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9) 「ルインの血の接吻:暴君の手が地に落ちる」

エルデンハルトの朝は、いつもと同じだった。

何百回も繰り返した、変わらない朝。

煙と湿った土の匂い。

そこに、酸っぱいミルクの臭いが混じる。


アマンダはエレナと並んで洗濯物を干していた。

その動きは機械的で、身体に染み付いている。

完璧なほど、無意識に。

だが、心の中は重苦しい空虚感に支配されていた。


「まるで『グラウンドホッグ・デイ』だ。」

アマンダは心の中で呟いた。

「毎日が無意味な一歩。

地平線の向こうから、終末が顔を出すのを待ってるだけ。」


そのとき、音が響いた。

遠く、だがはっきりと。

蹄の響きだ。


それはケイランの孤独な馬の音ではない。

整然とした、鉄のようなリズム。

部隊の行進――。


アマンダは動きを止めた。

手に持った布が、だらりと垂れる。

心臓ではない。

もっと深い何か。


ヤマダ・ライトの記憶。

軍事パレードや、歴史の記録。

それらが、不安とともにざわめき始めた。


道の曲がり角から、土煙が上がった。

騎馬隊が村に飛び込んでくる。


騎馬隊は二十人ほどだった。

西の伝承に登場する、鎧でガチガチに固めた騎士ではない。

彼らは軽装鎧をまとっていた。

革製のキリムに、金属板を縫い込んだもの。

その上には、暗いワインレッドのキルティングローブ。


頭には尖ったシシャク兜。

鎖帷子のバーミツァが肩を覆う。

腰には、シンプルだが頑丈な鞘に収まった曲刀。

背中には、短く力強い弓。


彼らの顔は、高い頬骨に細く鋭い目。

ステップの風に焼かれた、厳つい表情だった。


「サルダール汗国。」

ヤマダの声が、アマンダの意識の中で囁いた。

『クロニクル』の断片的な知識を、慌ててかき集めるように。

「アルカノール帝国の属国だ。

百年前に征服された遊牧民。

だが、軍の組織は今もそのままだ。

彼らの役目は、征服地の税を集めること……

獣人の末裔の土地も含めてな。」


彼らのリーダーは、巨大な黒毛の雄馬にまたがっていた。

荒々しい力の化身そのもの。

部下たちより頭一つ背が高く、肩幅は屈強な体格でも収まりきらない。


顔には古い傷跡が刻まれていた。

一番目立つのは、左の眉を切り裂き、口の端まで伸びるもの。

ニヤリと笑うたび、禍々しい雰囲気が漂う。


漆黒の髪は複雑な三つ編みにまとめられ、銀のリングで留められていた。

鎧は一際豪華だ。

胸には金メッキの鋲が輝く。


黒炭のような目は、冷たく、無関心な捕食者の視線。

村をゆっくりと見渡した。

まるで家畜を品定めするように。



村の長老、ヨボヨボの老人が駆け寄った。

服に足を取られ、慌てた様子で。

顔は恐怖で真っ青だ。


「偉大なるノヨン様!」

長老の声は裏返り、キーキー鳴った。

「我が家に平和を! ご訪問、存じ上げず……」


「黙れ、老いぼれ犬。」

リーダーが低く、掠れた声で遮った。

まるで喉が砂と煙で擦り切れたよう。


「毎年この時期に俺たちが来るのを、てめえも知ってるはずだ。

まさか、ステップの覇王とアルカノールの皇帝に納める貢物を、

てめえのボケた頭が忘れたわけじゃねえよな?」



リーダーはゆっくり、わざとらしいほど落ち着いた態度で動いた。

長老の前の地面に、嘲るように唾を吐いた。


「税だ。」

彼の声は低く、冷たかった。

「家畜、穀物、毛皮。

決まった分を全部出すんだ。

羊一匹でも隠そうなんざ考えるなよ。

俺の部下が全部数えるからな。」



アマンダは小屋の壁に体を押し付けていた。

ルビーのような目を大きく見開く。

村を恐怖が駆け抜けた。

まるで疫病の波のように。


女たちは子供を抱えて家に隠れ、

男たちはうなだれ、拳を無力に握りしめる。


「これが……システムか。」

アマンダの頭に、凍りつくような明晰さが走った。

「本の中の抽象的な政治じゃない。

あの馬上の男、その曲刀、老人の屈辱。

これが辺境で命をすり潰す機械だ。

時計みたいに正確に動いてる。」



そして、一番恐ろしい事実。

『クロニクル』では、このサルダール汗国とその徴税人たちが、

たった数行でしか触れられていなかった。

滅びゆく世界の、ただの背景。

歪んだ者たちの手で終わる運命の、

ちっぽけな一要素でしかなかった。



エルデンハルトの住人にとって、

この男たちこそが世界の終わりだった。

今、ここで。



アマンダの視線が、ケイランの顔に落ちた。

彼は自宅の前で立っていた。

作業用のナイフの柄を、握りしめている。

指の関節が白くなるほど、強く。


いつも温かく、からかうような彼の目は、

今、純粋で抑えきれない憎悪に燃えていた。

追い詰められた獣の憎悪。



アマンダは悟った。

自分が未来の脅威を待っている間に、

本当の脅威はすでにここにあった。


そして、もし彼女が何もしなければ、

この「兄貴」はバカで英雄的なことをやらかす。

そして死ぬ。

なんの意味もなく。



彼女自身の恐怖は、突然消え去った。

代わりに、冷たく、鋭い怒りが湧き上がる。


「いや。今日じゃない。」



「貢物はいい。」

ノヨンの声が、屈辱的な静寂を切り裂いた。

大きく、響く声。

その視線は、脂ぎった独占欲に満ち、

家々の前に縮こまる少女たちを這う。


「だが、ハーンの心は別の贈り物を欲している。

彼のハーレムには、新鮮な血が必要だ。

美しい血がな。」


彼が顎で合図した。

その瞬間、まるで地獄が解き放たれた。



叫び声と哄笑が響く。

騎馬隊は馬から飛び降り、狩りを始めた。

粗野な手が少女たちの腕をつかむ。

母の抱擁から、容赦なく引き剥がす。


村は恐怖の叫び声に満たされた。

泣き声。

父親たちの獣のような咆哮。

だが、彼らは弓の柄で叩き返される。



「嫌! お願い、嫌!」

エレナがアマンダにしがみつき、泣き叫んだ。

だが、アマンダは石像のように動かなかった。


彼女の頭脳は、非人間的な速度で動いていた。

状況を分析する。

「二十人。全員武装。

抵抗すれば、村全員が死ぬ。

これは大きなミスだ。

拳で解決できる問題じゃない。

必要なのは……」


その瞬間、ノヨンの視線がアマンダに落ちた。

黒く、空虚な目が大きく見開かれる。


金色の髪。

繊細な顔立ち。

そして……ルビーのような瞳。

冷たく、非人間的な炎を宿した瞳。


欲にまみれた笑みが、ノヨンの顔から消えた。

代わりに、極上の獲物を見つけた猟師のような興味が浮かぶ。


「待て。」

彼の声が、戦士たちを凍りつかせた。



ノヨンはゆっくり、まるで舞台の上で演じるように鞍から降りた。

長老オルヴィンを、うざったい犬でも払うように突き飛ばす。

重いブーツが地面を鈍く叩く。

アマンダたちに近づいてくる。



アマンダは一歩も引かなかった。

ノヨンをじっと見つめる。

そこに恐怖はなかった。

ただ、凍てつくような軽蔑だけ。


検事が見ず知らずのチンピラを蔑むような目。


ノヨンは傷だらけのゴツゴツした手を伸ばした。

アマンダの顎をつかみ、下を向かせようとする。


「こいつは……」

彼の声が低くなり、親密さを帯びた。

それが、かえって恐怖を煽る。

「俺の個人的な獲物だ。」


彼の指が、彼女の肌に触れそうになった。



世界がスローモーションに変わった。


アマンダは横でぼんやりした動きを捉えた。

鈍い鋼の輝きが閃く。

奇妙な、湿った音。

熟したスイカを割るような、グシャリという音。


温かく、べたつく何かが彼女の顔に飛び散った。

ルビーの瞳の一つが、赤いベールで覆われる。



ノヨンが凍りついた。

彼女に触れかけた手が、空中で止まる。

彼は困惑した顔で下を見た。


そこには、埃っぽい地面に、

彼自身の右手が転がっていた。

まだ半分握られた拳のまま。


一瞬、完全な静寂が訪れた。

すぐに、切り株から真っ赤な血が噴水のように噴き出した。


ノヨンは痛みで叫ばなかった。

最初に出たのは、短く、困惑した小さなうめき声。

子犬の足を踏まれたような、情けない音。


だが、脳が事態を処理し終えると、

彼は絶叫した。

野蛮な咆哮ではなく、

高く、ヒステリックな叫び声。

動物的な恐怖と、信じられない思いに満ちていた。


この地の生と死を支配する、

偉大なノヨンが、

傷つけられたのだ。

屈辱を受けたのだ。



血を流しながら、彼は呻き声を上げた。

地面に倒れ込む。

まるで虫のよう。


ぎこちなく、肘と膝で這いながら、

自分の馬へと向かう。

地面に、真っ赤な血の跡を残して。



「殺せ!」

血と怒りで喉を詰まらせ、喘ぐように叫んだ。

鐙にしがみつく。

「全員殺せ!

この村を焼き払え!

みんなくそくらえ! 全員だ!」


アマンダは動けなかった。

肌に温かく、べたつく血の感触。

足元に転がる、切り落とされた手。

耳に響く、非人間的な叫び声。


いつも鋭い彼女の頭脳が、

拒否するように停止した。

これは歴史の教科書じゃない。

肉だ。痛みだ。死だ。



目の前で、ケイランが荒々しく息をしていた。

手に握られたのは、血に濡れた薪割りの斧。

普段は開けっぴろげな彼の顔が、

原始的な怒りの仮面に歪んでいる。


だが、彼女と目が合った瞬間、

その瞳に閃いたのは痛みではない。

運命を受け入れた殺人者の、

冷たく、鋼のような決意だった。


「逃げろ。」

彼の声は掠れていた。

その一言に、

彼の愛全部、絶望全部、命令全部が詰まっていた。

「逃げろ、アマンダ!」



その叫びが、

ようやく彼女を呆然から引きずり出した。


村はカオスに飲まれた。

戦士たちの抜き放たれた曲刀が、

陽光にキラキラと輝く。

もう失うものがないと悟った男たちの咆哮。

近くの家の藁葺き屋根に、

すでに火が上がっていた。


虐殺が始まった。

その最初の火花は、

彼女自身の美貌と、

兄の猛烈な怒りだった。

この未知なる物語の旅路に、

「ブックマーク」という道標を頂けますと幸いです。


そして、もしその旅が少しでも貴方の心に響いたなら、

「5点評価」という最大の賛辞を賜りたく。


何卒、宜しくお願い申し上げます。

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