7)「妹の仮面」
アマンダの心は、恐怖と計算が絡み合った蜘蛛の巣を編んでいた。
強靭で、複雑な巣。
未来を知ることは、盾なんかじゃない。
重く、毒にまみれた刃だ。
握り潰せず、捨てられない刃。
彼女は目を閉じ、偉大な家系の都を思い浮かべた。
白い大理石がキラキラ輝く場所。
今、そこではきっと、王国の運命を決める陰謀が渦巻いている。
なのに、彼女はここにいる。
世界の埃っぽい辺境。
たった一匹のヤギと、壊れた柵しかない場所だ。
「アニメのヒロインみたいな振る舞いなんて、バカげてるよね。」
アマンダは心の中で苦笑した。
その笑みには、彼女の置かれた状況の苦さが滲んでいた。
「ここには、運を都合よく操る脚本家なんていない。」
彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。
「あるのは、飢えと病気。
そして、ただの馬鹿げた偶然だけ。」
未来の知識が彼女を苛む。
この大陸が、歪んだ者たちに喰われる運命だと知っている。
でも、それはまるで、氷河期の到来を知るアリと同じだ。
無意味で、ただ苦しいだけ。
「いっそ、この村に留まる方がいいのかも。」
彼女は静かに思った。
「今のまま、ダラダラ生きていく方が…マシかもね。」
風がアマンダの金色の髪をそっと揺らした。
その瞬間、背後からかすかな音が響く。
枝が折れる、パキッという音。
誰かが忍び寄っていた。
その足取りは、まるで狩人のように巧みだ。
アマンダはピクリとも動かなかった。
研ぎ澄まされた感覚が、すでに気配を捉えていた。
幾月もの警戒心に満ちた生活。
その中で磨かれた、新しい直感。
足音は聞き覚えのあるものだった。
重々しく、だが慎重。
昔の太ももの怪我からくる、わずかな跛行。
突然、力強い手が彼女の肩に置かれた。
ゴツゴツした、大きな手。
背後から、低く満足げな唸り声。
まるで驚かせようとする、遊び心のある響き。
アマンダはビクともしなかった。
ゆっくりと、細い手を上げる。
彼の粗々しい指に、そっと重ねた。
その触れ方は、羽のように軽やか。
目を閉じ、唇に微笑みが浮かぶ。
鏡の前で何度も練習した、純粋で姉らしい微笑み。
「いい加減、大人にならない、弟?」
彼女の声は穏やかだった。
愛情たっぷりの、軽い叱責を込めて。
その言葉は、静かな森に柔らかく響いた。
肩に置かれた手が、一瞬だけ固まった。
すぐにその持ち主は、大きなため息をつく。
苔の上に、ドサッと座り込む。
それはカエランだった。
アマンダの「兄貴」。
背が高く、肩幅の広い男。
くしゃくしゃの栗色の髪。
温かみのある、だがどこかからかうような茶色の瞳。
その瞳には、いつでも行動を起こす準備が潜んでいる。
「くそっ、アマンダ。」
彼はぶつぶつ言った。
だが、その声に怒りはなかった。
いつものイラつきと、ほっとした気持ち。
それが混ざっているだけだ。
「お前、絶対ビビらないよな。絶対。
女の子としてそれ、ちょっと不自然じゃね?」
アマンダは湖を見つめた。
軽快に、言葉を切り返す。
「そりゃ、怪我したトロルみたいにドスドス歩く兄貴がいるからね。」
彼は鼻を鳴らした。
その肩は温かく、心地よい。
アマンダの肩に触れる、大きな手。
カエラン。
彼の名だ。
半年前、彼女が「目覚める」前。
カエランは死にかけの妹のために奔走した。
大陸の半分を、老いぼれ馬で駆けずり回る。
医者を探して。
だが、連れ帰ったのは怪しげなインチキ医者。
貯金は全て使い果たした。
家に帰ると、そこにいたのは…
死にかけの妹ではなかった。
見ず知らずの「アマンダ」。
生き延びた、だが「記憶を失った」アマンダ。
最初の数週間は地獄だった。
カエランの目は疑いに満ちていた。
その視線は、叫び出したくなるほど鋭い。
彼は彼女を試した。
昔のあだ名を、わざとポロリと口にする。
彼女がかつて愛した、木彫り用のナイフ。
それを、わざと目につく場所に置く。
だが、アマンダは生き残るためなら何でもする。
彼女は、めっちゃいい役者になれる。
ヤマダ・ライトの魂が、そうさせた。
彼女は仕草を真似た。
ここの方言を、完璧にモノにした。
そして、心からの感謝の気持ち。
魂から溢れる、純粋な想い。
それが、カエランの心の氷を溶かした。
今、彼は彼女の一番の守護者だ。
だが、同時に、最大の裏切りの生き証人でもある。
彼女は彼の妹を奪った。
この体に宿る愛は、本当は別の誰かのもの。
なのに、アマンダがその愛を生きている。
「何考えてんだ、妹よ?」
カエランが湖に小石を投げた。
完璧な水面が、波紋で乱れる。
彼の声は軽やかだが、どこか探るような響き。
「また世界の運命でも背負ってんのか?
お前、まるで天の重さを全部肩に載せてるみたいな顔してんな。」
アマンダは心の中で呟いた。
*ただ、別の誰かの人生の重さだよ、兄貴。*
*そして、この世界が滅びるって知ってる重さ。*
だが、彼女は現実的な話題に切り替えた。
「古い柵のとこで、南の根菜を植えてみたらどうかなって考えてただけ。」
彼女の声は穏やかで、わざと軽く。
「あの辺、砂っぽい土だから、根菜には合うと思うんだ。
収穫もいい感じになるかもよ。」
カエランが彼女の方を向いた。
その目は、急に鋭く、真剣になる。
「商人たちが話してたんだけどさ。」
彼は声を潜めた。
「東の、鷹の爪の領地で何か変なことが起きてるって。
キャラバンへの襲撃があるらしい。
…妙な襲撃だ。
人々が、頭がおかしくなるって話だよ。」
アマンダは首を振った。
「ただの噂だよ、カエラン。
退屈だからって、人は何でも信じちゃうんだから。」
カエランは彼女から目を離さない。
「かもな。」
彼の声は低く、探るような響き。
「でも、最近のお前の『適当な』アイデア——
北の井戸のこととか、塩の備蓄とか——
それが俺たちをでかいトラブルから救ってくれた。
母さんは言うよ。
神様がお前を特別な力と一緒に戻してくれたって。
俺は…ただ、お前が生きててくれて嬉しいよ。
どんなお前でもな。」
その言葉は、どんな叱責よりも強く響いた。
アマンダの心を、鋭く突き刺す。
彼女は目を逸らした。
ルビーのような瞳に、罪悪感が映らないように。
パニックが、溢れ出さないように。
「家に帰ろう。」
彼女は静かに言った。
ゆっくりと立ち上がる。
「母さん、待ってるよ、きっと。」
カエランも立ち上がった。
その大きな影が、彼女をすっぽり覆う。
彼はこの世界での彼女の盾だった。
そして、彼女の最大の弱点でもあった。
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