67) 血月の晩餐
大階段を、王と王女のように降りてきた。
タイヴィン・アイヒェンヴァルト公爵。
漆黒のビロードに銀の縁取りが、燭台の火を受けて冷たく光る。
背筋は鉄の塔そのもの。
一歩ごとに大理石の床が小さく震え、建物全体が彼の足音に膝を折っているかのようだった。
その横、ロクサーナ・アイヒェンヴァルト。
血の月を溶かして織ったような深紅のドレス。
髪に嵌められた細工のティアラが、鋭く光を跳ね返す。
完璧な微笑み。完璧な計算。完璧な、美しさ。
二人が階段の中ほどで立ち止まる。
公爵が巨大な水晶のグラスを掲げた瞬間、ざわめきが刃で切られたように止まる。
「諸君、同盟者、そして尊き客人たちよ!」
軍団を指揮してきた声が、広間を一瞬で支配する。
壁の金箔さえ震えるほどの響きだった。
「今宵は奇跡を祝う宴だ。
死の淵から我が息子にして後継者、ランデルを奪還した奇跡を!
この夜は運命への感謝、そして我が家を守った“力”への感謝だ!
ランデルの健康と、アイヒェンヴァルトの未来に、乾杯!」
万雷の拍手。
グラスが一斉に掲げられ、シャンパンが無数の喉を滑り落ちる。
だが、儀礼が終わった瞬間。
拍手の余韻が消えるより早く、視線がざわざわと泳ぎ始めた。
扉へ。回廊の奥へ。ギャラリーの影へ。天井のシャンデリアの陰へ。
まだ姿を見せていない“二人”を探して。
主役の席は空いたままだ。
高座の椅子が、まるで牙を剥いているように見える。
不在のほうが、どんな登場よりも重い。
空気がじりじりと熱を帯び、燭台の火がざわざわと音を立てて踊り始めた。
……来るぞ。
今夜の本当の幕開けが。
大多数の客が噂話と表面的な挨拶に溺れている間に、
ロクサーナは静かに盤を動かし始めた。
駒を置く音すら聞こえない、完璧な指し手で。
血の色のドレスが滑るように動き、唇には完璧な微笑みを貼り付けたまま、
頭の中だけが容赦なく高速で回転している。
視線の先。
ツバメ・ヒカリが控えめに話を聞いている小さな輪。
その隣に立つのは、森の公爵家の跡取り、アオイ・ミドリ。
「緑の森」の主。常緑の森と境を接し、永遠の森に最も近い領地の娘。
飾り気のない鮮やかな緑の絹のドレスが、どこまでも高価で高潔に見える。
真剣なエメラルドの瞳が、静かに光っていた。
「ヒカリ様、アオイ様」
ロクサーナが優雅に腰を折る。
香水の甘い匂いが、ふわりと二人を包む。
「遠路はるばる、お疲れさまでした。
アオイ様、我が領の森は……お目にかなう程度には、懐かしい景色だったでしょうか?」
アオイが小さく、しかし深く会釈を返した。
「とても力強い森でした、ロクサーナ様。
古くて……目覚めたような力。
空気から伝わってきます。
私の領地とは、まるで違う」
ロクサーナの微笑みが、わずかに深くなる。
蛇が舌を出す一瞬のように。
「目覚めた、ですか。面白い表現ですね」
ティアラの宝石が、冷たく光を跳ね返す。
「もしかしたら、あの方の影響かもしれません。
魔を宿す存在は、ただいるだけで世界を変えると言いますもの」
アオイが、まっすぐにロクサーナを見据える。
緑の瞳が、鋭く、静かに光った。
「まさにその通りです」
一歩も引かず、静かに続ける。
「境界近くの森番から報告が上がっています。
獣たちが妙に大人しくなって……
古木たちが、まるで肩の力を抜くように枝を広げていると。
……不思議でなりません」
一瞬、静寂が落ちる。
燭台の火だけが、ぱちり、と小さく鳴った。
「野生を鎮める力。
それは大きな祝福にも、大きな脅威にもなります」
アオイの声は静かだった。けれど、確実に届いた。
「――誰の手に握られているか、による」
ロクサーナの赤い唇が、ゆっくりと弧を描いた。
完璧な、氷の微笑み。
「ええ、本当に……誰の手に、ですね」
二人の視線が、空中で静かにぶつかり合う。
火花は立たない。ただ、空気がぎりりと音を立てて軋んだ。
「まあ、そんな暗い顔しないでくれよ、お嬢様がた」
低く、艶やかに掠れた声が、輪の外側から滑り込んできた。
藤原・暁。
黒の燕尾服に銀の鎖が鈍く光る。
長い髪は低く束ねられ、額に落ちる一筋が鋭い目元を際立たせる。
片手にシャンパングラスを二つ、指先だけで軽く摘まむように持つ。
白いレースの手袋なんてものは最初から存在しない。
素の指に嵌めた銀のリングが、燭台の火を冷たく跳ね返すだけだ。
彼は一歩踏み出し、グラスのうち一つをロクサーナに差し出した。
優雅だが、どこか獲物を差し出すような仕草。
「ロクサーナ様の手にかかれば、どんな災厄だって祝福に変わる。
それにしても、今回の演出……見事すぎて鳥肌が立つな」
口角だけを吊り上げた。
古い赤ワインの瞳が、燭台の火を受けて濡れたように妖しく光る。
「で、肝心の“謎のゲスト”はどこだ?
お兄様と一緒に、みんなを焦らしてるのか?
もう半分以上の客が好奇心で死にそうだぜ」
ロクサーナは微笑みながらグラスを受け取る。
指先が、ほんの一瞬だけ暁の指に触れた。
氷と毒が触れ合う、ぞくりとする感触。
「順番というものがありますわ、暁卿」
ロクサーナはグラスを軽く掲げ、泡を見つめながら答える。
「後継者は今、ゲストをお連れしています。
きっと……“その時”が来たと判断した瞬間に現れるでしょう」
小さく息を吐く。
吐息が、近くの燭台の火をわずかに揺らす。
「生きた“力”そのものである人が、
宴のタイムテーブルに縛られるはずがないでしょう?
その人が、タイムテーブルを決めるんですもの」
そのとき。
静かに、輪の外側から影が近づいてきた。
レン・ジンジャ。
灰色の僧衣のようなコートが、床を這うように動く。
「タイムテーブルを決めるのは簡単だ」
低い、刃のような声が落ちる。
「でも、魔術の法則を書き換えるのは別だ」
レンはロクサーナをまっすぐに見据えた。
瞳は暗く、底なしの井戸のよう。
「アイヒェンヴァルト家は、とんでもない責任を背負った。
……“それ”を匿うということは。
全ての結果を、ちゃんと理解しているんだろうな?」
一瞬、燭台の火がゆらりと大きく揺れた。
誰もが息を呑む。広間のざわめきが、遠くに聞こえるだけ。
ロクサーナの赤い唇が、静かに動いた。
「ええ、もちろん」
微笑みは完璧なまま。
氷の刃が、音もなく鞘から抜かれるような。
「だからこそ、今夜は……
皆様に“見せて”あげるんです」
ロクサーナがゆっくりとレンに向き直る。
その瞳は、もう蜜じゃない。剃刀だ。
「私たちは、いつだって“結果”をわかっています」
声は静かだった。
でも、広間全体の空気を一瞬で凍らせた。
「北の遊牧民が牙を剥いたときも。
西の貪欲な隣人たちが牙を剥いたときも。
生き延びるために必要なのは、歴史を“読む”ことじゃありません」
一歩、前に出る。
血の色のドレスが、燭台の光を呑み込んで、闇のように揺れる。
「歴史を“作る”ことです」
もう一歩。
「たとえそれが、今世紀最大の謎を……
自らの屋敷に招き入れることになっても」
挑戦だった。
はっきりとした、宣戦布告に近い刃。
ヒカリは息を呑み、
アオイは静かに目を伏せ、
暁はグラスを傾けたまま、薄く、獣じみた笑みを浮かべ、
レンは無言で奥歯を噛みしめた。ぎり、と音がしそうなほど強く。
アイヒェンヴァルトはただ「受け入れた」のではない。
賭けたんだ。全てを。
これで残る選択肢は三つ。
乗る。見る。盤をひっくり返す。
空気が、ぎりぎりと軋む。
燭台の火が、一斉に小さく震えた。
誰も口を開かない。
誰も、動けない。
ただ、誰もが同じことを考えている。
……まだ来ないのか。
今夜の本当の主役たちは。
祝福の女神か、それとも制御不能な災厄か。
宴は最高潮。
でも、本当の幕は、まだ上がっていない。
燭台の火が、ぱちり、と大きく弾けた。
炎が一瞬、血の色に染まったように見えた。
まるで、
「もうすぐだよ」と囁いているみたいに。
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