71) 嫉妬が胸を喰らう夜
舞踏会の会場は、まだ興奮冷めやらぬ客たちでごった返していた。疲れてるはずなのに、誰も席を立とうとしない。まるで掻き乱された蜂の巣みたいに、ざわめきが渦を巻いてる。
空気は噂で重い。当然、話題の中心は、あの人。
テラスへ消えた彼女の姿を、誰も見逃さなかった。ちらちらと扉の方に視線を投げる貴族たち。いつ戻ってくるか、息を潜めて待ってる。
ランデルは、跡継ぎ連中の輪の中にいた。でも、心はここにない。何度も何度も、あの扉ばかり見てしまう。妙な胸騒ぎがする。
さっきの、彼女の無言の拒絶が、まだ胸の奥に小さな棘みたいに刺さったままだ。
(……なんで、あんな顔されたんだ?)
そのときだった。
扉が、ゆっくりと開いた。
最初に目に入ったのは、見慣れたエメラルドグリーンのドレス。アマンダだ。
でも、どこか違う。
いつも凛と背筋を伸ばして、誰にも隙を見せない彼女の姿勢が……少しだけ、柔らかくなってる?
いや、違う。もっと、誰かに寄り添うような、自然な角度で。
そして、次の瞬間。
会場中の視線が、一斉に下へ滑った。
息を呑む音が、波のように広がる。
彼女の細い指が、誰かの肘にそっと置かれていた。
しかも、それはランデルの腕じゃない。
黒の仮面を着けた、優雅で危険な雰囲気の男。
帝国からの使者、カエラン卿。
彼は、まるで自分のものだと言わんばかりの、余裕たっぷりの笑みを浮かべながら、彼女をエスコートして歩いてくる。
ゆっくりと、堂々と。
黒と深々と、深緑が寄り添う。
そのコントラストが、痛いほど美しくて、痛いほど挑発的で。
(……は?)
ランデルの頭が、真っ白になった。
会場が、一瞬で静まり返る。
そして、次の瞬間。
ざわめきが、爆発した。
「まさか、あの氷の公女が腕を組むなんて……!」
「ちょっと待って、ありえないでしょ!?」
(ちょっと待てよ……なんで? なんであいつと……!?)
ランデルの胸の奥で、何かが、ぎりっと音を立てて軋んだ。
棘が、深く深く、肉を抉るように突き刺さる。
(俺の、はずだったのに……)
カエランは、仮面の奥で、確かに笑っていた。
まるで、会場中の視線を全部食らってやると言わんばかりに。
そして、アマンダは。
彼女は、ただ静かに微笑んで、彼の隣を歩いていた。
その横顔が、いつもよりずっと、ずっと綺麗で。
(……やばい)
ランデルの心臓が、激しく鳴り始めた。
嫉妬って、こんなに苦しいものだったっけ。
まるで、胸の奥に火を灯されたみたいに、熱くて、痛くて、息ができない。
(くそっ……!)
彼は、無意識に拳を握りしめていた。
爪が掌に食い込むほど、強く。
このまま、見てるだけじゃ終われない。
絶対に、取り戻す。
あの笑顔を、あの指を、あの全てを。
俺のものにするって、決めたんだから。
会場が、凍りついた。
ざわめきが、一瞬で消えた。
次の瞬間、抑えきれない吐息と小さな悲鳴が、ぽつり、ぽつりとこぼれ始める。
目を見開く者。
口をあんぐり開ける者。
信じられない、という顔で固まる者。
ヒカリ・ツバメが、兄の袖をぎゅっと掴んだ。
「カイト兄様……あ、あの人……帝国の人だよ!?」
カイト・ツバメは答えられない。
いつも皮肉げに吊り上がっていた口元が、今はただ虚ろに開いたまま。
仮面の奥の瞳が、信じられないものでも見るように揺れる。
花咲さゆりは、扇子で口元を隠しながら、目をキラキラさせていた。
「きゃーっ! スキャンダル! 最高に美味しいスキャンダルよぉ!!
アインハルト家の至宝と、帝国の暗部……! もうたまらないわ!」
隣で、レン・ジンジャが真っ青になった。
普段は冷静沈着、どんな状況でも計算を回す秀才の頭脳が、今は完全にフリーズしてる。
(これは……外交問題だ。
いや、戦争の火種になりかねない。
でも、でも……
なぜ? なぜ彼女が、あの男の腕を……!?)
頭が、真っ白。
計算が、まったく回らない。
会場の空気が、どんどん熱を帯びていく。
誰もが、息を殺して二人を見つめている。
まるで、次の瞬間、世界がひっくり返るのを待っているみたいに。
そして、誰もが同じことを思っていた。
これは、ただのダンスじゃない。
これは、宣戦布告だ。
だが、一番激しく、一番深く、魂ごと砕かれたような反応を見せたのは。
ランデル・フォン・アイヒェンヴァルドだった。
その場に、凍りついた。
顔から血の気が引いていくのが、自分でもわかった。
大理石みたいに真っ白になって、息すら忘れる。
視線は、ただ一か所に釘付け。
彼女の白い指が、あの男の肘に載っている場所に。
怒りじゃない。
嫉妬とも、少し違う。
ただ、底なしの衝撃。
裏切られた獣が感じるような、原始的な、身を引き裂かれるような衝撃。
二人が近づいてくる。
カエランが、仮面の奥から彼女の耳元に何かを囁く。
アマンダの横顔が、ほんの少しだけ、そっちを向く。
その、たった一瞬の仕草。
たった一滴の注意を、他人の男に与えたこと。
それが、ランデルの胸を、どんな剣よりも鋭く貫いた。
握っていたワイングラスに、力がこもる。
指。
骨がきしむほど、強く。
次の瞬間。
パキィンッ!!
甲高い音が、銃声みたいに会場に響いた。
細いクリスタルが、粉々に砕ける。
赤いワインと、赤い血が、指の間から滴り落ちる。
欠片が、床にジャラジャラと散っていく。
ざわめきが、一瞬で彼に集中する。
驚きと、怯えた好奇心が入り混じった視線。
でも、ランデルは自分の手を見ない。
痛みなんて、感じない。
ただの麻痺。
彼が見ているのは、彼女だけ。
息が荒い。
胸が、激しく上下する。
いつも澄んでいた瞳に、今は嵐が吹き荒れている。
信じられない。
痛い。
そして、何か、獣じみた、抑えきれないものが、奥底で咆哮し始めていた。
(……なんで、だよ)
喉の奥で、掠れた声が漏れる。
誰も聞こえなかった。
(俺の、はずだったのに……)
血が、ぽたぽたと床に落ちる。
赤い滴が、白い大理石に、小さな花を咲かせていく。
それでも、彼は一歩も動けない。
ただ、彼女を見つめるだけ。
まるで、このまま世界が終わってもいいとでも言うように。
鋭い破砕音に、二人が足を止めた。
アマンダが、振り返る。
その瞬間、視線が絡まる。
ランデルの瞳に、全部映っていた。
衝撃。
痛み。
そして、答えを求める、声にならない問い。
彼女の胸の奥で、何かがきゅっと縮んだ。
冷たくて、怖くて、息が詰まるような塊。
(……ごめん)
でも、もう遅い。
彼女は自分で選んだ。
危険でも、ルールがはっきりしてるゲームの方を。
彼がくれた、温かくて、でも恐ろしいほどの不確かなものを、逃げ出すために。
だから。
ゆっくりと、視線を外した。
その、たったそれだけの仕草。
それが、ランデルにとって最後の、一滴だった。
彼は急に背を向けた。
呆然と立ち尽くす従者のトレイを薙ぎ払い、
一言も発さず、出口へ向かって歩き出す。
大理石の上に、ぽたり、ぽたり、と赤い跡を残しながら。
会場は、水を打ったように静まり返った。
カエランが、そっと彼女の手を握りしめた。
「ふふ……大成功みたいだね」
仮面の奥で、満足げに笑いながら、耳元で囁く。
アマンダは小さく頷いた。
声が出ない。
勝った。
完璧に、計算通りに距離を取った。
なのに。
なぜ、胸の奥がこんなに重いんだろう。
遠ざかっていく彼の背中が、
暗闇に溶けていくそのシルエットが、
まるでナイフみたいに心を抉る。
(これで……いいはずなのに)
完璧に役を演じきったはずなのに。
どうして、こんなに。
まるで、自分の人生で一番大きな、取り返しのつかないミスを犯したような気がするんだろう。
頬を伝う熱いものが、
涙だって気づく前に、
彼女は唇を噛みしめた。
会場のざわめきが、再び遠くで湧き上がる。
でも、もう誰の声も届かない。
ただ、あの背中だけが、
胸の奥に焼き付いて、離れない。
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