十
そして彼は王都ハクスタに赴いた。八日かけて山を越え雪原を抜け、何も知らない子供のような心地であの黒い門を潜り、王子の元へと向かった。
レスコンストから離れサラカプートとも距離を置くうちに、イグラの内には迷いが生じていた。あの忌まわしい宴を見た後の混乱とは違う、明瞭な意識の下での苦悩だった。こうも落ち着いてしまっては、戻ったところでもうサラカプートを殺す決断はできないだろう。ならば、どうすればよいのか。
聖堂で見たすべてを王子に伝えることを求められているのかともイグラは考えたが、いざその場に臨むと舌が凍りついた。言ってしまえば自身のすべてが崩れて消えるような気がしたのだ。
特別な力を持つという王子もそれを見通しているわけではないのか、二人きりになったときもそのことについては何も言わなかった。言ったのは別のことだ。
矢の横に置かれた包みに触れ、イグラは顔を顰めた。王子の幼く、しかしどこか老人に似た声音が思い起こされる。
――「心配は要らぬ、お前なら問題なく済ませられる。何事も」
発言の真意は、未だ知れない。春告げなどする前から問題など山積みと思えた。
それでも春告げを疎かにはできそうになかった。ユフト・エスカーヤの全てが春を待っている。王都を発ち聖山に立って、それは切に感じられた。人々の祈りの全てが直向きにそこにあり――その中で彼だけが迷っている。
山の前で抜いた剣は、己を己と向き合わせる鏡のように見え。城の中で灯り続ける黄水晶の光は、女神が何か伝えようとしているかに思え。清澄な山の空気は、水は、何かを囁くように感じられ。しかし彼には何も分からない。神とは何処にあり、何の為に剣を捧げ、何をすべきなのかは、何も。春告げの使者という役目だけが彼を繋ぎとめている。
敬い守るべき神官を見ると、イグラの心は荒れる。サラカプートのあの言葉が思い起こされる。自分はドローストさえ、王城の神官さえも疑っているのだと思うと、そのことに一層腹が立った。
神がそのような者を春告げに選ぶわけがないと思っていても――その神の意思すら、今のイグラにはどこか遠く、疑えるものになってしまっている。何せ、サラカプートもただの神官ではなく、神に寵愛されたと云われる大神官であったのだから。
「起きてるかい」
思いつめるイグラに、上から声がかかった。慌てて顔を上げた彼に合わせ、少し離れたところで笑っていたミドヴィエは大仰に驚いた動作をして見せる。ミドヴィエの手には小さな鍋があった。
「はは、すまんな、驚かせたか。調子が悪いわけではないだろな?」
大男の声は王子と比べるべくもなく低い。暫く呆けたように瞬きをしていたイグラは、聞く者を落ち着かせるその声にようやく思考を取り戻した。頭を振る。
「いや、すまない。大丈夫だ。もうそんな時間か」
「もう真夜中も過ぎただろうね。……皆に休め休めと言うが、お前さんも休んだほうがいい、少し働きすぎだ」
今日の火の番は、途中でミドヴィエに交代することになっていたが、イグラが物思いに耽るうちに大分時間は過ぎたらしい。老人は覇気のない若者の様子を指摘して、ほっほと朗らかに笑う。
「……あまり眠れなくてな」
イグラの声はミドヴィエのものとはまったく対照的になった。
休めとの言葉に歯切れ悪く答える相手に、ミドヴィエの眼は子供でも見るように優しい。その顔のまま、彼はイグラに手鍋を差し出した。
「あっためてくれんかね?」
鍋の中では何かの液体と枝のようなものが揺れている。昇ってくる匂いで、液体は酒で、ならば浮いているのは薬草の類だろうとイグラは察した。求めに従って、暖炉の、火が落ち着いているところに置く。
「緊張しているのかねぇ。眠らなくても、寝転がっているだけで違うぞ」
「そんなんじゃあない」
「そうかい。まあ、わしもその頃は色々あったなぁ。子育てが上手く行かなかったりな。家庭を持つのも楽じゃないさ」
引き続き笑いながらの言葉にイグラは何も返せず、広間には沈黙が降りた。ミドヴィエも黙って座って暖炉の火を眺め、なんとなく立ち上がる機を逃してしまったイグラに話しかけることも、寝ろとせっつくこともしなかった。
少し――イグラが思い悩んでいたのに比べて短い――時間が過ぎたところで、ミドヴィエは湯気を撒きはじめた鍋を火から下ろした。温度が上がり、強まった匂いがイグラの鼻にも触れる。どこかゆったりとする、冬の夜長の心地だった。
「そら、飲むといい。よく眠れるようになる」
カップに注ぐ音をさせ、それからミドヴィエは言った。にこりと笑って一杯目をイグラに差し出している。
薬草入りの温かな飲み物は眠り酒と呼ばれる、ユフトでは何処の家にもそれぞれの作り方が伝わっている所謂お袋の味だ。その呼び名のとおり、冷え込む夜を心地よく過ごす為、特に眠りを齎す為に供される。
拒否する言葉や理由が見つからず、イグラは黙ったまま、途惑いながらも温かな一杯を両手で受け取った。薄土色の陶器の中、少し濁った酒に彼の顔が映りこむ。
「――うまいな」
口に含むと蜜の香りも通り抜けてまろやかに甘い。ミドヴィエが促すままに一口飲んだイグラが素直に感想を述べると、元から緩んでいた大男の顔が綻んだ。
「子育てはどうだか分からんが、これは昔っからよく褒められる。娘は母さんのよりうまいと言ってくれるよ」
自分の分を注ぎながら言う低い声を聞き、感心した顔をしながら、イグラは一杯をゆっくり啜った。何が入っているのかと考えてはみたが、彼の舌はそこまで鋭敏ではなく、悟れたのはこの手の飲み物でよく使われる薬草の二種類だけだった。
「……前も気になったんだが、それはなんだい?」
にこにこしているミドヴィエが、ふと、イグラの前に置かれた細長い布包みを示して訊ねた。イグラは逡巡する様子を見せてから短く答える。
「守り刀みたいなものだ」
魔除けの懐刀にしては少々丈があったが、ミドヴィエは気にしなかったらしい。そうかい、と言ったきり、会話は再び途切れた。
その後の心地よい静けさの中、かけすぎなほどに時間をかけて、眠れぬ男は眠り酒を飲み干した。カップの縁を拭って立ち上がり、静かに卓上に置く。
「ありがとう、……今日はよく眠れそうだ」
そのまま東の通路へと消える彼の礼は素っ気無い響きだったが、顔はどうにか、笑っていた。
悩みが消えたわけでも、答えを見つけたわけでもない。だが、少しは気持ちが楽だった。
「どういたしまして。よい夢を」
暖炉番に居残る男は応じて軽やかに手を振る。部屋には彼と、火の気配だけが残った。




