換気扇譜
カクヨムの自主企画用に書いたものです。
ギャグ物の練習にと思って書きました。
夜十時。公営住宅五階建ての、その最上階に位置する我が部屋にて、俺は今宵もまた、世界がひそやかに奏でる荘厳なる交響曲に、魂の奥底から耳を澄ませていた。
絶対音感という呪いに囚われて幾年月。俺の耳という器官は、望むと望まざるとにかかわらず、この世のあらゆる振動を五線譜の上へと強制的に翻訳してしまう残酷な機関である。救急車の悲鳴も、水道の蛇口が零す一滴の涙も、俺にとってはすべて、逃れようのない調べとして、牙を剥いて襲いかかってくるのだ。
されど今宵、俺の心を捉えて離さぬは、この部屋を取り巻く換気扇たちの、あまりにも人間くさい歌声であった。同一メーカー、同一型番、同一の羽根の枚数――そのはずなのに、油の乗り方、モーターの疲弊、住まう者たちの営みという名の運命によって、彼らはそれぞれ、誰にも似ぬ固有の声を、この孤独な夜に紡ぎ出すのだ。これぞ量産品に宿りし魂の反逆、機械仕掛けの慟哭。
二〇二号室。d♯よりわずかに低く、震えるように鳴るその音は、人前に出ることを恐れ、いつも俯いている乙女の忍び泣きに似ている。俺はまだ、あの部屋の住人の顔さえ知らない。それでも俺は、彼女の――あるいは彼の――孤独の輪郭を、この耳だけで、毎晩なぞっているのだ。
四〇七号室。f♭にぴたりと重なる、迷いのない快活な響き。夏の朝、洗濯物を勢いよく物干し竿へ叩きつける誰かの、日に焼けた背中が見えるような、屈託のない音だ。
三〇三号室――ああ、三〇三号室よ。水の流れる音、食器の触れ合う涼やかな音、テレビの向こうから漏れる笑い声。生活の気配は確かにそこに満ちているというのに、換気扇だけが、今宵もまたこのシンフォニーへの参加を頑なに拒み、沈黙という名の抗議を貫いている。俺はその頑固さに、むしろ深い敬意を抱かずにはいられない。沈黙もまた、ひとつの音楽なのだから。
そして、我が部屋。Aからわずかに上ずった、いささか俺様な、傲慢な音。この歪みこそが俺という存在の証明であり、この宇宙に刻みつけた俺だけの署名なのだと、俺は常々、密かな誇りを抱いているのだ。
不揃いで、しかしこの上なく美しいポリフォニー。世界は、こんなにも身勝手に、こんなにも切実に、歌い続けているのだ。
俺は台所へ駆け込み、菜箸を二本、震える指で引っ摑んだ。それを指揮棒代わりに高々と掲げる。振り下ろす。振り上げる。菜箸が夜気を切り裂く音――ああ、なんと澄み渡った倍音だろうか。俺の魂は、今、確かにこのオーケストラの一員となったのだ。
甚平姿のまま、裸足で扉を蹴破るように開け放ち、廊下へと躍り出る。夜風が肌を撫でるのも構わず、天に向かって菜箸を振り上げる。
裸足がコンクリートを叩く音が、半音ほど、耳障りに響く。俺は思わず眉をひそめた。せっかくの荘厳な調べに、この即物的な足音だけが不純物として混じり込んでいる――そう歯痒く思いながらも、俺の魂は止まらなかった。止まれるはずもなかった。
「音の神よ――荘厳なる換気扇譜の調べを、あなたに捧げよう」
ガチャ。
隣室の扉が、まるで審判の日を告げるかのように、荒々しく開かれた。寝間着姿のまま髪を振り乱した隣家の貴婦人が、闇の中で菜箸を振りかざす甚平姿の男を見つめ、しばし言葉を失った。
「何が音の神だよ。荘厳だか何だか知らないけど――あんたの音が、一番の騒音だよ」
その声は、迷いも震えもなく、ただ一点、A♯を捉えていた。
A♯の怒りが、この夜の譜面を、非情にも完成させたのだった。




