76) 星墜帝に跪いた手
一時間後。
アイヘンヴァルト宮殿・石柱の間。
祝宴のシャンデリアは消え、太い蝋燭が数十本、ざわめく炎を揺らしている。
蝋と汗と革、そして張り詰めた空気が絡み合う。
巨大な樫のテーブルに、北辺境の詳細地図が広げられていた。
上座──タイヴィン・アイヘンヴァルト公爵。顔は花崗岩のように硬い。
右手にランデル。野戦用の詰襟に着替え、包帯の腕をテーブルに置いたまま鋭い視線を走らせる。
左手──ロクサナ。紅の瞳が冷たく地図を這う。
周囲には歴戦の将軍たち。頬の傷が無言の勲章だ。
少し離れた場所に、アマンダ。
深緑のドレスに黒マントを羽織り、仮面で顔を隠している。
けれど背筋の緊張は隠せない。
「……確認された」
老将軍の一人が骨ばった指で地図を突いた。
「氷涙の小川で斥候部隊がグル=ナダルの先鋒と接触。
動きに乱れはない。完全に組織的な進軍だ。
グル=ナダルは鉄の規律を保っている」
別の将軍が灰色の口髭を震わせる。
「リンネ領は焼き払われた。
生き残りが我が国境へ殺到している。
門を開ければグル=ナダルの軍勢も雪崩れ込む。
閉ざせば民の心は離れる」
重い沈黙が落ちた。
「選択肢なんてない」
ロクサナの声は氷の刃だった。
「難民は受け入れる。
ただし厳重な検問を通した通路だけ。一人残らず調べる。
スパイが紛れ込んでいる可能性がある」
「必要なのは資源。食料、薬、鋼。そして時間。
あの軍勢はでかいが動きは鈍重。泥沼に引きずり込めばいい」
「泥沼ってどこだよ」
ランデルが地図を指で突く。
「巨人の落涙峡谷。北から来る唯一の太い動脈。
俺たちが先に塞いで固めちまえば……」
「無茶だ」老将軍が唸る。
「突破されたら背後を取られる。あるいは迂回路を探されるか……」
「迂回路は、ない」
静かで、しかし確かな声。
アマンダが初めて口を開いた。
全員の視線が一斉に彼女へ。
機械的な仮面の声が軍議の空気を切り裂く。
「東の森は……古の木々が怒る。あれだけの数と獣を通さない。
西の永遠囁き沼。大地は裏切る。マンモスすら胸まで沈む」
「確か?」
「感じる」
アマンダは短く答えた。
「峡谷だけが最短ルート。必ず、そこを突っ込んでくる」
タイヴィンがゆっくりと頷いた。
「──決まった。賭けだが、やるしかない」
「ランデル。お前が峡谷の守りを預かる。鋼鉄橡の軍団と南部都市の義勇兵を率いてくれ」
「ロクサナは兵站と国内反諜報を」
「俺は他境界線と他家との交渉を進める」
「使者はすでに帝都へ走っている。だが緋霜帝国からの援軍は早くても一月後だ。……来るかどうかもわからん」
その時、静かに扉が開いた。
カエレンが入ってきた。完璧な身形。だが表情は硬い。
「失礼いたします、公爵閣下」
軽く頭を下げる。
「貴殿の急報は帝都にも届きました。我々の独自ルートでも情報は確認済みです。
規模が……かなり厄介です」
カエレンは言葉を選びながら続けた。
「緋霜皇帝陛下は深い憂慮を表明されております」
「しかしこの距離での即時軍団展開は難しい」
一拍置いて。
「代わりに、別の形での支援を」
「鷲衛星によるグル=ナダル大軍の詳細移動図」
「そして……魔導砲兵の限定派遣を約束されました」
俺は拳を握りしめた。
(一月後じゃ遅すぎる。“限定”ってのが引っかかる。本気で助ける気があるのか?)
「条件は?」ロクサナが鋭く切り込んだ。
カエレンの口角がわずかに上がる。
「将来の互恵的な協力関係」
「砲を扱う技師の安全保障」
「それと当然──」
視線がアマンダに滑った。
「この地域における帝国の利益を、ちゃんと考慮していただけるという確約」
ランデルが拳を軋ませた。
タイヴィンは無表情で頷いた。
「条件は検討する。砲は五日以内に峡谷へ」
「全力で急ぎます」
カエレンは会釈して去った。
残ったのは重い沈黙だけ。
視線が一斉にアマンダに集まる。
ランデルが近づいた。
「峡谷……お前が言ってたよな。森はあいつらを通さないって」
「できるか? 少しでもいい。遅らせる。惑わせる。足止めする」
「……やってみる」
アマンダが踵を返す。マントが舞い、燭台の影が狂ったように揺れた。
「森は私がやる」
靴音が響く。
「待て!」
ランデルが腕を掴む。強く、でも震えていた。
「一人で行く気か? 護衛もなしで? 正気か!」
「離せ!!」
喉が裂けるような絶叫。
ビクリと振り払う。ランデルの指は簡単に開いた。
「何もわかってない! 何も!!」
「お前はただ体を見て、肩書きを聞いて、私がわかったつもりになってるだけだろ!」
「短い、惨めな人間の人生しか知らないくせに!」
「私が何千年も背負ってきたものに比べたら、お前の戦争も恐怖も執着も、塵だ!!」
そして、頭の奥で完璧な計画が閃いた。
これで誰も近づけなくなる。
これで、すべてに明確な宣告を下せる。
アマンダは背筋を伸ばす。
まるで一瞬で背丈が伸びたように見えた。
ゆっくりと振り返り、
ランデルを見下ろし、
そしてカエレンに届くよう、はっきりと告げた。
「よく聞きなさい、小僧」
声が重なる。千年の残響が同時に鳴る。
「この手を、開国の祖“星墜帝”が土下座して口づけたことがある。
永遠の冬の門で、魔の雪崩を二人で止めた、あの時の手よ」
誰かが悲鳴を漏らした。
タイヴィンでさえ顔色を失う。
カエレンは完全に姿勢を崩し、目を見開いた。
「この山がまだ丘だった頃、私はドワーフと角杯を傾けた。
グル=ナダルの先祖が原初の泥の中で蠢いていた頃、私は竜に葬送曲を歌ってやった」
「私の戦争は“時代”で数える」
「それなのに──
お前ごときが、この腕を掴む?
私の行く末を指図する?」
そして、ゆっくりと、静かに、
カエレンに向かって告げる。
「影よ。お前の主に伝えておきなさい」
「“紫暁の玉座”は、私が埋めた屍の上でしか輝かん」
「もしその小賢しい皇帝が、私の記憶の前で踊れると思っているなら──
すぐに、骨の味を教えてやるわ」
言い終えると、振り返りもせず、堂々と歩き去る。
靴音ひとつ立てず。
重い扉が静かに閉まった。
残ったのは、燭台の火がパチパチ鳴る音だけ。
ランデルは崩れるように椅子に腰を落とす。
顔は灰色だった。
ロクサナが震える声で呟いた。
「……お父様。もし本当なら……彼女の価値は」
「危険度は」
タイヴィンが、閉じた扉を見つめたまま答えた。
「計り知れない」
(アマンダ……お前、本当に……)
(俺が知ってたのは、表層の欠片だけだったんだな)
(もう、届かない)




