暑気払い
特区に海屋がやってきた。〝海〟を買い与えられた少女は初めて見る海に入るものの……。
情景描写が美しいじっとりとした海のお話です。2000字程度。
特区の住宅街に屋台が現れた。大きな棚の上に大小さまざまの青い球体が乗っている。屋台の動きに合わせながら、青が太陽の光を反射させて光っていた。たなびかせているのは白地に青い波が描かれた旗。
「海だよー。青くて冷たい。海だよー」
サンダル姿の男がどこからともなく表れて、特区に夏を運んできた。
特区の住人は海を見たことがない。この街には海がない。街だけではなく、郊外の向こう、離れても海に辿り着くことはない。もちろん、特区外に出れば海に行くことは可能だが、そこまでして海に行こうという住人もいなかった。多くの住人にとって、海はフィクションや図鑑に記された言葉と風景でしかない。
いつからか、夏に海屋が海を売りに来始めた。住人が海を身近に感じ始めたのはその時分からである。暑さのなかの行水は人気が出て、海屋から海を買うことはすっかり夏の風物詩になっていた。
「一個、頂戴」
のろのろと歩く海屋を引き留めて、一人の青年が海を買った。男が一人で海を購入するのは珍しい。しかし、海屋にとっては海を買うのが誰でも関係がなかった。大きい海が売れれば大儲けだ。抱えるくらいの球体を青年に渡しながら海屋が小さな紙を付け足す。
「はい。じゃあ、注意書き付けておくからね」
「ありがと」
今日は絶好の海日和だった。
『一、十分に広い場所を確保して海を割ること。二、海に入った後は必ず塩を洗い流すこと。三、あまり深くまで潜らないこと。四、あまり遠くまで泳がないこと。五、海に住む怪物には気を付けること。六、海で発生したあらゆる事象について、海屋は責任を持たないことに了承すること』
海屋の男はしばらくその場で呼び込みをしていたが、それ以上の客を得られないとわかると、屋台を引きながら次の場所へと移っていった。
***
海は本の中にある。
物語の中に表現される海は青く美しい世界がどこまでも広がっていて、水面が陽の光を受けてキラキラと輝いているらしい。その下では様々な生き物が身体をくねらせていて、汚いものはない。色とりどりの魚やサンゴや海藻。大きな生き物は優しく、歌えばみんな集まってくるのだそうだ。波打ち際では白い砂が波に翻弄され、小さな貝が顔を出す。水平線からは太陽が昇り、夕方には陽が沈み、青から赤、暗闇に星が光る空になる。
一方、図鑑の中の海では、生き物は自分の生存をかけて戦っているのが常らしい。弱肉強食。無数の生まれ行く命と数少ない生存者。大きなものは強く、小さなものは弱い。生存をかけた進化。海は広く、深く、暗い。そこで暮らせるのは一部の選ばれた種だけで、人間にとっては脅威になりえる。いくらかの魚は人間の餌になるが、果たして特区で流通する魚はどこから来るのだろうか。
特区の住人にとって、海は未知の世界だ。ぼんやりとしたイメージ。そのようなものが存在しているという知識。青く美しく凶暴なエンターテインメント。
本物を知らない──。
昼、男が球体を小脇に抱えてやってきた。遠くから見ても、大きな球体の中に揺らめき泡立つものがあるのがわかる。
「海屋が来てたから買ったんだよ」
「うみ」
ほら、お前、キラキラしたもの好きだろう、と男が言った。少女の顔前に球体を突き出す。中の水がちゃぷちゃぷと音が鳴り、青と白が混ざった。
水は青い色で表現されがちだ。コップに入った水を描けば青色が塗られ、蛇口から出る水を書けば青色が塗られ、そもそも水色という色の名はきっと水から着想を得てつけられたのだろう。水には色はついていないというのに。 図鑑の中で見た海もそうだった。鮮やかな青からやや深みのある青で表現された絵。海は水で満たされており、その水は青色で表現されるのであり、それならば海は青色なのである。本物の海の色は知らない。しかし、特区の海には青う色が付いていた。
じっと球体の中身を見ている少女の無言に焦れたらしい。
「別に僕は海なんて興味ないんだけど。海が売られるのも夏だけだしな。たまにはいいだろ」
ほとんど水の身体を持つこの水の宇宙人である男にとっては、液体は興味をそそられるものではないのかもしれない。
男が球体を空き地に放り投げると、大きな水溜まりが広がった。通常の水溜まりと違うのは、それが中央から波打ち、音を立て、そしてどこからともなくじっとりとした空気を運んできたからだ。まとわりつくような空気は商店街の魚屋のようで、雨上がりの空気とはまた違った重さだった。少し攻撃的ですらある目への刺激と、この空き地だけが涼しくなったような頬を撫でる風。海だと言われても判別がつかない。しかし、特区に来てから感じたことのない空気が少女の周りにあった。
湧いているような動きをする水溜まりの淵が白く泡立っている。振り回した炭酸水のようで、肌を突く刺激があるのだろうか。惹かれるままに海に近づくと、待て待てと男に制止を受けた。
「靴! 濡れるだろ!」
されるがまま靴下まで脱がされ、少女は素足で砂浜に立った。足裏に違和感がある。焼けるようなその感触を避けるように砂から足を離す。ステップを踏むと、男が背を押して足が動く水に触れた。
「砂浜は熱いけど、中は冷たいから」
水に足をつける。言われた通りだった。砂浜と違う感覚。しかし、普段の入浴の際の感覚とも違う。水は冷たく、動いている。動く水に足をつけていると、水の動きに合わせて砂と水が指の間を行き来した。地面が動いているような感覚に陥る。
男は海に入らないらしい。
「あんまり遠くに行くなよ」
この円形に広がった水溜まりのどこに遠くへ行けるのだろうか。男の言葉を守りつつ、少女は歩みを進めてくるぶしまで水に浸かった。時折、小さな生き物が現れては消える。これより先に行くとワンピースの裾が濡れるだろう。寄せては返す。動く水面を見るのは雨の日に貯まった水溜まりを雨粒が打っている時だけで、このように水面自体が大きく波打つのを見るのは初めてだ。物語で語られた海とも、図鑑で見た海とも違うが、特区ではきっとこれが海なのだろう。その違いに、少女に不満はない。
波は強く弱く、少女の足首を撫でた。ただ立っているだけなのに先へ先へと引き込まれそうになる。振り返ると男が遠くからこちらを見ており、砂浜から遠く離れたことがわかった。
これが海か。
なるほど、男の言う遠くに来てしまったらしい。少女は踵を返す。瞬間、波と砂に足を取られた。足が地面に付かなくなり、滑る。身体のコントロールはきかず、そのまま海に引きずり込まれた。味がする。濃い塩の味が。
誰かに足首を掴まれて、ずるりと引きずられ、気が付けば少女は波打ち際に倒れ込んでいた。髪もワンピースも濡れて肌に貼りつく。地上にいる時とは全く違う重たさを感じる。水の質量だった。泥の上に座り込んでいると、砂粒がじわじわと身体を這って侵食してくるようだ。
「遠くに行かないって言っただろ」
「近くだった」
「近くでも深いことがあるんだよ」
「深い」
海なんだから、と男が言った。
「海は本当は、広くて深いんだろ。本でしか読んだことないけど」
説明書にも書いてあったし、と話す男の姿を目で認めるのに時間を要した。目に入った水がしみて、瞼を上手く開くことができない。
「目、ぼんやりとする」
「僕だって身体がしょぼしょぼするよ」
少女が顔をあげたときには、男は塩水の中に溶けていなくなっていた。
連作短編集の人外青年少女掌編翌なき春(N4061ku)から抜粋したネームレス版です。
一話完結、もし興味を持っていただけましたら本編もよろしくお願いします。




