73) 鏡の迷宮と叫びの夜
ランデルは、俺の手を強く握っていた。
いや、引っ張るんじゃなくて、ほとんど引きずる勢いで。
足取りは速い。
振り返ることもなく、ただ前へ前へ。
使用人たちの丁寧なお辞儀も、貴族たちの驚いた視線も、まるで無視だ。
まるで嵐が通る道を裂くように、人々は自然と道を開ける。
心臓が喉まで飛び出しそうになる。
必死で彼の後を追うしかなかった。
エメラルド色のドレスが大理石の床を擦り、シャリシャリと音を立てる。
(……どこへ連れて行くつもり?
誰も見ていない暗い部屋か、それとも寝室か……)
違った。
ランデルが勢いよく開けた扉の向こう。
そこに広がっていたのは、長く細い鏡の回廊――「鏡の間」。
磨き上げられた鏡が何百枚も並び、
俺たちの姿を無限に映し出す。
緊張が幾重にも重なり、息が詰まる。
高いアーチ窓から差し込む月光が、
闇の中で二人のシルエットを切り取り、
夢のようで、不気味な絵を描いていた。
バンッ!!
扉が閉まる音。
天井のシャンデリアがキンキンと鳴る。
ランデルが手を離す。
一歩下がって、ようやく俺を見た。
胸が激しく上下する。
瞳の奥に、これまで抑え込んでいた嵐が解き放たれている。
「全部話せよ」
低く掠れた声。
感情が喉を灼いている。
――敬称なんてない。
あるのは痛みと要求だけ。
俺は後ずさる。
背中が冷たい鏡にぶつかる。
無数のランデルが、
四方八方から俺を睨む。
傷つき、怒り、問い詰める視線。
「わ、私は……何のことを……」
かろうじて絞り出す言葉。
まだ役を演じようとしている。
溺れる者が藁を掴むように。
「ふざけんな!!」
ドンッ!
頭のすぐ横、鏡の壁に拳が叩きつけられる。
鏡は震えたが、割れなかった。
包帯を巻いた右手。
拳を握ったせいで、白布に赤い染みがポタリ、ポタリと滲む。
「お前は俺と一緒にいた!
俺のこと、あの目で見てただろ……!」
言葉が詰まり、喉が鳴る。
「なのに、なんであいつの手を握った!?
あいつに触らせた!?
一緒に踊らせた!?
耳元で囁かれて……俺は見てたんだぞ!!」
(……やばい、本気で壊れる)
「今すぐ吐け!!」
鏡の向こうのランデルたちも、
全員が同じことを叫んでいる。
心臓が、引き裂かれるように痛む。
叫びが鏡の迷宮の奥深くまで響き渡る。
痛みと怒りの掠れ声が、無限に反響して俺を追い詰める。
俺は肩をすくめる。
自分の嘘が、喉を締めつける。
「……彼は、ただ面白い話し相手で……」
弱々しい言い訳。
「面白い?」
ランデルが乾いた笑いを漏らす。
「カエランが?
あの男はビロードの手袋に包まれた毒だ。
内側から腐らせていくタイプだぞ。
お前ほど賢い女が……それが見えないはずない。
それとも」
声が刃のように鋭くなる。
「見えてるのか?
惹かれるのか?
陰謀とか、危険とか。
俺みたいな正直な兵士じゃ物足りないってことか?」
一歩、また一歩。
距離が詰まる。
熱い。
血とワインの匂いが鼻をくすぐる。
「俺はお前のために命だって投げ出す。
お前がここで安心して暮らせるように、全部捨てた。
なのに、お前は……二人を焼き尽くす火と遊んでる!
せめて……何かくれよ。
俺がお前を呼べる名前を……一滴でもいい、本当のことを!」
(名前……)
頭の中で、言葉が跳ねる。
(本当の名前はあげられない。
でも、別の名前なら……
もう一枚の盾、もう一つの伝説にできる)
涙が勝手に溢れた。
本物の、熱くて苦い涙が頬を伝う。
彼の痛みに歪んだ顔を見ると、
自分の痛みも、恐怖も、孤独も、堰を切ったように溢れ出す。
「……ごめん」
掠れた声。
「あなたが正しい。
私……火と遊んでる。
だって、怖いから」
震える唇。
「怖いんだよ……
あなたのことが」
鏡の中の無数の俺たちが、
全員同時に息を呑む。
彼は凍りついた。
「俺を……怖がってる?」
「近すぎるの、ランデル」
掠れた、絶望に濡れた囁き。
「あなたは……あまりにも本物すぎて。
私……」
目を閉じる。
顔の仮面が、鉛のように重い。
「もう忘れちゃった。
ただの人間でいること。
名前があって、過去があって、怖がっていいってこと……」
震える手が、ゆっくり頬に伸びる。
こめかみの奥、隠し留め具を探る指。
ランデルは息を殺す。
視線が釘付けになる。
あの夜、庭で見た顔とは違う。
今は、自ら魂を剥き出しにする儀式だ。
カチリ。
小さな音。
仮面が石の床に落ちる。
鈍く澄んだ金属の残響。
――また、見えた。
涙でぐしゃぐしゃの、剥き出しの顔。
でも神の遠さは瞳にない。
ただ怯え、痛がっている、ただの女の子。
「……エリア」
息のように零れた。
最初に綺麗に響いた名前。
自分で作った、存在しない過去の残響みたいに。
「私の名前……エリア」
ほとんど聞こえない声。
魂の底から無理やり絞り出した告白。
信頼。
鏡の向こうの無数のランデルが、
全員同時に息を呑み、膝を震わせる。
ランデルも息を呑む。
肩に置いていた手が、ふっと力を失って滑り落ちる。
怒りと憤りが、瞳の奥から溶けるように消えた。
代わりに浮かんだのは、震えるような、痛みを孕んだ優しさ。
本当の名前かどうかはわからない。
でもその一語を口にするのに、どれだけの覚悟を要したか、痛いほど伝わる。
「……エリア」
もう一度呼ぶ。
壊れやすい聖遺物に触れるみたいに、畏敬を込めて。
震える指先が、涙で濡れた頬にそっと触れる。
塩の跡を優しく撫でる。
「なんで……俺を怖がるんだ?」
「だって、あなたは私に“感じさせる”から」
彼女は目を合わせない。
視線は遠くの虚空に逃げたまま。
「感じちゃダメなのに。
感じたら……いけないのに。
それは危険すぎる。
あなたにとっても、私にとっても、全部に」
ランデルはただ見つめる。
途方もなく強く、でも脆い女の子を。
エリアという名前の。
すべてが繋がった。
冷たく突き放す態度。
必死に距離を取ろうとする仕草。
あれは遊びなんかじゃない。
守るためだった。
自分たちを、もっと恐ろしい何かから守るための、必死の防壁だった。
だから、もう何も聞かない。
なぜ危険なのか、なんて訊かない。
もっと先を求めたりもしない。
今は、これで十分だ。
彼女が、偽りでも本当でも、
自分の“名前”と“痛み”を、俺に預けてくれた。
それだけで十分だった。
鏡の向こうの無数のランデルが、
全員同時に静かに目を伏せる。
【読者の皆さんへの質問】
熱狂的なランデル公爵の感情的な爆発についてどう思いますか?
彼は貴族のカノン(冷静でクールなキャラ)を壊しすぎですか? それとも、彼の激情が逆に魅力ですか?
彼の「狂気」がアマンダ(エリア)の仮面を砕いたラストシーン、胸に刺さりましたか? それとも…もっと冷静な方が良かった?
意見を聞かせてください!




