雪解け
今年ももう二十日ばかり過ぎて、新年のあの『はじまり』という感じはだいぶ薄れてきた。時間はただ流れるだけ、区切りも境も存在しない、という持論を持っている僕でさえも、新年には何か心が改まったような気分になる。
僕は冬の森の中を歩いている。空から注ぐ光が、冬でも葉を落とさない木々にほどよくさえぎられて、光の筋がいくつも見える。生き残った光の束は道の左右に積もっている雪を白銀に輝かせている。僕はその昼の光をぼうっとみながら、野田の家へ向かっている。
これは冬になると毎日思うことだが、この町は朝夜はもちろん昼間でも本当に寒い。空気自体が冷え込んでいて、一度外に出てしまえばずっと続いていた眠気さえもあっという間に消えてしまう。それを便利と感じるか厳しい気候と感じるかは人それぞれかもしれないが、実際に住んでいる人間のほとんどは後者だろう。雪が降っていないだけまだましかもしれない、そう自分に言い聞かせて、道を引き返して家に帰ろうとする体を抑える。
寒くて口も開きたくない中、僕は一人で野田の家へ向かう。今日は野田の妹さんの誕生日だ。僕は彼女とそれほど親しいわけではないのだが、野田に誘われ、僕自身も取り立てて用事もなかったのでこうして足を運んでいる。
野田の妹、名前は今宵だったと思う、高校生にしては背が低い気のする、内気な女の子。野田の家に遊びに行ったときに何度か会話をしたことがあるけど、あまり話し上手ではないらしく、短い言葉を小さな声でつぶやくと、すぐに顔を赤くして下を向いてしまう少女だ。彼女に誕生日会に呼べるような友人がいるのかは謎だが、やるという以上誰かしらを呼んでいるのだろう。あまり人ごみが得意ではない僕としては、僕以外にあと二、三人も来てくれればもう十分だ。
左右のきれいな雪の面に足跡をつけたいという小さな欲求に駆られながら、それでもそんなことをすれば靴が台無しになるのがわかっていたので、やっぱりただただ歩いた。
十分ほど歩いて、ようやく野田家に到着した。この辺は一軒一軒の家が大きく作られているのだが、野田家は中でも群を抜いている。僕の家、このあたりでは標準的な敷地だが、その三倍はあるのではないかというほどだ。
入り口に構える大きな門からしてまず一般とは違うし、中には庭があり、駐車場があり、池までもある。普段は芝できれいな緑色になっているそこらは、今は雪で真っ白になっている。緑のときもだいぶ趣があっていいと思っていたが、白になったらなったでまた立派に見えてしまうのだから、僕の感覚もだいぶいい加減なようだ。
門の前から邸宅へ続く道はきちんと雪が取り除かれていた。僕はそのまま玄関前まで歩いていき、三回ノックをした。するとすぐに野田家の世話をしているお婆さんがやっていた。
「こんにちは。妹さんの誕生日に呼ばれてきました。もう何人か来ていますか?」
「寒いなかご苦労様でした。今日は道中さんお一人だけを呼んで誕生会を開くと聞いておりますが」
礼儀正しく礼をして、松さんはそんなことを言った。あなたももちろんご存知でしょう、という顔をしていた。
僕は若干驚きながらも、何とか質問した。
「え? 妹さん、今宵さんのお友達はいらっしゃらないのですか?」
そう言ってから、いらっしゃらないと言うと、なんだか違った意味にもとれるなと思った。訂正するのも面倒なので、相手がきちんと受け取ってくれるだろうと思い返事を待った。
「お嬢様は遠くの学校に通っていらっしゃるので、この家まで来てくださるご友人は見つからなかったようで」
そういえば、妹さんは町の方にある優秀な女子学校に通っていると野田が以前にいっていたような気がする。それなら、確かに仕方がないのかもしれない。
「ささ、中にお入りください。寒い中疲れたでしょう」
想像とはだいぶ違った誕生日会になりそうだが、まあそれもそれで悪くないだろう。僕は松さんにうなずいて、野田家へ入っていった。
野田と妹は和室に二人座っていた。野田は僕を見るなり片手を挙げて「おう、寒い中悪いな」といって座布団を出してくれた。松さんは僕を和室へつれてから、飲み物を用意してくると言ってどこかへ言ってしまった。僕は円机のあいている場所に座り、荷物を後ろに置いた。
僕は右隣に座っている野田の妹をちらりと見た。白いカーティガンに黒いスカート、見るからに上品な少女だった。彼女は僕が来たのには気づいているらしいが、どうにもうまく話すタイミングをつかめずに目がきょろきょろしていた。少しかわいそうだったので、僕のほうから声をかけることにした。
「こんにちは。誕生日、おめでとうございます。今年で何歳ですか?」
すると、彼女のほうがうっすら紅色になった。彼女は何度か口を開いて閉じてを繰り返して、そして少し深呼吸をしてからゆっくり応えた。
「こんにちは…… お越しいただきありがとう、ございます。今年で、十七に、なります」
ゆっくりながらも何とか返事をしようとする彼女に少し区間を覚えながら、そうですか、おめでとうございます、と言った。
「よし、それじゃあ、とりあえずケーキ食べるか。こいつの友達は皆遠くに住んでてここにはこれないらしいから、今日はオレと今宵とお前の三人だ。悪いけど、付き合ってもらうぜ」
「いいよ。別に家にいても本読んでるか音楽聴いているだけだから」
妹の名前が今宵だったことを確認できて少しほっとした僕は、野田が器用にケーキを切り分けるのを見ていた。途中今宵さんと一度目があったが、彼女はすぐに目をそらしたので何も会話は生まれなかった。
「よし、六等分したから一人二個食べていいぞ。今宵は誕生日だからオレの分ひとつやろう、三つ食べていいからな」
円いケーキの半分、少女がそれを食べきれるはずはなく、野田も冗談でそう言ったのだろうが、野田妹は顔を真っ赤にして、少し、といってもまだ小さいにはいる声で言った。
「お兄ちゃん! 私、そんなに、そんなに…… そんなに食べられないからひとつで、いい……」
少し声を荒げて、それから僕も同席していることを思い出してまた小声になってしまった。僕はなんとなく申し訳なく思った。
「オレは甘いのそこまで好きじゃないから、一個しか食べないのなら、残りは道中に頼めよ」
野田はからかうようにしてそう言った。彼女は性格的に僕にそんなことを頼めるはずもないだろうに…… 僕は誕生日なのにわけのわからない意地悪をする野田を少しにらんで、それから今宵さんのへ声をかけた。
「僕は甘いもの結構好きだから、食べきれないようならもらっていいですか?」
まったく、何で僕がこんなに気を使わなければならないのだろうと思った。それでも、誕生日なのだから楽しい気分にさせてやりたいという心もあった。
「あ、ありがとう、ございます……」
今宵さんはすっかり恐縮してしまい、耳まで朱に染めながら深く頭を下げた。
「おう、色男だな、道中。どうだ、よかったらケーキと一緒に今宵ももらってやるのは」
またしてもつまらない冗談をはく野田に僕は若干あきれながらも、真剣に受け答えるのは少し恥ずかしかったので、調子を合わせるようにして言った。
「そうだな。妹さんさえよければ、今日にでももらいたいものだ」
少し冗談が過ぎたかな、と思い右となりをちらりと見てみると……
「……」
これ以上ない赤で首から上を真っ赤に染め上げている野田妹がいた。こぶしをグーで握り締めて、僕のところからつむじが見えるほどに首を曲げている。
僕は、この内気な少女にあまりにも失礼なことをしてしまったことに、いまさらながら気がついた。
「よーし、皿にとったから、道中には三つのっけたからな。面倒だから残すなよ」
今起きている惨事などまるで見えていないように、ごく普通な態度でそれぞれにケーキを配る野田。元はといえば、コイツのせいでこんなことになってしまったのに、まるで知らないという顔だ。
「それじゃあ、いただきます」
野田は元気よくそう言ってケーキを食べ始めた。僕はもう一度右隣を見ていたが、彼女は僕に決して目を合わせることなく、体ごと僕から避けるようにして、ケーキを食べ始めた。僕は何か言わないといけないと思ったが、こんなときに言う言葉を持ち合わせてはいなかった。野田が「どうした? 早く食べろよ」というので、なんだかもやもやしたものを胸に抱いたまま、僕もケーキを食べ始めた。味はよくわからないが、きっとおいしいものなのだろう。正直、今の僕にケーキの味を楽しんでいる余裕はなかった。
ケーキを食べて、次はプレゼントを送ることになったのだが、彼女は依然として、つむじを皆に向けたままだった。僕は本当に申し訳ない気持ちになり、彼女に一度きちんと謝ったのだが、今宵さんは一度顔を上げて、その汚れなど一切うつることのなさそうな、無垢な瞳で僕を見て、そしてまた下を向いてしまった。僕の気まずさはただただ募るばかりだった。仕方がないので、今日持ってきたプレゼント、僕の好きな本の新品なのだが、それは円机においておくことにした。僕は「ここにおいておきます」と言って、彼女はそれを一度見たように見えたので、おそらく僕が帰った後に見るなり捨てるなりするだろう。おそらく後者だと思うと、少し悲しくなったが、自業自得と言えなくもないので仕方なかった。
それからは、僕と野田が大学の講座についての話、最近読んだ本についての話を三時間ほどした。その間も彼女はずっと僕の右隣にいて、いっそのこともう自分の部屋に戻ってくれてもいいのに、なんて少し思ったりもした。
話にも一区切りがつき、時計を見るともう昼の四時になっていた。一月はこの時間になるともう少し暗くなってしまう。外もこれからどんどん冷え込んでいく時間帯だ。
「そろそろきりもいいし、僕は帰るよ」
そう言った時、右隣の少女が少し体を動かしたように見えたが、気のせいだったかもしれない。彼女を見るたびに申し訳なさが募ってくる。それでも下手に何度も謝るよりはこの場をすぐに去った方が向こうとしてもきっといいだろう。僕にとっても、彼女にとっても……
「そうか。今日は来てくれてありがとうな。コイツも今はこうしているけど、きっとお前が来てくれてよかったと思ってるはずだよ。なんてったって…… いや、余計なことは言わないほうがいいか。まぁ、とにかく兄妹どちらもお前が着てくれたことに感謝してるぜ。もう一度言うけど、ありがとうな」
よくわからないことを言う野田に一度うなずいて、それから最後にもう一度今宵さんを見たが、彼女はまだ下を向いたままだった。もう彼女との会話は生まれそうにないな…… 数少ない女の子の知り合いがいなくなるのは仕方がないが、僕はそれくらいのことをしてかしてしまったのだろう。今度来た時に少しでも機嫌がよくなっていて、「いらっしゃい」ぐらい言ってくれるようになっていればいいなぁ、なんて希望を持って僕は帰ることにした。
上着も着て、荷物も持って、いざこの部屋を去ろうとしたとき、思いがけない空気のゆれが。
「あの……」
僕の冗談以来ずっと下を向いていた彼女は小さな声でそうつぶやいた。一瞬、僕の希望から来る幻聴かとも思ったが、振り返ると彼女は座ったまま上目でこちらを見ていたので、そうではないとわかった。
「はい?」
僕はもうすっかり嫌われてしまって二度と話しかけられないと思っていたから、少し驚きながらも返事をした。声も少し上ずっていたかもしれない
「今日は……」
「今日は?」
今日は失礼でしたね、二度と話しかけてこないでください、家にももう来ないでください、なんて言われるのだろうかと思いながらも、彼女の続きを待った。
「今日は…… 来てくれて、ありがとう…… ございました」
彼女は立ち上がり、ペコリと頭を下げた。長い黒髪がさらさらと前に流れる。真っ赤な耳が髪の間から見えた。
予想外の言葉に本当に驚いてしまったので、思わず「え?」と聞き返してしまった。
面を上げた彼女はなぜか瞳をうるませていたので、僕はなんだか泣かせてしまったか、と思ったが、三十秒たってもしずくが落ちることはなかった。よくわからないが少しほっとした。同時に、少し、ほんの少しだが、体によくわからないものが流れた。
「あ、いや…… こちらこそありがとう。それと、失礼なことを言ってすみませんでした」
今度は僕が頭を下げた。年下の女の子に頭を下げるのなんてみっともないかもしれないけど、これはちゃんとしておきたかった。いやな風に残らないように、ここできちんと謝っておきたかった。
「い、いえ!」
彼女はあわあわと手を振って、僕の言葉を否定した。
「いえ…… 別に謝れるようなことでは…… そんなに嫌ではないというか……」
「え?」
最後のほうがよく聞き取れなかったので、僕は聞き返したが、彼女は再び真っ赤になってしまい、それ以上は何も言わなかった。
「別に怒ってないってさ。ほら、上着着たままいつまでも部屋にいると外出たとき寒くなるぞ。オレは途中までお前を送っていくことにするか」
戸惑う僕の肩を押して、僕は部屋から連れて行かれた。部屋を出る直前にもう一度振り返ると、今宵さんとまた目が合った。今度は胸に何か変な、痺れのような感覚を感じた。この正体がなんだかわからないまま、僕は玄関まで連れて行かれて、野田に一度「ありがとな」と言われた。なんだか謎が増えすぎてしまったので、僕はもう考えることをやめた。世の中には、まだまだわからないことがたくさんあるんだな、なんて適当なことを思いながら。




