66) 「火の灯る大広間で」
大広間が、燃えていた。
何千本もの燭台の炎が、金箔の壁と大理石の床に揺らめき、
まるで生き物のように空気を舐めている。
ざわめく人々の吐息が、巨大な蜂の巣が低く唸るように響き、
熱と香水と酒の匂いが絡み合って、頭の芯まで痺れさせる。
その中心。
シャンパンタワーの銀の泉が、泡を立てて噴き上がるすぐ傍に、
三人の「次期当主」たちが立っていた。
それぞれの家が、世界をひっくり返せるほどの権力を握っている連中だ。
ツバメ・カイトは、もうグラスを片手にしていた。
翼を折った鷹のような、怠惰で鋭い笑みを浮かべたまま。
泡が静かに昇るのを眺めながら、吐息のようにさらりと投げかける。
「で、俺らの学者様は埃まみれの古文書から何か見つけたわけ?」
どこか遠くで、女たちの笑い声がガラスのように高い音を立てて弾けた。
その笑い声の残響を縫うように、
灰色の僧衣みたいな地味な服を着たレン・ジンジャが、音もなく近づいてきた。
手にしたのはグラスではなく、小さな革装の書物だけ。
「何も」
一言。刃のように短く、冷たく。
燭台の火が、風もないのに一瞬だけ大きく揺れた。
まるで誰かが息を呑んだみたいに。
「どの魔獣図鑑にも載ってない。どの写本にも出てこない。
俺たちの文字が生まれる前からいるか、
あるいは……絶対に載せてはいけない類のものだ」
静寂が落ちる。
重い、粘つく静寂。
大広間の空気が、一気に数度下がった気がした。
「ほほぉ~?」
低く、少し掠れた、毒を孕んだ声が、二人の間に滑り込む。
藤原・暁。
黒の燕尾服に銀の刺繍が、燭台の火を受けて蛇のように蠢いている。
長い髪は低く後ろで束ねられ、額に落ちる一筋が鋭い目元を際立たせる。
片手に握る黒檀のステッキが、床を軽く突くたびに乾いた音を立てる。
タバコと鉄と、どこか甘い血の香りが混じった匂いが漂う。
「君たちは紙とインクに顔を突っ込んでばかりだけど、
もう本物のドラマは始まってるって知ってる?」
暁はわずかに首を傾け、口角を吊り上げた。
古い赤ワインのような瞳が、燭台の火を受けて濡れたように輝く。
「ランデル公爵、あの子と昨夜まるっと月庭で過ごしたらしいぜ。
王位を継ぐ堅物の心を溶かすなんて……これこそ本物の力じゃないか?」
……は?
カイトの眉が、ぴくりと跳ねた。
(あの堅物ランデルが? 一晩中? マジかよ)
レン・ジンジャは無言で目を細める。
指先で本の背表紙を、こつこつ、と苛立たしげに叩いている。
その音だけが、凍りついた空気の中で異様に響いた。
「ふーん」
カイトはグラスを軽く回し、泡が消えていくのを眺めた。
黄金の液体が、まるで血のように見えたのは、気のせいだろうか。
「つまり、俺たちが必死に探してる“それ”の正体より、
女の子のスカートの中身の方が先に解明されちまったって話?」
「最低」
レン・ジンジャが吐き捨てる。声に棘が刺さっている。
「最低で最高だろ」
暁が低く笑った。
喉の奥から響く笑いは、まるで獣が唸るような艶やかさだった。
「だって面白いんだもん」
燭台の火が、ぱちり、と弾けた。
火の粉が一瞬、空気中を舞い、すぐに闇に消えた。
カイトが盛大に目を回した。
白い歯を見せて、わざと大げさに。
「へぇ~、お前みたいな毒舌野郎のゴシップで心がポカポカするとは思わなかったよ、藤原。
でもさ、俺はもっと派手なの見たいんだよね。例えば……
お前の完璧な髪を、突然カラスが巣にしてしまうとか」
どこかで誰かが吹き出した。すぐに咳払いに紛れて消えた。
しかし、その小さな笑いが、大広間の緊張を一瞬だけほぐした。
暁はステッキを軽く床に打ちつける。
乾いた、銃声のような音が響いた。
「カイトくんの妬みって、なんでこんなに可愛く聞こえるんだろうな」
唇の端が、ゆっくりと吊り上がる。
まるで獲物を見つけた肉食獣のように。
「もっと熱い話してやろうか?
リンネ公爵のあの怒りっぷり。想像してみろよ。
お家の切り札の娘が、森から出てきた野蛮娘に負けてポイッて捨てられたんだぜ?
あの顔、真っ赤になって震えてるの見たさに、
俺なら鉱山一年分の利益くらい喜んで払うけどな」
燭台の火が、一斉に小さく揺れた。
誰かのドレスの裾が、風もないのにひらめく。
空気が、ますます重くなる。
レン・ジンジャは表情一つ変えない。
ただ、瞳の奥だけが、氷みたいに冷たく光った。
「……笑いごとじゃない」
声は低く、床に落ちた言葉はすぐに大理石に吸い込まれていく。
「リンネの怒りは冗談じゃ済まされない。
あの子は、火種になる。
俺たちの脆い均衡を、全部焼き尽くす火種だ」
静寂が、ほんの一瞬だけ大広間を縛った。
誰の息づかいも聞こえない。
まるで時間が止まったように。
暁が大げさにため息をつく。
ステッキで軽く自分の肩を叩きながら、目を細めて笑う。
「戦争? うわぁ、ベタすぎて涙が出そう」
甘ったるい声が、再び蜜のように滴る。
「それよりさ、新しいお砂遊びが宮廷に来たってワクワクしない?
あの仮面……ねえ、一体何が隠れてると思う?
女神の顔? それとも、見たらダメなヤツ?」
カイトが鼻で笑った。
グラスの底を、軽くテーブルに叩きつける音がする。
「妄想が過ぎるんだよ、藤原。
ただのマーケティングだろ。
ミステリアスって、この世で一番高い通貨なんだよ」
(……ったく、どいつもこいつも面倒くせえ)
俺はグラスを傾け、残りのシャンパンを一気に流し込む。
泡が喉を刺した。
炭酸の痛みが、胸の奥まで染みていく。
まるで、今夜の予感みたいに。
ふっと、三人同時に口を閉じた。
まるで誰かが糸を引いたみたいに、ぴたりと。
影みたいに軽い足音が、すぐ横で止まる。
「……兄さん」
ヒカリが、カイトの袖をそっと掴んだ。
指先が震えている。ほとんど声にならない囁き。
視線だけで、正面の大階段を示す。
その瞬間。
音楽が、ぴたりと止まった。
弦が切れたように、音が消える。
ざわめきが、波が引くように、さらさらと後退していく。
数百の瞳が、一斉に、上へ。
大階段の上、ギャラリーに現れたのは。
タイヴィン公爵と、その娘ロクサーナ。
──合図だ。
空気が、音を立てて張り詰めた。
まるでガラスが割れる寸前の、危うい緊張。
暁の唇から、いつもの甘い笑みが音もなく剥がれ落ちる。
残ったのは、剥き出しの、獣じみた興味だけ。
赤ワインの瞳が細められ、ステッキを握る指に力がこもる。
銀の柄頭が、燭台の光を受けて鋭く光った。
ゲーム開始。
そして、盤上に。
最も読みにくい駒が、静かに姿を現した。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
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