69) 仮面と仮面の狭間
舞踏会のホールは、甘ったるい香水とざわめきで重く沈んでいた。
視線が刺さる。笑い声が絡みつく。
どれもこれも、全部――アマンダの噂だ。
息が詰まる。
(……だめ、少しだけ、逃げたい)
視線を上げると、ランデルがすぐに動こうとした。
いつも通り、守る気満々の顔だ。
アマンダは、小さく手を上げた。
拒絶ではない。
「待て」と告げる、静かな命令。
金糸の刺繍が施された手袋の指先が、ふわりと宙で止まり、ゆっくり下ろされた。
ランデルの足が、ぴたりと止まる。
(……なんでだよ)
胸に、小さな棘が刺さった。
いつもなら、彼女は俺を拒まないのに。
アマンダは振り返らず、流れるようにテラスへ向かった。
エメラルドグリーンのドレスが夜へ溶けていく。
……俺は、見ているしかできねえのか。
***
テラスに出ると、ひんやりした空気が頬を撫でた。
月光が石畳を白く染める。
(……はぁ)
深く息を吸い込む。
やっと、仮面を外せる。
アマンダは手すりに身を預け、そっと目を閉じた。
風が髪を揺らし、こめかみを優しく撫でる。
(ここなら……ただの“アマンダ”でいられる)
胸の奥で張っていた糸が、少しだけ緩んだ。
月光が横顔を照らす。
儚くて、壊れてしまいそうなほど静かな光だった。
風がまた頬に触れた。
今度は、もっと優しく。
だが――その静寂は、一瞬で破られた。
「祝宴の真っ最中に、こんな素敵な独り占めスポットを見つけるなんて……才能だね、レディ」
艶やかで、絡みつくような声。
アマンダは振り返った。
――息が詰まる。
テラスの入口に、男が立っていた。
帝国式の完璧なテーラード。
濃紺に近いダークグレー。銀糸が月光を受けて妖しく光る。
すらりとした体躯。猫科の獣のような優雅さ。
そして何より、顔の上半分を覆う黒檀の仮面。
(……嘘でしょ?)
記憶が弾ける。
――ロード・カエレン。
皇帝の影。最高の諜報官。陰謀の達人。
原作ではロクサーナの“伴侶”ルートに食い込む危険人物。
(やばい……やばいって……!)
心臓の鼓動を抑え込み、アマンダは平静を装う。
「ロード・カエレン」
声は、驚きひとつ混じらない。
(知ってるなんて、絶対に悟られちゃだめ)
カエレンは首を傾け、深く一礼した。
猫が獲物を前に腰を落とすような、しなやかな動き。
「お目にかかれて光栄です、守護者の姫君」
「僕のような名が、あなたの耳に届いているなんて……夢にも思わなかった」
「噂と影は、どこにでも入り込むものよ」
アマンダは静かに返す。
「廃れた森の奥だって、ね」
「ははっ。やっぱりお耳が早い」
カエレンは数歩、音もなく近づく。
「ですが、あなたの領分に入り込める影なんて、存在しないと信じていますよ」
仮面の奥の瞳が、魂の奥まで覗き込もうとする。
「今夜の登場……見事でした」
「ワイングラスを浮かべるなんて。普通なら塔の一つでも爆破して力を誇示するところですよ」
「あなたは、優雅な方法を選んだ。それが逆に、恐ろしい」
アマンダは月を見上げた。
「力は誇示するものじゃない。ただ“在る”だけ」
「月明かりみたいに。気づかれなくても、消えたりしない」
「哲学的だ」
カエレンは小さく笑った。
その声は心地よく、しかし刃のように冷たい。
「でもね、月明かりだって、落ちる場所で印象が変わるんですよ」
「金の取っ手に落ちれば優雅。短剣の刃に落ちれば、まるで別物」
一歩。
さらに近づく。
「さて……あなたは自分に、どんな文脈を選ぶんです?」
「アイヒェンヴァルト家の飾り物? それとも……もっと大きな何か?」
背筋を冷たいものが走る。
こいつ、本当に危険だ。
兵士のような力でもない。
激情で押すタイプでもない。
――言葉で殺せる男。
アマンダは静かに息を吐く。
「私は“守護者”」
「文脈なんて選ばない」
「私が、文脈を決めるの」
カエレンの口元が、にやりと弧を描いた。
「ブラボー」
「これこそ強者だ。状況に合わせるんじゃなく、状況を強制する」
「でもね」
「アイヒェンヴァルト公爵家の壁は、あなたには狭い」
(探ってる……完全に)
針みたいな言葉が一つ一つ刺さる。
退屈していないか。物足りなくないか。もっと大きな舞台が欲しくないか。
アマンダは刃を返す。
「壁なんて、山の生まれ変わりを見た者には、ただの埃よ」
「王座も同じだ」
カエレンは低く言う。
「築かれ、崩れ、また築かれる」
「帝国だって、昔は“ただの考え”だった。今は……」
手を広げ、大陸ごと掴むように示す。
「世界に意志を強制している」
「あなたには、もっと近くで見てみる価値があるかもしれない。偏見なしで」
アマンダはゆっくり顔を向ける。
黄金の仮面と黒檀の仮面。
月光の下で静かに睨み合う。
「埃を別の埃に変えろって言いたいの、ロード・カエレン?」
カエレンは本気で笑った。
鈴のようで、猛毒を含む笑い声。
「いいえ」
「私はただ――あなたの“傑作”を描くのに充分な広さのキャンバスを、お見せしたいだけです」
「塗りつぶす色は……あなたの自由ですよ」
そう言って、彼は一歩下がる。
優雅に腰を折り、月影へと消えていった。
残ったのは、月明かりと夜風だけ。
(……あいつ、本当にやばい)
胸の奥で、小さな火が灯った。
警戒と――そして、ほんの少しの興味。
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