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十一

 それからボフバロータは二日にわたり猛吹雪となった。城の中まで風の音が入り込み、外の荒れ模様を男たちに伝えてくる。冷気こそ厚い壁と女神の加護か、内側の部屋に居れば殆ど触れることはないが、悲鳴のように高い音は殆ど絶えず聞こえていた。

「竜の鳴き声みたいだ」

 回廊を渡る風の声を、ミドヴィエが評す。イグラが同意して頷きながら、テーブルの上に水差しを置いた。二人の顔は思わしくない。

 ユフトでは吹雪も珍しくないこととはいえ、春告げの務めにあって二日続きとなると手痛く感じられる。朝起きてからというもの、彼らは幾度も顔を顰めていた。

「過去の報告でもこのようなことはあったと聞いている。焦らずに体力を温存するように」

 とドローストは言ったが、実のところ一番焦っているのは彼だろう。彼はこれ前以上に祈りの部屋に籠り、祈祷と占いを行っている。

 鏡を通して山中を探り、像を結ぶのに必要な集中力は大抵ではない。何かを感じた、見えたとしてそれで終わりではなく、城からどれほどの距離があるのか、どの道を通らねばならないのか、考えることは山ほどあるのだ。それに加え、やはり代表者たる神官の立場は凄まじい重責になっている。

「はいはいご飯できたわよー、っと」

 暖炉の前で火と食料を相手していたカミンが、周囲の不安を打ち消すべく明るい裏声で言う。

 吹雪で足止めを食っている為に神官以外は誰もが暇をしていたが、食事の準備を担当しているのは朝から彼だった。刃物の扱いはイグラもミドヴィエもなかなか上手かったが、味付けに関しては、日頃から妻に手解きを受けているカミンが抜きん出ていた――というのが理由だ。

 本人も家のことを思い出して気が楽になるのか、皆に頼られたのが嬉しいのか、嫌々ではなく、むしろ乗り気に働いているのだった。

「あちち。……しかしよく吹雪くなぁ。外に出れても腰まで埋まっちまうんじゃないかな。ナライも荒れてるかね」

 芋と麦の粥が火から下ろされた鍋でふつふつ煮えている。布巾を敷いたテーブルの中央に載せて満足顔のカミンは、朝から何度も聞こえているヒイイと細い風鳴りに肩を竦めて、まだどこか暗いままの仲間たちを見渡した。そこで気づく。

「神官様は部屋だろうが、フォードル坊ちゃんは? いつから戻ってない?」

 カミンが首を傾げたのに、イグラとミドヴィエが顔を見合わせる。暫く考え――先に口を開いたのはイグラだ。

「……熊の様子を見てくるって、下に行ったきりだと思うが」

「なんだい、えらい時間かかってんな。冷めちまう前に呼んでくるかい」

 首を傾げたのにミドヴィエが頷き、それはどれほど前のことだったかと、カミンが首を捻る。食事の支度を始める前のことだ。少し前、という短い時間でないことは確かであり、熊の相手をするにしては少々、時間をかけすぎと言えた。

「やあ、わしが行こう。熊にひっつかれてるのかも知れんしな」

 やりとりが纏りミドヴィエが立ち上がったところで、覇気のない足音が通路から響いてきて、暖炉の横で止まった。下へと続く階段を見ていた男たちが顔を向ける。

 祈りの部屋から戻ってきた神官は、疲労も濃い、思わしくない顔をしていた。

「……何かあったのか」

「いえね、フォードル殿がなかなか熊のとこから戻らないもんですから、呼んでこようって話で」

 賑やかだった三人を見て低い声で問う、不機嫌にも見えるその様子に慌てて早口に答えたのはカミンだ。心配ない、と言う口調だったが――聞いたドローストの表情は見る間に強張った。あまり表情の変化のない男であるというのに、誰が見ても分かるほどはっきりと。

 蒼褪めたドローストが、集まった男たちを押しのけるようにして階段へと進む。その腕を掴んだのはイグラだ。

「おい、どうした」

「ナライが近づいている。外に出てていたらまずい」

 深い緑の瞳が、睨むように上げられる。神官の声は朝方、吹雪のことを言った時とは違う、不安と焦りを殺しきれていない声だった。カミンとミドヴィエは顔を見合わせて口を開いた。

「まさか、この天気じゃ出ませんよ」

「彼だってナライに向かっていくような無茶なことは、」

「熊を見に行ったのなら、熊はナライを追い帰しに外に出ている!」

 遮り続けた彼の言葉に、その場の全員の動きが止まる。

「彼はナライに目をつけられている」

 緩んだイグラの手を振り切り、ドローストが階段を駆け下りた。その様子に慌てたミドヴィエとカミンが剣だけ引っ掴んで彼を追いかける。

 重なり合い慌ただしい靴音が遠ざかるその中、取り残されたイグラは一拍置いてマントを羽織り剣を掴んだ。

 共に、壁に立てかけてあった弓も取り弦の具合を確かめ――最後に、布の包みを一瞥して矢筒へと押し込んで腰に据え、急いで離れた足音を追う。

「フォードル! 居るか!」

 ドローストの大声が響く大広間は相変わらず明るかったが、妙な空気が流れていた。吹き込む冷たい風はゆるゆると渦巻き、柱の一つ一つに絡みついている。

 その風を散らして、階段から出てきた男たちに気づいた熊が大きな体を揺らして駆け寄ってくる。待ち構えていたようだった。ドローストの顔に焦りが上塗りされた。

 三頭いるはずの大熊は、二頭しかいない。しかもどこか居心地悪そうに体を揺らし、しきりに外へと顔を向け、ううう、と低い唸り声をあげて鼻先を人の腹に擦りつける。

 ひやりとした風が神官の肌を撫でた。ほんの一撫でが、彼の心には大波となる。

「フォードル殿、どこだい!」

「おおい、返事しろォ!」

 明るく照らされた場所にフォードルの姿はない。彼が柱の陰に隠れて面白がるような男でないことは全員が理解している。

 彼らの耳を、風鳴りの音が劈いた。一度きりではなく、何度も何度も繰り返される啼き声だ。外からの音が城の中に反響して幾重にもなる。いち早く動いたのはイグラだった。外へと駆けだすその後に全員が続き、フォードル、と喘ぐような声がドローストの喉から漏れた。

 女神の力によって護られる城から一歩踏み出した途端、極寒の息吹が彼らの体を包み込んだ。真っ先に飛び出したイグラの顔が空を見て強張ったのは寒さの所為ではない。

 厚い雲に覆われた空から降ってくる、威圧の音。木々が恐れ震えている。

「ナライ――」

 灰色の雲の下に広がる、吹雪を取りまとめたように白い巨体。それは山の雪が起きあがってきたようにも見えた。広げられた両翼は城を包み込みそうなほどに大きく、嘴だけで尖塔ほどもある。冷たい光を灯す瞳もまた、刃向かう者を飲み込もうとする深い銀色をしている。

 ナライは吹雪を体の一部のように従え、長の名に相応しく冬空に君臨していた。()めつける視線に、人々の手は無意識に、剣や祈りの星といった心の拠り所へと添えられる。

「おい、あそこ!」

 巨大な魔の存在に竦んだ体を叱咤し、周囲を見渡したミドヴィエが叫ぶ。震える指で示された先に全員が眼を向けた。

 雪で霞む風景の中、崖の端、転げ落ちるギリギリの所に何か黒い物が見えた。伏す、人の姿。

「……なんということ」

 この山に、彼らの他に人間はいない。紛れもなく行方知れずになっていたフォードルだ。

 意識はなく、うつ伏せに倒れたまま動かない。小さな雪山の上に被さっているように見えたが、よく見ると彼の下にあるのは雪ではなく白い大熊の体だと分かる。その体もまた一切の身動きをしなかった。

 彼らの横には、入山の儀式で使った剣が刀身を晒して刺さっている。北の大陸では何処でも見られる邪悪を退ける為の呪いだが、機能しているのかどうかは定かでない。髪は霜がついて固くなり、揺れることもない。肌も血が引いて白く、雪が更に白く塗りつぶそうとしていた。

「助けんと……」

 カミンが鳴る歯で呟くが、状況は絶望的といえた。

 神官が居るとはいえただ一人。残る使者は三人と二頭。これほどまでに巨大化し、敵意を剥き出しにしたナライを前に、太刀打ちできるだけの頭数ではないと誰もが思った。絞り出されたその言葉すら、ナライの、意思を挫く冷たい咆哮に掻き消される。

 凍りついた空気。ナライが三度咆える。風が荒れ狂い、氷の粒を撒き散らして地上へと叩きつけられる。フォードルの傍に立つ木が幹まで激しく揺れた。恐ろしく冷たい風は今にも青年の体を吹き飛ばし、深い谷底へと突き落としそうだった。誰もが体を動かせず、女神の名を心中に唱えた。

 後ろを庇って立ったイグラの視界を、雪とは違う白い物が掠める。白と、銀刺繍の緑の襟が。雪の中に躍り出て風を掻き分けて走る。気づいた彼が手を伸ばしても既に遅い。

「神官様!」

 ナライの銀の眼差しが、城を離れ雪に足を取られながらも走る神官へと向けられる。吹き付けられた寒風は彼の体に触れる前に解れたが、それでも、とんでもない冷たさと強さの風だった。冬の厳しさを纏めて鞭にしたかのようだ。

 ドローストは歯を食いしばり、苦痛に顔を歪めた。視界は白く、耳は風鳴りに埋められるが、冷え切ることのない胸の銀星を握り足は止めない。

 追いかけようとした男たちの間にも強風が割って入る。次ぐ咆哮。山全体を揺らすような響きに、人は心臓の冷える心地を味わわされる。彼らの筋肉が萎縮した。

「フォードル、起きろ! フォードル!」

 大の男の体を煽り、雪の上へと転がせるだけの強風。女神の加護を得る神官でなければ逆らうことも叶わなかったに違いないが――彼は縺れる足で、半ば這う態でフォードルの元に辿りついた。雪に晒された白い肌で目を閉じるフォードルからの応答はない。呻き声すらなく、代わり、ナライの風が地を揺るがした。

 倒れる青年を揺すりながら、ドローストは突き立てられた剣の柄へと手を伸ばす。

「――ターリャよ、」

 咆哮。風が神官の手を振り払う。怯み、目を閉じた者に容赦なく鋭い雪が降り注ぎ、体を引き裂かんばかりに荒れ狂い――

 弦が弾けた。

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