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 その夜、ぱきんと高い音で爆ぜる暖炉の火の横で、番を任されたイグラは暗い目で床に並べた武具の数々を見つめていた。

 磨かれた剣と手入れの行き届いた弓、幾本もの矢。その横に、矢と同じ長さの、布に包まれた何かがあった。一瞥くれてふうと重い息が漏れる。

 周囲には誤魔化しを吐いているが、彼はドローストに言われたように聖堂騎士である。しかも、王城と共に古から栄えるレスコンストの大聖堂の、その中でも最高位の神官に仕える、特別に地位を得た騎士だった。

 本来ならば誇り高いその身分。何も言い淀むことはなく、隠すことなどないはずだった。神官にあのような態度をとるようなことも、本来ならば。

 呻き、息が痞える喉に触れて顔を覆い、イグラの意識は遠い日へと向かっていった。彼の精神の芯にあった、何にも代えがたく輝かしい思い出の日だった。閉じた瞼の内側に涙が満ちた。

 ――騎士として剣を受け取ったのは、十三歳の雪の日。

 荘厳な聖堂で祈りを捧げる神官たち。その中央にいる人に、彼は幼いながらも確かな決意で忠誠を捧げた。

 新雪のように清く、春の陽のように穏やかな心の持ち主。誠実で、何より正しく優しくあった、権威ある大神官。イグラにとって――民にとっても、星神の輝きを映したように眩しい存在だった。女神に仕え神官たちを束ねるに相応しく、高潔な男。

 イグラは彼とその信仰、心に剣を掲げたのだ。その剣を自身の心に据え、その美しさに恥じぬようにと鍛錬を積み、生きてきた。彼に迷いはなかった。神官サラカプートに仕えて十七年目の、三十になった雪の日までは。

 芯は、砕け散ったのだ。

 

 その晩イグラが目にしたのは、雪ばかりの外とは比べられない、楽園のような光景だった。ただし、彼には地獄に見えた。絶望が具現したかに思えた。

 大神官サラカプートに、と文が届けられたのは、夜遅くのこと。

 騎士イグラは息を切らせてやってきた使者を労い、主への手紙を丁重に受け取った。神官へ話や文を取り次ぐのは付き人たる神官や騎士の役目だった。

 既に真夜中に近かったが、急ぎの文であると聞いていたイグラは朝を待たず、また、他の神官に任せることなく、手紙を携え聖堂の奥へと進んだ。普段なら夜中に立ち入ることのない区画だが、王家からの文を持っていてそれを考えることなどなかった。

 北端にある大神官の居室を目指して急ぎ歩いていた騎士は、進む先の床に細い線を見つけて足を止めた。線の端は、彫刻の施された大きな扉へと続いている。

 食堂の扉だった。閉め忘れか、少しだけ開いて光を廊下へ漏らしていた。

 不思議なのは、夜の祈りもとうに終わり、翌日の食事の支度も済まされて灯りを落としている時間であるはずなのに外に漏れるほど明るいことと、多くの声が聞こえてくることだった。イグラは首を傾げ、細く開いた扉に身を寄せた。

 それで、彼の目は潰されてしまった。

 ――気がつけば、イグラは暗い己の部屋で座り込んでいた。

 幾度追い出しても頭に浮かぶのは、この冬の最中には王城でも滅多に見られないであろう、贅沢を煮詰めたような宴の光景。多量の薪がくべられた暖炉、テーブルの上に並ぶ食事、盃、灯りは一体いくつあったのか。室内はとても明るかった。

 断片的な会話が虫の羽音のように彼の耳で唸り、頭を埋め尽くす。

「次に上位神官になるのは、」「もっと酒を」「王家とて、大神官様のお言葉を軽んじることなど」「上等の石を箱一杯に」「修繕の費用は大分浮いたようだな」「あの細工師はよい仕事をする」「これも全て、女神様のお陰ですな」「美しい娘も欲しいところだ。こんな長い冬には飽いてしまいますよ」「美しい娘とは」

 日頃は民と同じく質素な食事をするだけの卓に並び笑っているのは、顔を紅潮させた、知った顔の神官たち。白いはずの衣は見間違いではなく彩りを得て、まるで王城の晩餐会のような装いだった。民が蓄えを削り細々と暮らしている豪雪の時期に、どうしてそこに、異国の美酒が存在できるのか。

 イグラの見知っているはずの、見たことのない神官と聖堂の姿。普段は星神への祈りを捧げる声でイグラの耳を通り過ぎたのは、薄暗い不正の話。賄賂、着服、聖都レスコンストにあるまじき会話。

「冬が長くとも、我々はこんなにも愉快に暮らせるではないか。王と民の信心が、此処ではそのまま豊かさになる。神官とはまこと素晴らしい立場だな」

 十人は居た神官たちの中央に座し、盃を掲げ酒を受けていたのは、

「サラカプート様……」

 放心状態のイグラは、低く弱く、それまでの人生で幾度も呼んだ名を口にした。

 (ただ)れた宴の中心に居たのは、見間違えようもない、長年仕えた彼の主だったのだ。見たこともない鮮やかな緋の服を纏い、首には星ではない飾りが光り、神官ではなくどこかの貴族が着飾ったようだった。

 その日から彼は悩み続けた。朝になり、まったくいつも通りの姿で騎士を見たサラカプートに文を差し出す手は固く強張り、職務の最中は心をどこかに置いてきたような有様となった。夜毎に宴の悪夢に苛まれ、彼は己と神官、そして神に、心中で問うた。

 自分の過ごしてきた日々は一体なんだったのか。今まで抱き続けてきた忠誠は、幻想に向けられていたのか。

 実際に問いただし、確かめるのは恐ろしかった。すべてをただの悪夢だと思いたかった。しかし何もせずには居られなかった。イグラは信じていた故に、その夜の出来事の証拠を求めて聖堂の中をふらふらと彷徨い、探り始めた。

 数日で得た結果は、期待したものとはまるで反していた。食糧庫に隠されていた酒の樽を幾つも見つけてしまった。忍び込んだ主の居室では、聖堂の補修費用を偽って王城に申請していたことを裏付ける手紙や、あるはずのない煌びやかな宝石、高級な織物が隠されているのを。レスコンスト聖堂と大神官の実態を目の当たりにした。よく知っていたと思っていたものがすべて分からなくなった。そうなると神官たちのどのようなやりとりも、何か裏があるように思えてならなかった。信仰のすべてが分からなくなった。それまでは近くに寄り添って見えていた星の輝きが、姿を消してしまったのだ。

「神官とはまこと素晴らしい立場だな」

 と言う、主の声が胸に突き刺さる。イグラの主であった大神官サラカプートならば、けっして口にするはずのない言葉だった。

 ――サラカプート様はどうしてしまわれたのだろう。大神官様、信仰の化身、王国の善、女神の仕者は? 己が忠誠を誓ったあの方は、一体何処へと失せたのだ。ああ、ああ、ああ!

 騎士の中で思考と感情とが暴れ狂った。纏らない考えを暗い絶望感が覆い、繰り返される夜の光景と会話が精神に鎖をつけて闇の底へと引き込んだ。

 やがて。井戸の奥底のような、その中で。イグラの意識にぽつりと浮かび上がったものがある。

 意思が仄暗い絶望により取りまとめられ、イグラは、床に横たえた騎士の剣に手を伸ばした。柄は雪に埋められていたように冷たく感じられたが、取り落とすことはなく、握ってしまうと掌に吸いつくようだった。イグラは結論を出した。

 死んでしまおう。主を殺して、己も死んでしまおう。と。

 無論、ユフト・エスカーヤでも殺人は大罪である。被害者が神官で、加害者が騎士ともなれば、その事件が民にどれほどの衝撃を与えるかは想像に難くない。

 それでも恐らくは、サラカプートの行いが誰かに知れるよりよいと、その時彼は考えた。

 騎士が気を違えたということにすれば、神官サラカプートは公には清らかなままで死ぬ。その他の神官たちと同じように――否、もっと大々的に葬儀が営まれ、誰もがその死を惜しんで。騎士イグラが忠誠を捧げた、そのままの姿で。

 そのほうがずっとよいように思えた。神官の聖性も、騎士の忠誠も、すべての信仰が保たれるように思われた。

 イグラは考える。愛する大神官は失われていない。己は主の悪行を殺すのだ――

「イグラ! 寝ておるのか!」

 そうして彼が破滅へ向おうとした折、聞こえた声は天からではなく、扉の外からだった。

 剣を握り、ゆっくりと歩みだしていたイグラの足が縫いとめられる。彼の耳は今まで仕事を放棄していたようだ。声は苛立ち具合からして、何度も呼びかけた後のものだった。

「――居ります」

 立ち竦んだイグラは渇いた喉から声を絞り出した。

 ふらりと前に踏み出して、扉に手をかける。廊下から、蝋燭の灯りが細く差し込む。その様子がこの前見たもののようでイグラは頭痛を感じたが、努めて前を見た。

 些か立腹した様子の老騎士が、燭台を手に姿勢よく立っている。イグラと同じくサラカプートに仕える聖堂騎士だ。既に殆どの職務の終わった時刻にも関わらず、藍色のマントを身につけた正装だった。

「サラカプート様がお呼びだ。……居室に居られる。剣は置いていけ」

「……は」

 老騎士はイグラが手にしている剣に眉を跳ね上げ、注意してから同行を促す。薄暗い中で仲間の顔色の悪さに気づいた様子はない。

 二度と手放せないのではないかというほど剣をきつく握っていたはずの手は、誰かに指をひとつひとつ解かれたように緩やかに剣から離れた。イグラは剣を壁に立てかけ、老騎士と同じ格好を繕い、彼の後ろについた。

 歩いていた間のことを、イグラはよく覚えていない。あの晩自室に戻った時のように、気付けばサラカプートの部屋の前に立っていた。そして心臓と頭が、急に動き始めた。

 ――ああ、もしや、この頃の詮索が露呈したのだろうか。部屋を探ったのが知られたのだろうか。全てを知った己に、主はなんと言うだろう。なんと言葉をかけてくださるのだろう。

 イグラはサラカプートの騎士だ。主の部屋に行くのに、一人きりでも問題なく辿れる道を、二人で赴くなど仰々しい。何か特別な呼び出しであるとしか考えられなかった。

 そもそもが、思い返すまでもなくこの数日、彼の仕事ぶりは悲惨だった。それまでは真面目に務めていたのが急にそうなったのだから、何かあったのかと案じられても仕方がないことだ。

 もしかすればすべてが勘違いで、サラカプートはこの場で己の騎士を案じて真実と潔白を説いてくれるのではないかと、イグラの中に空寒く都合のよい考えが浮かんだ。どうすれば自分の望む真実が出来上がるのか、彼は三日三晩悩んでも想像すらできなかったというのに。

 老騎士が部屋の中へと声をかけた。イグラは聞き知った主の声で返答を聞く。促され、質素に整った石壁の部屋へと踏み入れる。

 サラカプートの居室は宴が行われていた食堂よりも随分暗くあった。奥の暖炉の火を消せば、もっと暗くなるだろう。

「……イグラ、参りました」

 イグラは努めていつもどおりに告げ、主の姿を見た。椅子に腰掛ける大神官。雪のように白い祭服の上に、上位神官の銀刺繍が施された深紅の帯襟。近頃白髪が増えた金髪と顔の皺は年月を感じさせたが、知性を宿した碧の瞳は昔から変わらない。

 彼の胸には当然のように、白銀の祈り星が輝いていた。あの夜にはなかった星だ。

 柔らかく微笑みかける大神官。視線から逃れようと、騎士は胸に手を当て頭を垂れた。毛足の短い紅い絨毯、そこに揺れる炎の影だけが目に入る。背後で同朋が同じ姿勢をとるのを、彼は衣擦れの音で知った。

「イグラよ。喜びなさい」

 サラカプートは穏やかに品のある口調で切り出す。

 ――今、何を喜べと言うのです!

 あまりによく知った主の声音。泣き叫び、怒鳴り散らしたい気持ちに駆られて歯を食い縛ったイグラは、次に発せられた言葉に耳を疑うこととなる。

「王子がお前を春告げを命じられたそうだ」

 イグラは目を見開き、顔を上げた。微笑む主を見た。

「……春告げ……?」

 鸚鵡返しに呟く。口にして唐突に、彼はもう今年の冬が終わる頃だということを思い出した。

 冬の終わりに王子の宣託によってユフト全土から選出される、春告げの使者。神官に付き添い春を探す者たち。星神と民に祝福されるその存在に己が選ばれたのだと、イグラは急速に理解する。

「そうとも。ターリャ様がお前をお呼びになったのだ。私もお前のような騎士を持って誉れが高い。すぐに支度をしなさい」

 穏やかに語りかけるサラカプートの調子は、イグラが少年だった頃からなんら変わらない。穏やかで優しく、神を愛する者の声に聞こえた(、、、、)

 イグラの体が震えた。歓喜、名誉にではない。一種の恐怖に。

 何故だ、と彼は問うた。目の前の神官にではなく、己を選んだ王子に――ひいては星神ターリャに。何故、今、このように忠誠と信仰に惑い喘ぐ哀れな騎士を選んだのか。

 イグラには神意が分からなかった。それもサラカプートを通して知っていると思っていたのだから、当然かもしれない。

 イグラにはもう、何もかもが分からなくなっていた。

「立派に務めを果たしなさい、イグラ」

「……はい――」

 少し前であれば、そう言われることは騎士にとって何にも勝る喜びだったはずだ。

 敬愛する主からの信頼。しかし、その関係は既に洞と化していた。

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