幼馴染は妹みたいなものだと言うので、本当に妹にして差し上げました
「……あら?」
王都でも評判の劇場、その正面玄関前で馬車を降りたエレオノーラ・リウ・ヴァレンシュタインは、思わず小さく声を漏らした。
待ち合わせの場所には、すでに婚約者であるヴァルター・フォン・グラーフが立っている。
そこまでは予定どおりだったけれど、その隣には見覚えのある少女がいた。
「エレオノーラ!」
ヴァルターがこちらに気づき、片手を上げると彼のすぐ横から、淡い金髪を揺らした少女も満面の笑みを浮かべた。
「エレオノーラ様、ごきげんよう」
「ごきげんよう、アメリア様」
挨拶を返しながら、エレオノーラは一瞬だけ首を傾げた。
今日、ヴァルターと観劇へ行く約束をしていたのは自分だったはずだ。それも二人で、と記憶している。
少なくとも、アメリアも一緒だとは聞いていない・・・
そんなエレオノーラの疑問に気づいたのか、アメリアが申し訳なさそうに両手を胸の前で合わせた。
「ごめんなさい、エレオノーラ様。私、この劇をずっと見たかったんです。それを昨日ヴァルターに話したら、今日ちょうど観に行くって聞いてしまって・・・」
「そうでしたの」
「はい。それで、つい……」
アメリアはそう言いながら、ちらりとヴァルターを見上げるとヴァルターは、何でもないことのように笑った。
「アメリアがどうしても見たいと言うからな。せっかく席も一つ空いていたし、三人でも問題ないだろう?」
「……ええ」
問題ない、と言われてしまえば、エレオノーラも否定しづらい。
劇場へ入れないわけではないし、席が足りないわけでもないのであればなおさらだ。
ただ――今日は久しぶりにヴァルターと二人で過ごせると思っていた。
そのために新しいドレスを選び、侍女と相談しながら髪飾りまで決めたのだ。ほんの少し残念に思うくらいは、許されるだろう。
「エレオノーラ?」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
ヴァルターが怪訝そうにこちらを見ていた。
「どうした? まさか怒っているのか?」
「いいえ。ただ、今日は二人だと思っておりましたので、少し驚いただけですわ」
なるべく穏やかにそう答えるとヴァルターは、なぜか安心したように笑った。
「なんだ、そんなことか」
「そんなこと……ですか?」
「ああ。気にする必要はないよ」
そう言って、ヴァルターは隣にいるアメリアの肩を軽く叩いた。
「アメリアは昔からの付き合いだし、俺にとっては妹みたいなものなんだ!だから、エレオノーラが気にするような相手じゃないさ」
まるで、エレオノーラが嫉妬しているとでも思ったのだろう。けれどヴァルターにそういう意図がないのであれば、自分が余計なことを考えるべきではない。
何より、婚約者の言葉を疑う理由などないのだ。
「そうでしたのね」
エレオノーラが微笑むと、アメリアも嬉しそうに頷いた。
「そうなんです。私たち、小さい頃からずっと一緒で」
そして、何のためらいもなくヴァルターの腕に自分の腕を絡ませる。
「兄妹みたいなものですから!」
「こら、アメリア。歩きにくいだろう」
「いいじゃない。昔はいつもこうしてたでしょう?」
「子供の頃の話だろ」
二人は顔を見合わせて笑っていた。
エレオノーラは、その様子を黙って見つめる。
兄妹・・・
そういうものなのだろうか・・・エレオノーラには兄も弟もいないため、その距離感が正しいのかはよく分からない。
けれど本人たちがそう言うのなら、きっとそうなのだろう。
「ほら、エレオノーラ。そろそろ入らないと開演に遅れるぞ」
「ええ。そうですわね」
ヴァルターに促され、エレオノーラも二人のあとを追って劇場へ向かった。
その日、舞台では悲恋の物語が上演された。
けれどエレオノーラが最後まで気になっていたのは、舞台上の恋人たちではなく自分の隣で、楽しそうに同じパンフレットを覗き込んでいるヴァルターとアメリアの姿だった。
観劇の日から、二週間ほどが過ぎたその日、エレオノーラはヴァルターと王都の商店街を歩いていた。
間もなく彼女の誕生日を迎えるため、ヴァルターが贈り物を選びたいと言ってくれたのだ。
「何か欲しいものはないのか?」
「そうですわね……」
尋ねられ、エレオノーラは店先に並ぶ品々へ視線を巡らせた。
宝石やドレスが欲しくないわけではない。けれど、それ以上に嬉しかったのは、ヴァルターが自分のために時間を空けてくれたことだった。
観劇の日は、結局ほとんどアメリアとヴァルターが話していたから今日は二人でゆっくり話ができれば、それだけでも十分だと思っていた。
「でしたら、あちらのお店を見てもよろしいですか? 以前から素敵な髪飾りがあると聞いて――」
「ああ、構わない」
ヴァルターが頷いた、そのときだった。
「ヴァルター様」
後ろから手に一通の封書を持っている従者が声をかけてきた。
「アメリア様から、急ぎのお手紙が届いております」
「アメリアから?」
ヴァルターはすぐに封を切り手紙を読み終えた途端、軽く眉を寄せる。
「どうかなさいましたか?」
「ああ。アメリアが困っているらしい」
「困っている?」
「今度の夜会で着るドレスを選びに来ているそうなんだが、一人では決められないらしい。俺に見てほしいそうだ」
エレオノーラは瞬きをした。
思わず空を見上げると日はまだ高く自分たちが出かけてから、それほど時間は経っていなかった。
「……今から向かわれるのですか?」
「ああ。そうするつもりだ」
「ですが、今日は――」
言いかけて、エレオノーラは口を閉ざす。誕生日の贈り物を選んでくださる約束では、と続けるのは、どこか催促しているように思えた。
しかしヴァルターは気づかなかったらしい。
「髪飾りならまた今度でも見られるだろう?」
「それは、もちろんですが……」
「アメリアは昔から服を選ぶのが苦手なんだ。変なものを選んで夜会で恥をかいたら可哀想だろう」
そう言って笑うヴァルターに、エレオノーラは少し迷ってから尋ねた。
「今日でなければ、いけませんの?」
「今日?」
「アメリア様のドレス選びです。別の日にお手伝いすることはできませんの?」
ヴァルターが不思議そうな顔をした。まるで、なぜそんなことを聞くのか分からないという顔だった。
「アメリアは一人では不安なんだ。妹みたいなものなんだから、放っておけないだろう?」
「……妹」
「ああ」
また、その言葉だった。
ヴァルターはそれ以上説明する必要もないと思ったのだろう。
「悪いな、エレオノーラ。埋め合わせはするから」
「ええ……分かりましたわ」
そう答えると、彼は安心したように頷いた。
「ありがとう。やっぱり君は物分かりがいいな」
その言葉を残して、ヴァルターはアメリアの待つ店へと向かっていった。一人残されたエレオノーラは、先ほどまで見ていた店へ視線を向ける。
ガラス越しに見える髪飾りが、太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
少しだけ、胸の奥が寂しい。
「……妹のような方ですものね」
エレオノーラは自分に言い聞かせるように呟いた。妹が困っているのなら、兄が助けに行くのは当然なのだろう。そう考えれば、腹を立てるようなことではない。
きっと・・・
◇
それからさらに数日後王宮で開かれた夜会で、エレオノーラはまたヴァルターとアメリアを見つめていた。
「痛くないか?」
「大丈夫よ。少し挫いただけだから」
「無理をするな。ほら、もっと掴まっていろ」
「ありがとう、ヴァルター」
アメリアはヴァルターの腕に身体を預けている。どうやら会場へ来る途中、馬車を降りる際に足を捻ったらしい。
大した怪我ではないという話だったが、ヴァルターはずっと彼女のそばを離れなかった。本来なら今夜、エレオノーラをエスコートするのは彼だった。
けれど会場に入ってから、ヴァルターの腕はずっとアメリアが占領している。
「エレオノーラ様」
こちらに気づいたアメリアが、ぱっと笑顔を浮かべた。
「ごめんなさい。ヴァルターをお借りしてしまって」
「いえ。お怪我をされたのでしょう? 大丈夫ですの?」
「ええ、もう平気なんです。でもヴァルターが心配性で」
「お前が昔から無茶ばかりするからだろう」
「もう。子供じゃないんだから」
二人が笑いそれからアメリアは、どこか困ったような笑みをエレオノーラへ向けた。
「ヴァルターって昔からこうなんです」
「昔から?」
「はい。私が転んだだけでも大騒ぎして、熱を出せば一晩中そばにいてくれて。お兄ちゃんみたいなものなんですよ」
アメリアはそう言うと、さらにヴァルターへ身体を寄せる。そして、何気ない口調で付け加えた。
「エレオノーラ様も、そのうち慣れますよ」
「……慣れる?」
「はい。私たち、ずっとこんな感じなので」
にこり、と笑う。
悪意があるようには見えなかったけれどその言葉には、ほんの少しだけ。――あなたより、私のほうがヴァルターを知っています。
そう言われているような気がした。
エレオノーラは胸元に手を添える。
なぜだろう少しだけ、胸が痛んだ。自分はヴァルターの婚約者だ。いつか彼の妻になる。なのに彼のことを一番よく知っているのは、自分ではない。
それが少し寂しいのだろうか。
「アメリア」
「なに?」
「足が痛むなら、少し休んだほうがいい」
「じゃあ、テラスまで連れていってくれる?」
「もちろんだ」
二人が並んで歩いていく。またしてもエレオノーラは、その後ろ姿を見送ることになった。
けれど、そこでふと思う。
ヴァルターは嘘をつくような人ではない。
観劇の日も、先日の買い物の日も、そして今夜も、彼はずっと同じことを言っている。
アメリアは妹のような存在なのだ、と。
アメリア自身も、ヴァルターを兄のようなものだと言っている。
ならば本当に、二人は家族同然なのだろう。
「……そうですわね」
口に出してみると、不思議と胸の奥がすっきりした。自分はこれまで、二人が婚約者と異性の幼馴染だから、どこか不自然に感じていたのかもしれない。
兄と妹だと思えばいい。
そう考えれば、二人の距離が近いことにも説明がつく。そして、そこまで考えたところでエレオノーラは、ふと首を傾げた。
ヴァルターはアメリアを妹のように大切にしている。
アメリアもまた、ヴァルターを兄のように慕っている。けれどアメリアは両親を亡くし、今は遠縁の親族の庇護を受けて暮らしていると聞いている。
つまり彼女には、本当の意味で頼れる家族がほとんどいない。
「それでしたら……」
エレオノーラの中に、一つの考えが浮かんだ。
妹のような存在と兄のような存在そこまで互いを家族だと思っているのなら。
いっそ――
「本当に家族になってしまえば、よろしいのではないかしら?」
それはエレオノーラにとって、あまりにも自然な結論だった。
その考えが浮かんでから、エレオノーラの行動は早かった。まず、アメリアの現在の身分について父に確認し、それとなく養子縁組に関する法律も調べてもらった。
アメリアは幼い頃に両親を亡くしている。
現在は母方の遠縁にあたる男爵家が後見人となっているものの、実際には王都の屋敷で暮らしながら、グラーフ公爵家の庇護を受けることも多いらしい。
ならば、話はそれほど難しくない。
グラーフ公爵家ほどの家ならば、養女を迎えることにも問題はないだろう。むしろ、ずっと家族同然に付き合ってきた娘であれば、正式に家族として迎えたほうがアメリアにとっても安心なのではないか。
そう考えるほど、エレオノーラには良い案に思えてきた。
そして数日後、エレオノーラはグラーフ公爵家の屋敷を訪れていた。
「まあ、エレオノーラ。よく来てくれたわね」
「お招きいただきありがとうございます、イザベラ様」
応接室では、グラーフ公爵夫人イザベラが柔らかな笑みを浮かべて迎えてくれた。その隣には夫であるルシアン公爵が座り、向かいの長椅子にはヴァルターとアメリアの姿もある。
どうやら今日は、ちょうど皆が揃っているらしい。
「エレオノーラ、この前の夜会ではすまなかったな」
ヴァルターがそう言った。
「アメリアの足も、もうすっかり良くなった」
「ご心配をおかけしました」
アメリアも笑顔で頭を下げる。
「いいえ。大したお怪我ではなかったようで安心いたしましたわ」
「ヴァルターが大げさなんですよ。少し捻っただけなのに、歩くなだの座っていろだの」
「お前が無理をするからだろう」
「ほら、またそうやって」
二人が顔を見合わせる。
その様子を見ながら、エレオノーラは改めて思った。
本当に仲がいい。
やはり、どう見ても家族同然なのだろう。であれば、やはり自分の考えは間違っていない。
少ししてお茶が運ばれ、しばらく他愛のない会話を交わしたあと、エレオノーラはティーカップを静かに置いた。
「あの、ルシアン様、イザベラ様」
「どうした?」
ルシアンが視線を向ける。
「実は以前から、少し考えていたことがございますの」
「あら。なにかしら?」
イザベラが興味深そうに身を乗り出した。
エレオノーラは一度ヴァルターとアメリアを見てから、穏やかに微笑む。
「アメリア様を、グラーフ公爵家の養女としてお迎えしてはいかがでしょう?」
応接室が静まり返りヴァルターが目を瞬かせる。
「……は?」
アメリアもまた、笑顔のまま固まっていた。
「…………え?」
予想していなかった反応に、今度はエレオノーラが首を傾げる。
「何か問題がございましたか?」
「いや、問題というか……」
ヴァルターが珍しく言葉を詰まらせる。
アメリアも困ったように笑った。
「エ、エレオノーラ様。それは、どうして急に……?」
「急に、というわけではありませんのよ」
エレオノーラはきちんと説明することにした。
「ヴァルター様は以前から何度も、アメリア様は妹のような存在だと仰っていましたでしょう?」
「それは……そうだが」
「そしてアメリア様も、ヴァルター様は兄のような方だと」
「は、はい……」
二人とも頷く。ならば、やはり問題はない。
「でしたら、本当の兄妹になってしまえばよろしいのではありませんか?」
「…………」
再び沈黙が落ちた。エレオノーラには、どうして二人がそんな顔をするのか分からなかった。
むしろ良いことばかりではないか。
「アメリア様はご両親を亡くされ、今は遠縁の方が後見人をなさっていると伺いました。もちろん、その方々が悪いという意味ではございません。けれど、グラーフ公爵家とは幼い頃から家族同然のお付き合いなのでしょう?」
「それは、そうだけど……」
「正式にご家族になれば、アメリア様も将来のことを心配せずに済みます」
エレオノーラはアメリアへ微笑みかけた。
「これでしたら、これからもずっとヴァルター様のおそばにいられますわ」
「……ずっと」
「はい」
なぜかアメリアの口元が引きつる様子を見てエレオノーラは心配になった。
「もしかして、グラーフ公爵家がお嫌いですか?」
「い、いいえ! そんなことはありません!」
「でしたら安心いたしました」
エレオノーラが笑うと、アメリアも曖昧な笑みを返した。そこで、それまで黙って聞いていたルシアンが口を開いた。
「なるほど」
低く落ち着いた声だった。
ヴァルターが父を見る。
「父上?」
「それはいい考えだ」
「……え?」
今度はヴァルターの声が裏返った。
ルシアンは気にした様子もなく、腕を組む。
「以前からアメリアの今後については気になっていた。後見人である男爵も高齢だ。このまま宙ぶらりんの立場にしておくより、我が家で正式に迎えたほうがいいだろう。何よりアメリアの父君には恩がある」
「ですが父上、そんな簡単に――」
「簡単な話ではないからこそ、きちんと手続きをするのだ。」
「そ、それは……」
ヴァルターが黙る。すると今度はイザベラがぱっと表情を明るくした。
「あら、本当! 娘が一人増えるのね!」
「イザベラ様?」
「素敵じゃない。私はずっと娘が欲しかったのよ」
イザベラは嬉しそうにアメリアへ視線を向けた。
「それにアメリアなら昔から知っているもの。知らない娘を突然迎えるわけでもないし、私としては何の不満もないわ」
「イ、イザベラ様……」
「お母様でもいいのよ?」
「えっ」
アメリアの顔が固まった。しかしイザベラは楽しそうに続ける。
「まあ、正式に決まってからね。お部屋も整えなくちゃいけないし、ドレスも娘として相応しいものを用意しないと」
「母上、少し気が早いのでは?」
「そうかしら? あなたも嬉しいでしょう?」
イザベラがヴァルターを見る。
「ずっと妹のように思っていたアメリアが、本当の妹になるのですもの」
「……それは」
「違うの?」
無邪気な問いだったがヴァルターは、なぜかすぐに答えなかった。その沈黙を不思議に思い、エレオノーラも彼を見る。
「ヴァルター様?」
「いや……違わない」
ようやく出てきた答えは、それだけだった。
「そうですよね」
エレオノーラは安心した。
「私もそう思いましたの。お二人が本当に兄妹になれば、今までのように仲良くされていても、誰も変な誤解をすることはありませんもの」
「変な誤解……」
アメリアが小さく呟く。
「はい。これなら私も安心ですわ」
それは本心だった。これまで感じていた胸の引っかかりも、正式な兄妹になってしまえば消えるだろう。
妹と親しくする兄を見て、嫉妬する必要などない。ヴァルターもアメリアも、これまでどおり仲良くしていられる。
アメリアには頼れる家族ができる。自分も余計なことで悩まなくて済む。
誰にとっても良いことばかりだ。
「エレオノーラ」
ルシアンが静かに言った。
「良い提案をしてくれた。アメリアの後見人には私から話をしてみよう」
「ありがとうございます」
エレオノーラは嬉しくなって頭を下げる。
「きっとアメリア様もお喜びになると思います」
「…………はい」
その声はなぜか小さかった。顔を上げると、先ほどまであれほど楽しそうに話していた二人が、急に静かになっていた。
エレオノーラには、その理由が分からない。けれどきっと本当に家族になれることに、戸惑っているだけなのだろう。
そう思ったまさか二人が
「妹のようなものではありません」
その一言を、どうしても口にできなかっただけだとは――このときのエレオノーラは、まだ知る由もなかった。
それからの話は、エレオノーラが驚くほど順調に進んだ。
まずルシアンが、アメリアの後見人である男爵へ話を通した。
男爵はすでにかなりの高齢で、もともとアメリアの将来を心配していたらしい。グラーフ公爵家が正式に娘として迎えてくれるのであれば、これ以上ない話だとすぐに了承したという。
アメリア自身も幼い頃からグラーフ家と親しくしており、家柄にも何の問題もない。あとは必要な書類を整え、王家へ届け出るだけだった。
「こんなに早く決まるものなのですね」
数日後、再びグラーフ公爵邸を訪れたエレオノーラは感心していた。向かいではイザベラが楽しそうに書類へ目を通している。
「ふふ。条件が良かったのよ。アメリアの後見人も賛成してくださったし、私たちも昔からあの子を知っているでしょう?」
「確かにそうですわね」
「それに、ルシアンったら仕事が早いのよ。一度決めたら、あっという間なんだから」
「必要なことを必要な順番で処理しただけだ」
そう言ってルシアンは紅茶を口にした。
相変わらず淡々としているが、反対する気配はまったくない。
むしろ
「これでアメリアの立場も安定する。悪くない話だ。」
と、満足している様子だった。
エレオノーラも同じ気持ちだった。
これほど皆にとって都合の良い話なのだから、もっと早く誰かが考えていてもよかったのではないかと思うほどだ。
ただ一人いや、二人だけ。
どうにも浮かない顔をしている者たちがいた。
「父上」
ヴァルターだった。
「本当に、そこまでする必要があるのでしょうか」
ルシアンがゆっくり顔を上げる。
「そこまで、とは?」
「養子縁組です。今までだってアメリアの面倒は見てきた。わざわざ正式に家族にしなくても、これまでどおりでいいのではないですか?」
エレオノーラは少し意外に思った。ヴァルターはアメリアをとても大切にしている。ならば、正式な家族になれることをもっと喜ぶと思っていたのだ。
「それではアメリア様の立場は、これまでと変わりませんわ」
エレオノーラが口を挟む。
「今の後見人の方もご高齢なのでしょう? 将来のことを考えるなら、グラーフ公爵家に入られるほうが安心ではありませんか?」
「それは、そうかもしれないが……」
「では、何か問題が?」
「いや……」
ヴァルターが言葉に詰まる。
その様子を見ていたルシアンが、わずかに眉を寄せた。
「ヴァルター・・・お前は昔から、アメリアを妹のように大切にしてきたのだろう?」
「……ええ」
「ならば何を気にしている?」
あまりにも当然の問いだった。ヴァルターが黙るとルシアンはさらに続けた。
「血が繋がっていないというだけで、これまで妹同然に扱ってきた娘だ。正式に妹になることに、何の不都合がある?」
「それは……はい・・・」
結局、ヴァルターはそう答えるしかなかった。
隣に座っていたアメリアが、膝の上でぎゅっと手を握っている。
エレオノーラはその様子に気づき、少し心配になった。
「アメリア様」
「は、はい」
「もしかして、やはりご不安ですか?」
「え?」
「急にお家が変わるのですもの。戸惑われるのも当然ですわ」
エレオノーラがそう言うと、アメリアはしばらく黙ってから曖昧に笑った。
「……そう、ですね。少しだけ」
「でしたら、無理になさらなくても」
「その、グラーフ家が嫌だとか、そういうことではないんです。本当に」
「そうですか?」
「はい。ルシアン様にもイザベラ様にも、ずっと良くしていただきましたから」
そこまで言ってから、ちらりとヴァルターを見るとほんの一瞬二人の間に、何とも言えない沈黙が流れた。だがエレオノーラには、その意味が分からない。
「なら心配はいらないわ」
イザベラが明るく言った。
「アメリアのお部屋も、もう候補を決めているのよ」
「もうですか?」
「もちろん。ヴァルターの部屋からあまり遠くない場所がいいでしょう?」
アメリアがわずかに顔を上げる。
「……近くに?」
「だって、あなたたちは仲の良い兄妹になるのですもの」
「…………そうですね」
また、少し間が空いた。けれどイザベラは気づいた様子もなく、楽しそうに話を続ける。
「娘ができたら一緒に買い物へ行きたいと思っていたの。ドレスも新しく仕立てましょうね」
「そんな、そこまでしていただかなくても……」
「駄目よ。公爵家の娘になるのだから、相応しいものを揃えなくては」
「母上は気が早すぎます」
ヴァルターが苦笑する。
「いいじゃない。楽しみなのだもの」
イザベラは本当に嬉しそうでそんな彼女を見ていると、エレオノーラも自然と笑顔になる。
◇
そして、およそ一月後王家から正式な承認が下りた。
アメリアは、グラーフ公爵家の養女となった。
その日の夕刻公爵家では身内だけのささやかな祝宴が開かれた。
「それでは」
ルシアンがグラスを掲げる。
「今日からアメリアは、正式に我がグラーフ家の娘となる」
皆がそれぞれグラスを持ち上げた。
「歓迎するよ、アメリア」
「よろしくね。これからは遠慮なんてしなくていいのよ」
「……ありがとうございます」
アメリアは少しぎこちなく微笑んだ。
今日から彼女の名前は――アメリア・フォン・グラーフ。
正式な公爵令嬢である。
「おめでとうございます、アメリア様」
エレオノーラも心から祝いの言葉を贈った。
「ありがとうございます、エレオノーラ様」
「これで本当にご家族ですね」
そう言うと、アメリアの笑顔がほんの一瞬だけ固まった。
「……はい」
そしてエレオノーラは、ヴァルターへ振り向いた。
「ヴァルター様」
「なんだ?」
「これで安心ですね」
「……何が、かな?」
「もちろん、アメリア様のことですわ」
エレオノーラは微笑んだ。
「これからは何があっても、正式な妹君としてお守りできますもの」
「…………」
「今まで以上に仲良くなさっても、誰も誤解することもございませんし」
「……ああ」
ヴァルターはグラスを持ったまま、少しだけ視線を逸らした。
「そうだな」
エレオノーラは満足して頷く。
アメリアには新しい家族ができた。
ヴァルターには大切な妹ができた。
イザベラには欲しかった娘ができた。
ルシアンも、アメリアの将来を心配する必要がなくなった。
そして自分も、二人の距離を気にする必要がなくなり、皆が幸せになれる。
本当に、そう思っていた。少なくとも――エレオノーラだけは・・・
アメリアが正式にグラーフ公爵家の養女となってから、半月ほどが過ぎた。
新しい生活にも少しずつ慣れてきたのだろう。以前よりも立派なドレスを身につけ、公爵令嬢としての教育も受け始めたアメリアは、見違えるように洗練されていた。
「とてもよくお似合いですわ」
ある日の午後グラーフ公爵邸の庭園でお茶を楽しんでいたエレオノーラがそう言うと、アメリアは少し照れたように笑った。
「ありがとうございます。でも、まだ慣れなくて」
「そうなのですか?」
「はい。急に着る服も増えましたし、先生も何人もいらっしゃるし……」
「公爵令嬢ですものね」
「そうなんですけど……」
アメリアは困ったように肩をすくめる。けれど、本当に嫌というわけではないらしい。以前より良い暮らしをしているのは確かだし、イザベラも娘ができたことを心から喜んでいる。
エレオノーラとしても、その様子を見るたびに自分の提案は間違っていなかったと思えた。
「エレオノーラ!」
そこへ、明るい声が響いた。
庭園へ現れたのはイザベラだった。
手には数通の封書を抱えている。
「あら、イザベラ様」
「ちょうどよかったわ。あなたにも相談したかったの」
「私にですか?」
「ええ」
イザベラは嬉しそうに席へ着くと、持っていた封書をテーブルの上に並べた。
アメリアが不思議そうに首を傾げる。
「お母様、それは?」
「あなたへの縁談よ」
「…………え?」
一瞬、アメリアの表情が止まった。対してイザベラは満面の笑顔だった。
「正式に養女になったと公表してから、もうこれだけお話が来ているの」
「え、ええと……」
「もちろん、全部受ける必要なんてないのよ。ちゃんと私たちで選ぶわ」
そう言いながら、イザベラは封書を一通手に取った。
「特にこの方なんて、とてもいいと思うの」
「どなたですか?」
エレオノーラが尋ねると、イザベラは嬉しそうに答えた。
「ベルンハルト侯爵家の次男、セドリック様よ」
エレオノーラも名前を知っていた。まだ若いが王宮の文官として働いており、将来を期待されている青年だ。
夜会でも何度か見かけたことがあるが、穏やかで礼儀正しく、悪い噂も聞かない。
「まあ。それは素敵なお話ですわね」
「でしょう?」
イザベラは嬉しそうに頷いた。
「家柄も申し分ないし、ご本人も優秀。何より女性関係の妙な噂が一つもないの」
「それは大切ですわね」
「でしょう?」
二人で頷き合う。
ところがアメリアだけは、笑っていなかった。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「どうしたの?」
「私……まだ結婚なんて考えていません」
「あら」
イザベラが目を瞬く。
「今すぐ結婚するなんて話ではないわよ」
「でも、縁談なんですよね?」
「もちろん。でもまずはお会いしてみるだけ。気が合わなければ断ればいいのよ」
「ですが……」
アメリアが言葉に詰まる。
エレオノーラも首を傾げた。
「とても良い方だと伺っていますわ。一度お会いになってみてはいかがですか?」
「エレオノーラ様まで……」
「もちろん、無理にとは申しませんけれど」
そう言うと、アメリアはどこか困ったように視線を落とした。
そのときだった。
「何の話をしているんだ?」
庭園へヴァルターがやってきた。
「あら、ヴァルター」
イザベラが振り返る。
「ちょうどいいところに来たわ。アメリアの縁談について話していたのよ」
「縁談?」
ヴァルターの足が止まり、そして次の瞬間。
「誰とのですか?」
思った以上に強い声にイザベラが少し驚いたように目を瞬く。
「ベルンハルト侯爵家のセドリック様よ。とても良い方でしょう?」
「……セドリック?」
「ええ」
ヴァルターの表情がわずかに険しくなる。
「どうして急にそんな話を?」
「急ではないでしょう?」
イザベラは不思議そうに答えた。
「アメリアも年頃ですもの。良いお話があれば紹介するのは当然よ」
「ですが、アメリアはまだ家に来たばかりです」
「もちろん、急いで結婚させるつもりはないわ。でも会うくらいなら問題ないでしょう?」
「アメリア本人が嫌がっているじゃありませんか!」
ヴァルターの声が庭園に響くとその場にいた全員が、彼を見た。ヴァルター自身も、少し言い過ぎたと思ったのだろう。わずかに顔を強張らせる。
「……その、本人が乗り気ではないのなら、無理に進める必要はないと思います」
「無理に進めてはいないわ、会ってみるだけだと言っているでしょう?それとも、セドリック様に何か問題でもあるの?」
「それは……ありませんが」
確かに、大切な妹の縁談だから心配なのだろう。けれど相手は申し分のない人物なのだからそこまで強く反対する理由があるようには思えない。
そこへ、いつの間にか庭園へ来ていたルシアンが静かに口を開いた。
「……ヴァルター・・・お前は、なぜ怒っている?」
「それは、アメリアが嫌がっているからです」
ルシアンはアメリアへ視線を向けた。
「アメリア本当なのか?」
「え……」
突然問われ、アメリアが戸惑う。
「その……まだ、そういうことを考える余裕がないというか……」
「ならば無理に婚約する必要はない・・・が、一度会って話をするくらいは構わないだろう。断るかどうかは、そのあと決めればいいではないか」
「……はい」
アメリアが小さく頷く。
ヴァルターがまた何か言おうとした。だが、その前にルシアンが彼を見る。
「それに妹に良い縁談が来たのだ。兄であるお前が、まず喜んでやるべきではないのか?」
イザベラはその言葉に納得したように頷いた。
「本当ね。ヴァルターは昔からアメリアを大切にしていたもの。てっきり一番喜ぶと思っていたわ」
「それは……」
「セドリック様なら安心でしょう?」
「……そう、ですね」
ヴァルターは、まるで絞り出すように答えた。
その横でアメリアもまた、何とも言えない表情で俯いていた。
エレオノーラは二人を見つめる。
やはり、兄妹になったばかりだから寂しいのだろうか。
アメリアが嫁げば、いつかこの家を出ることになる。
そう考えれば、ヴァルターが心配する気持ちも分からなくはない。
「ヴァルター様、きっと大丈夫ですわ」
エレオノーラは微笑んだ。
「アメリア様に相応しい方でしたら、きっと幸せにしてくださいます」
「…………」
「兄としては寂しいかもしれませんけれど」
ヴァルターの眉がわずかに動いたが否定はしなかった。なぜなら彼自身がこれまで何度も言ってきたのだから。
アメリアは妹のようなものだ、と。そして今、その言葉は本物の「妹」という形になって、少しずつ彼を縛り始めていた。
アメリアとセドリックの顔合わせは、予定どおり行われることになった。もっとも、それはまだ婚約を決めるためのものではない。
グラーフ公爵家の娘となったアメリアに、年齢も家柄も釣り合う青年を紹介し、まずは互いを知る。
ただ、それだけのことだった。
――少なくとも、周囲にとっては
「セドリック様、とても感じの良い方でしたわね」
顔合わせを終えた数日後王宮で開かれた昼の茶会で、エレオノーラがそう口にすると、隣に座っていたイザベラが満足そうに頷いた。
「でしょう? 私も以前から知っているけれど、あの方なら安心だわ」
「お話もお上手でしたし、アメリア様にもよくお気遣いなさっていました」
その会話を聞いていたアメリアが、少し困ったように笑う。
「まだ、一度お話ししただけですから・・・」
「次は庭園でもご一緒したらいいわ。お互い好きな花の話をしていたでしょう?」
「お母様……」
「嫌なら嫌と言っていいのよ」
「そういうわけでは……」
アメリアが言葉を濁すとそこへヴァルターがやってくる。
「何の話をしているんだ?」
「アメリアとセドリック様の話よ」
イザベラが答えた途端、ヴァルターの表情がわずかに曇った。
「またその話ですか」
「また、とは何?」
「いえ……」
ヴァルターは口をつぐむ。
以前の庭園で父に言われたことを思い出したのだろう。
妹の良縁を喜ぶのが兄ではないのか。その言葉以来、彼はあからさまに反対することができなくなっていた。
「ところでヴァルター」
イザベラが思い出したように言う。
「次の夜会では、アメリアをセドリック様にエスコートしていただこうと思っているの」
「……セドリックに?」
「ええ」
「なぜです?」
「なぜって」
イザベラが不思議そうに首を傾げた。
「縁談のお相手なのだから自然でしょう?」
「ですが、今までは俺が――」
そこまで言って、ヴァルターが止まる。
「今までは?」
「……いや」
ヴァルターが視線を逸らした。今までは自分がアメリアをエスコートしていた。そう言いたかったのだろう。
けれど今のアメリアは、正式な妹である。しかもヴァルターには、婚約者であるエレオノーラがいる。
社交界で妹の腕を取り、婚約者を一人で歩かせ続ける理由などない。
「ヴァルター様」
「なんだ?」
「次の夜会では、久しぶりにご一緒できますわね」
エレオノーラが微笑む。
「あ……ああ」
「最近はアメリア様のお世話でお忙しそうでしたから」
「世話というほどでは……」
「でも、もう安心ですわね」
エレオノーラは素直にそう思っていた。もうヴァルターがいつまでも妹につきっきりでいる必要はない。
「そうね」
イザベラも頷く。
「ヴァルターはエレオノーラをきちんとエスコートしなさい。妹ばかり構っていては駄目よ」
「……分かっています」
ヴァルターは不満そうだった。
その隣で、アメリアもどこか複雑そうな顔をしている。
◇
そして夜会の日。
「まあ、アメリア様」
「ごきげんよう」
会場へ入ったアメリアは、セドリックの腕に手を添えていた。
淡い青のドレスをまとった彼女と、濃紺の正装に身を包んだセドリックは、並んでいるとよく似合っている。
「とても素敵ですわ」
エレオノーラがそう言うと、セドリックが礼儀正しく微笑んだ。
「ありがとうございます。アメリア嬢の美しさのおかげでしょう」
「そんな……」
アメリアが少し頬を赤くする。そのやり取りのすぐ横で、ヴァルターが黙っていた。今夜の彼の腕には、エレオノーラの手が添えられている。
婚約者同士なのだから本来なら、これが普通なのだ。なのにヴァルターは時折、アメリアのほうへ視線を向けている。
「ヴァルター様?」
「……ああ。すまない」
「どうかなさいました?」
「いや、何でもない」
そう答えながらも、また視線が向く。アメリアもそれに気づいたらしく、ちらりとこちらを見た。 一瞬だけ二人の視線が重なる。
けれど、その直後
「あら、本当に仲の良いご兄妹ですこと」
近くにいた伯爵夫人が笑った。
「ええ。ヴァルター様ったら、妹君が気になって仕方ないようですわ。公爵家に迎えられてからまだ日も浅いですものね。心配なのでしょう」
悪意のない言葉だった。
「アメリア様もお幸せですわね。あんなに妹思いのお兄様がいらっしゃるなんて」
「……そうですね」
だが伯爵夫人は気づかない。
「幼い頃から兄妹同然だったと伺いましたわ。それが本当のご兄妹になられたなんて、素敵なお話ね」
「……はい」
アメリアはまた頷いた。その言葉を聞きながら、ヴァルターがグラスを強く握る。
「ヴァルター様」
「なんだ?」
「皆様も、お二人が兄妹になられたことを喜んでくださっていますね」
「……そうだな」
どこか力のない返事だった。
◇
それからも同じことが何度も起きた。アメリアがヴァルターのそばへ行けば、
「まあ、本当に仲の良い兄妹ね」
と言われる。ヴァルターがアメリアを気遣えば、
「妹君を大切になさっているのね」
と褒められる。以前なら
「幼馴染だから」
「兄妹みたいなものだから」
そう言えばよかった。けれど今は違う・・・幼馴染ではなく兄妹みたいなものでもない。
本当に、兄と妹なのだ。
その夜ダンスを終えたエレオノーラが休憩室へ向かう途中、廊下の先に二人の姿を見つけた。
ヴァルターとアメリアだった。
「アメリア・・・セドリックとは……どうなんだ?」
エレオノーラは思わず足を止めた。
盗み聞きするつもりはなかったが二人は、こちらに気づいていない。
「優しい人だと思う。でも、まだそれだけ」
「なら、無理に会う必要はない」
「でも、お母様が」
「母上には俺から――」
言いかけて、ヴァルターが黙った。しばらく沈黙したあと、アメリアが小さく笑った。
「お兄様が、妹の縁談に口を出しすぎるのは良くないんじゃない?」
冗談めかした言い方だったがヴァルターは苛立ちをぶつけるように叫ぶ。
「……その呼び方はやめろ」
「え?でも・・・」
「今までどおりでいいんだ」
「……ヴァルター」
二人はそれ以上、何も言わなかった。
エレオノーラは静かにその場を離れた。
胸の中に、また小さな違和感が生まれていた。兄と呼ばれることを、なぜあんなに嫌がるのだろう?妹の良縁を、なぜあんなに気にするのだろう。
けれど
「……大切な妹ですものね」
エレオノーラは、まだそう考えていた。
家族だからこそ、離れていくのが寂しい。
きっと、それだけなのだ。
一方で妹という立場になったアメリアも、兄という立場になったヴァルターも以前のように振る舞うたびに、周囲から祝福される。
仲の良い兄妹だ、と。それは二人が自分たちで何度も口にしてきた言葉だった。
だから否定することもできない。
そしてようやく二人は少しずつ気づき始めていた。自分たちが欲しかったものは決して――兄と妹という関係ではなかったのだと。
それから数日後エレオノーラのもとへ、ヴァルターから珍しく呼び出しの手紙が届いた。
場所はグラーフ公爵邸の小さな談話室。普段ならイザベラやアメリアが使うことの多い部屋だが、その日そこにいたのはヴァルター一人だけだった。
「お待たせいたしました」
「ああ。来てくれて助かった」
ヴァルターは落ち着かない様子で窓際に立っていた。
「お話とは、なんでしょう?」
「……ああ」
ヴァルターはすぐには答えず、何度か迷うように視線を彷徨わせたあと、ようやく口を開く。
「エレオノーラ・・・アメリアの養子縁組なんだが……」
その名前が出たことで、エレオノーラは少しだけ首を傾げた。
「アメリア様がどうかなさいました?」
「その……取り消すことはできないのか?」
「…………はい?」
思わず聞き返してしまった。
それほど予想外の言葉だった。
「養子縁組を、ですか?なぜです?」
エレオノーラは純粋に不思議だった。アメリアは正式に公爵家の娘となり、身分も生活も安定した。 イザベラは娘ができたと喜び、ルシアンも彼女を家族として扱っている。
アメリア自身も、公爵令嬢としての暮らしに少しずつ慣れてきているように見えた。
今さら取り消す理由が思いつかない。
「何か問題でもございましたか?」
「問題というか……」
「アメリア様が、公爵家で暮らすことを嫌がっていらっしゃるのですか?」
「いや、そうじゃない」
「でしたら、イザベラ様やルシアン様と何か?」
「違う」
「では……?」
ヴァルターが黙った。エレオノーラはしばらく待ったが、答えは返ってこない。
「ヴァルター様・・・以前から不思議だったのですがアメリア様が養女になられることを、あなたはあまり喜んでおられませんでしたね」
「……そんなことは」
「養子縁組のお話をしたときも、必要がないと仰っていました」
「それは……」
「縁談のお話が出たときも、強く反対されました」
ヴァルターが目を逸らす。
「それは兄として心配だっただけだ」
「そうなのですね」
エレオノーラは一度頷いた。
けれどそこで、数日前の夜会を思い出した。アメリアから「お兄様」と呼ばれたヴァルターが、ひどく嫌そうな顔をしていたこと。
「では、どうして養子縁組を取り消したいのです?」
「…………」
「アメリア様は、あなたにとって妹のような方なのでしょう?」
「そうだ」
ヴァルターはすぐに答えたがその声には、迷いがあった。
「ならば」
エレオノーラはますます分からなくなった。
「本当の妹になったことに、何か問題があるのでしょうか?」
「だから……そういう話じゃないんだ」
「どういうお話なのです?」
「それは……」
ヴァルターは何かを言おうとして、やめて拳を握りそれから窓の外へ視線を向けた。
「……すまない」
「いえ」
「ただ」
彼は苦しそうに眉を寄せた。
「あいつが他の男と一緒にいるのを見ると……腹が立つんだ」
「…………」
「セドリックがアメリアに触れるのも、笑いかけるのも気に入らない」
エレオノーラは何も言えなかった。
「アメリアがあいつと結婚したら、家を出るだろう・・・それが……嫌なんだ」
そこでエレオノーラの中にあった小さな違和感が、ようやく一つの形になった。
観劇の日ヴァルターの腕に絡みついていたアメリアと誕生日の贈り物を選ぶ途中で、アメリアのもとへ向かったヴァルター。
そしてそのたびに聞かされた言葉――妹みたいなものなんだ。
ずっと、その言葉を信じていた。
疑う理由などないと思っていた。
けれど
「ヴァルター様」
エレオノーラは無感情に彼を見つめた。ただ、確認しなければならないと思った。
「一つだけ、伺ってもよろしいでしょうか?」
「何だ?」
「あなたは……アメリア様を、本当に妹として見ていらっしゃるのですか?」
ヴァルターの顔が強張った。
「それとも」
エレオノーラは静かに問いかけた。
「あなたはアメリア様を、妹としてではなく、一人の女性としてお好きなのですか?」
答えは返ってこなかった。
けれどヴァルターの表情を見れば、それで十分だった。
「…………」
ヴァルターは否定しなかった。
「……そうでしたか」
「エレオノーラ・・・違う」
「やっと分かりました」
不思議なくらい、頭の中は静かだった。
胸が痛くないわけではない。なにせ長年婚約していた相手だ。いつか夫婦になるのだと思っていた。 少なくとも自分は、そのつもりで彼と向き合ってきた。
けれどヴァルターにとって、自分との婚約とアメリアとの関係は、最初から別々のものだったのだろう。
貴族として妻を娶る。
それとは別に、アメリアはずっとそばに置いておく。
そして、その不自然さを問われれば”妹のようなものだから”その一言で済ませる。
「エレオノーラ、違うんだ」
「何が違うのでしょう?」
「俺は別に、君を嫌っているわけじゃない・・・婚約を嫌だと思ったこともない」
「そうでしょうね」
エレオノーラは静かに頷いた。
それは、おそらく本当なのだろう。ヴァルターはエレオノーラを嫌っていたわけではない。
ただ好きでもなかった。
少なくともアメリアに対する愛情よりかは・・・
「エレオノーラ?」
「ヴァルター様」
彼女はいつもと変わらない、穏やかな微笑みを称えていた。
「では、私があなたの妻になる理由もなくなりましたね」
「…………は?」
ヴァルターが目を見開く。
エレオノーラはその反応を見ながら、初めてはっきり理解していた。
自分がするべきことはアメリアを妹ではなくすことではない。ましてや、二人の間へ割って入ることでもない。
ただ自分がそこから退けばいい。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
ヴァルターが慌てて立ち上がった。
「どうしてそういう話になるんだ?」
「そういう話?」
「婚約を解消するなんて」
まるで予想していなかったという顔だった。
そのことが、エレオノーラには少しだけ不思議だった。
「ヴァルター様は、アメリア様を一人の女性としてお好きなのでしょう?」
「それは……」
「でしたら、私との婚約を続ける必要はございませんわ」
「だから、違うんだ!」
また声が大きくなる。
ヴァルターはさらに何かを言おうとした。けれど、自分でも何を言えばいいのか分からないのだろう。
「俺は……君との結婚を嫌だと言ったわけじゃない。アメリアのことだって、今までと同じでいいと思っていたんだ」
「今までと同じ?」
「ああ。君と結婚して、それでもアメリアとは……」
そこで、ヴァルターの言葉が止まった。
エレオノーラはようやく理解した。
本当に彼は何も変えるつもりがなかったのだ。
自分とは家同士のために結婚する。
アメリアとは、これまでどおり特別な関係を続ける。
そして誰かに咎められれば、――妹みたいなものだから。
そう言えばいいと思っていた。
「ヴァルター様」
「……なんだ?」
「それは、私にはできません」
穏やかに告げる。
「あなたが他の女性を愛していると知りながら、妻として隣に立ち続けることはできませんわ」
「でも……」
エレオノーラはほんの少し笑った。
「アメリア様はもう、本当にあなたの妹君ですもの。これからはお好きになさって下さい」
「…………」
ヴァルターが言葉を失った。
◇
婚約解消の話は、その日のうちにルシアンとイザベラにも伝えられた。
エレオノーラは二人の前で、起きたことをありのまま説明した。
ヴァルターがアメリアの養子縁組を取り消したいと言ったこと。その理由を尋ねたこと。そして彼自身が、アメリアを妹ではなく一人の女性として想っていると認めたこと。
すべてを聞き終えたあと応接室には、長い沈黙が落ちた。
「……ヴァルター」
最初に口を開いたのはルシアンだった。
「はい」
ヴァルターは父の前で俯いている。
「確認するが・・・お前は以前から、エレオノーラ嬢にアメリアのことを『妹のようなものだ』と説明していたのだな?」
「……はい」
「何度も?」
「はい」
「それを信じたエレオノーラ嬢が、アメリアを正式な妹にしてはどうかと提案した」
「……そうです」
ヴァルターが顔を上げた。
「ですが、あの状況では――」
「だが、お前は最終的に同意した」
「…………」
「そのうえで今になって、自分はアメリアを女として好きだったから養子縁組を取り消したい、と?」
「父上・・・それは」
答えられないヴァルターを見てルシアンは小さく息を吐いた。
「呆れたな。まさか息子がこんな屑だったとは・・・見抜けなかった自分に腹が立つ・・・」
その一言に、ヴァルターの肩が揺れた。
「お前は何年も『妹のようなものだ』と言い続け、エレオノーラ嬢を欺いていたのだろう?」
「……はい」
イザベラもいつもの柔らかな笑顔を消していた。
「エレオノーラ・・・あなた、本当に何も知らなかったのね?」
エレオノーラは頷く。
「私は、ヴァルター様のお言葉をそのまま信じておりました」
「……そう」
イザベラは目を伏せる。
「ごめんなさいね」
「イザベラ様が謝られることではございません」
「でも、私はあなたがこの家に来てくれることを楽しみにしていたの」
「私も楽しみにしておりました。」
その言葉は嘘ではなかった。いつかグラーフ公爵家へ嫁ぎイザベラから公爵夫人としての務めを教わりヴァルターと共に家を守っていく。
そんな未来を思い描いたこともあった。
けれどもう、それはない。
「婚約解消については、こちらからヴァレンシュタイン家へ正式に申し入れよう。愚息の過ちについても経緯を説明し、謝罪させていただく。」
ルシアンが言った。
「責任は我が家にある」
「父上!」
ヴァルターが顔を上げる。
「本当に婚約を解消するつもりですか?」
「エレオノーラ嬢が望んでいるなら必ず解消する。」
「ですが――」
「お前がこれ以上何を望むのだ?」
ルシアンの一言で、ヴァルターは黙った。
「エレオノーラ嬢との婚約を続けたい。だがアメリアも他の男には渡したくない」
「…………」
「随分と都合のいい話だな。だがそんなことは私が絶対に許さない。」
返す言葉はなかった。
「俺は……」
ヴァルターが拳を握る。
「では、アメリアの養子縁組を取り消せば――」
「それはしないわ」
ヴァルターが振り返る。
「母上?」
「アメリアはもう私たちの娘よ」
「あなたの都合で娘にして、あなたの都合で娘ではなくするの?」
穏やかな口調だったが、有無を言わせない強さがあった。
「そんなことをしたら、アメリアはどうなるの?」
「それは……」
「グラーフ公爵家の正式な養女として王家にも届け出て、社交界にも披露したのよ。今さら『息子が恋愛感情を持っていたので取り消します』なんて」
イザベラは額へ手を当てた。
「そんな恥知らずなこと、できるわけがないでしょう」
「…………」
ルシアンも頷く。
「アメリア本人がこの家を離れたいと言うなら話は別だ。だが、少なくともお前の恋愛事情だけを理由に縁組を解消するつもりはない」
「では……」
ヴァルターの顔が青ざめていく。
「アメリアは、このまま俺の妹のまま……?」
「当然だろう」
あっさりと言われた。
エレオノーラは黙ってそのやり取りを見ていた。
少しだけ不思議な気分だった。
アメリアは妹のようなものなのだから、本当に妹になればいい。ただ、それだけの事だったのに・・・
「エレオノーラ」
ヴァルターがこちらを見る。
「……君は、これでいいのか?」
「はい」
迷いはなかった。
「ヴァルター様も、これからはアメリア様のお兄様として、どうか彼女を大切になさってくださいませ」
「…………」
「セドリック様とのご縁がまとまるかは分かりませんけれど、いつか素敵な方のもとへ嫁がれる日には――」
ほんの少し考えてエレオノーラは微笑んだ。
「お兄様として、笑顔で送り出して差し上げてくださいね」
ヴァルターの顔が引きつったけれど否定することはできなかった。”アメリアは妹ではない”そう言うことも”自分は兄ではない”そう言うことももうできない。
なぜならその関係を誰よりも長く誰よりも繰り返し「妹のようなものだ」と説明してきたのはほかでもないヴァルター自身だったのだから。
それから、三か月が過ぎた。
エレオノーラとヴァルターの婚約は、双方の家の合意のもと正式に解消された。
多少の噂にはなったものの、大きな騒ぎにはならなかった。グラーフ公爵家が非を認め、ヴァレンシュタイン家へ誠実に対応したことも理由の一つだろう。
そしてエレオノーラ自身も、誰かを責めるようなことは一度もしなかった。
”ただ縁がなかった”周囲には、それだけ伝えていた。
「エレオノーラ。またお手紙が届いているわよ」
ある日の午後母から差し出された封書を見て、エレオノーラは小さく笑った。
「また、ですか?」
「ええ。今度はアルトハイム侯爵家のご次男から」
「まあ」
「先日の晩餐会で、あなたとお話しできたのがとても楽しかったそうよ」
そう言われて、エレオノーラは少しだけ頬を緩めた。
相手の青年とは、確かに先日の晩餐会で話をした。
穏やかな人物であり、エレオノーラが話している間に他の女性へ目を向けることもなく、最後まできちんと会話を聞いてくれた。
ただ、それだけのこと。
けれど今のエレオノーラには、それが少し嬉しかった。
「どうする?」
「そうですわね……」
封書を見つめる。
すぐに結婚を考える必要はないだろう。
今度はもう少しゆっくり相手がどんな人なのか、何を好きで、何を嫌い、どんなときに笑うのか。
一つずつ知っていけばいい。
「まずは、お返事を書いてみます・・・もう一度、お話ししてみたいですから」
そう答えると、母は嬉しそうに微笑んだ。
◇
その日の夕方エレオノーラは用事を済ませるため王宮を訪れていた。
そして廊下を歩いている途中。
「エレオノーラ」
久しぶりに、その声を聞いた。
振り返るとそこに立っていたのは、ヴァルターだった。
「ごきげんよう、ヴァルター様」
「……ああ」
三か月前と比べれば、少しだけ疲れているように見えた。
二人の間に短い沈黙が落ちる。
「お元気そうで何よりです」
「君も、元気そうで何よりだよ」
それだけ言って立ち去ろうとしたとき。
「待ってくれ」
「まだ、何か?」
ヴァルターは少し迷ったあと、口を開く。
「アメリアの縁談は……まだ続いている」
「そうなのですか」
「ああ」
セドリックとの話は、どうやら順調らしい。アメリア自身も最初こそ戸惑っていたものの、少しずつ相手を知ろうとしているという。
「それは良かったですわね」
「……良かった、か」
「はい」
エレオノーラは素直に頷いた。
「アメリア様がお幸せになれるのでしたら」
「…………」
ヴァルターは複雑そうな顔をした。けれど、以前のように縁談を止めようとはしていないらしい。
少なくとも兄として妹の幸せを受け入れようとしているのだろう。
「エレオノーラ」
「はい?」
「一つだけ、聞いてもいいか?」
「どうぞ」
ヴァルターは真っ直ぐに彼女を見る。
「君は……最初から分かっていたのか?」
「何をでしょう?」
「アメリアを養女にすれば、こうなることを」
エレオノーラは目を瞬いた。
「こうなる?」
「俺とアメリアが、本当の兄妹になって……俺たちが、どうにもできなくなることを」
その問いを聞いてエレオノーラは、しばらく黙っていた。
そして
「いいえ?」
本気で首を傾げた。
ヴァルターが目を見開く。
「……本当に?では、なぜ……」
「なぜ、と仰られましても」
エレオノーラは少し考えた。
何度も何度も聞いた言葉を彼女は信じた。だからこそあの提案をしたのだ。
「だってあなたは、何度もアメリア様は妹のようなものだと仰っていたではありませんか・・・ですから私は、てっきり本当の妹になれば、もっとお喜びになるものだと思っておりましたの」
ヴァルターは何も言えなかった。しばらく彼を見つめてから、エレオノーラは静かに一礼する。
「それでは、ごきげんよう。ヴァルター様」
「ああ……」
今度こそ、振り返ることなく彼の横を通り過ぎた。
もし少しでも
「続きが気になる!」
「面白かった!」
と思っていただけたら、
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それではまた次回!




