄を今度こそ握り締めた。三本の剣が吹雪の勢いを和らげた中、指が解けることはない。
城の前に立つイグラを見て、ドローストは冷たい空気を呑んで口を開く。深緑の目が上がりナライを睨みつけた。
「大いなる環の道を巡りて……広き地と海、遍く注ぐは頂の御星……八つ角の御光あらば影は拭われ……邪なるこころは清められん……」
剣を支えに体を引き起こし、再開される祈りはより力強く。微かなものだった声ははっきりと力を得て、雪に染み渡り、神域を震わせた。吹雪に揺すられるだけして黙り込んでいた山が別の力によってざわめき始める。
ナライが大きな嘴を開いて咆え、風を生み出して抗う人間へと仕向ける。その唸りは騎士の矢が射抜き、残滓は剣が切って払った。神官にはそよ風ほどにしか届かない。
何も恐れることはないと、ドローストは思う。彼には女神の存在が感じられた。
右手で銀の八角星を握り、左手をフォードルの剣へ添えて、ドローストは北風と向かい合った。彼が神官になった十一歳の冬から一日も欠かさずに朝晩捧げた祈りの手順が、どの日よりも切実さを持って辿られ、繰り返される。
大いなる環の道を辿りて
広き地と海、遍く注ぐは頂の御星
八つ角の御光あらば影は拭われ
邪なるこころは清められん
女神万歳、白き花の祝福ぞあれ
眩き御星、その微笑みは愛、その吐息は安らぎ
夜の地にありて、子たる我らは幸に触れたり、触れたり
いと優しき加護、星の導きがあらんことを!
言葉が重ねられるごとにナライの動きが鈍っていた。風を混ぜる魔鳥の翼が軋み、力に満ちていた啼き声も壁を隔てたようにくぐもっている。目には見えずとも、神官の力も女神ターリャの加護も、確かにそこにあった。
それは騎士にもはっきりと感じ取れたのだ。
「……まこと透いた眼でいらっしゃる」
口角を上げたイグラは、矢筒から純白の包みを抜き取る。ミドヴィエには守り刀と説明した代物を手にすると、それもまた苛烈な冷たさを和らげるように感じられた。
取り出されたのは、春告げたちの剣と同じように輝く白銀の一矢。鏃に施された装飾は八角の星。王城の宝物、ユフト・エスカーヤを導く流星の矢だ。
番え、イグラの指が力強く弦を引く。煌めく矢がナライの額――冠羽へと据えられた。
細氷を纏った巨鳥が咆哮する。冷え切った風は殴るように吹き付けられたが、誰も最初のように怯まなかった。誰の腕も弛まなかった。イグラは冷えた空気を吸って祈りと共に吐いた。
「星の導きがあらんことを」
弦が鳴り、銀の矢が放たれる。ヒュンと高い音を立てて吹雪を裂いた軌跡は細く、しかし風に歪まされることはなく、イグラの狙い通りに飛んだ。全員が息を呑んだ中で巨鳥の額に吸い込まれる。
衝突の瞬間、沈黙。頭を飾る純白の羽が、雪玉のように砕け散った。
ひゅうおおおおおおおう、おおお――……
嘴を大きく開いての絶叫が聖山ボフバロータを吹きぬける。それは吹き荒ぶ風そのものだった。
白銀の矢が命中したナライの額で風が渦巻き、瞳の輝きを捻り、かき混ぜて引き千切る。体は弾けて雪となり、どっと、地上を覆うように風が落ちる。
凄まじい力が解かれ、張り詰めていた空気が緩む。竜巻のように捩れた最後の風は天を突き、頂で停滞していた雲を貫いた。
しん、と満たされた急な静寂の中、フォードルが目を開いた。視線はぼんやりと空に向かい、光景に囚われる。
「――ああ……ターリャ様……」
恐ろしい風が途絶え、ひらひらと舞い落ちるに戻った雪を照らすのは、女神の御光。訪れる穏やかな光の中、弓を構えていた腕をゆっくりと下ろし、イグラは詰めていた息を白く吐き出した。その顔からは一切の憂いが拭われている。
凍えを取り去る温かな色の夕陽は、山を抱擁するように見えた。




