63) 嘘が本当になった夜
……アマンダは、ほんの少しだけ目を細めた。
まるで本当に遠い記憶を呼び起こすように。
「カエレンは……笑うとき、いつも歯を見せなかった」
ランデルの指が、頬の上でぴくりと震えた。
それが、どれだけ彼を抉ったか、すぐにわかった。
「だって、牙を隠してたから」
彼女は小さく息を吐いて、夜風に溶かすように続けた。
「彼はね、誰かを傷つけるのが怖かった。自分の力が大きすぎて、愛するものまで焼き尽くしてしまうんじゃないかって。だから笑うときも、怒るときも、最後の一歩をいつも踏みとどまってた。……でも、私には見えたよ。牙の奥に、すごく優しい火が灯ってるって」
ランデルの喉が、ごくりと鳴った。
「手を握るときも……こうやって、震えてた」
アマンダはそっと、自分の手を彼の手に重ねた。
指と指が絡まる。温度が伝わる。
「『お前を壊したくない』って、毎回呟いてた。
『俺は怪物だから、お前を傷つけるかもしれない』って。
……バカみたいでしょ? 世界最強の男が、ただ私の手を握るだけで怯えてた」
彼女はふっと笑った。
でもその笑みは、どこか本当に哀しそうだった。
「だから私から握り返した。
『だったら一緒に壊れよう』って言ってやった。
そしたら彼、初めて……本当に泣いたんだよ。
“ありがとう”って、子供みたいに嗚咽しながら」
静寂が落ちる。
月明かりだけが、二人の影を長く伸ばしていた。
ランデルは目を伏せたまま、掠れた声で尋ねた。
「……俺は?」
アマンダは瞬きを一つだけして、静かに答えた。
「あなたは……牙を隠してない」
彼の瞳が、はっと上がる。
「震えてるくせに、ちゃんと見せてくれる。
怖いって、弱いって、全部。
……それが、すごくズルい」
彼女は少しだけ顔を近づけた。
息がかかる距離で、囁くように。
「カエレンにできなかったこと、あなたはもうやってる」
ランデルの指が、ぎゅっと強くなった。
痛いくらいに。
でもアマンダは逃げなかった。
「だから……」
彼女は最後に、ほんの小さな声で言った。
「もう、比べないで。
あなたは、あなたでいい」
風が止んだ。
まるで世界が息を呑んだみたいに。
ランデルは、震える唇をようやく動かした。
「……アマンダ」
名前を呼ぶ声が、祈りのように震えていた。
(これで、完全に逃げ道を塞がれたな……)
(でも、なぜだか……嫌じゃない)
夜はまだ深く、二人の影は一つに重なったまま、
永遠の森の精霊たちでさえ、息を潜めて見守っていた。
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ランデルは、ゆっくりと息を吐いた。
熱い、震える息がアマンダの頬を撫でる。
「……俺は、違うのか?」
掠れた声。
自分でも気づかなかった弱さが、そこに丸出しになっていた。
「俺は……“取る”ことしかできないのか?
力で、立場で、血筋で……全部押し潰して、君を俺のものにするしかないのか?」
彼の指が、ぎゅっと、痛いほど強く締まる。
でもそれは、決して彼女を傷つけるための力じゃなかった。
自分自身を縛りつけようとする、必死の呝�縛だった。
「……俺は、カエレンのようにはなれない」
初めて、素直に、惨めなほど素直に零した。
「俺は……怪物になるのが怖い。
君を壊してしまうのが怖い。
だから、いつも一歩引いて、言葉を選んで、仮面を被って……
それでも、君の前じゃ全部剝がれてしまう」
彼は俯いた。
「だから教えてくれ」
顔を上げたとき、瞳は濡れていた。
涙ではない。
それよりずっと熱い、燃えるような懇願だった。
「俺に……カエレンにくれたのと同じ答えを、くれないか?
俺が、俺のままでいいって……
震えてるままで、弱いままで、君を欲しがってるままで……
それでも、君に触れていいって」
アマンダの胸が、ズキンと痛んだ。
嘘が、もう限界だった。
この男は、彼女のでっち上げた亡霊にすら負けようとしている。
……もう、逃げられない。
彼女はゆっくりと息を吸い込んだ。
そして、初めて、本当の声で答えた。
「……バカ」
小さく、でもはっきりと。
「カエレンは、私の嘘だよ」
ランデルの瞳が、大きく見開かれた。
「全部、適当にでっち上げた。
本に載ってた名前と、ちょっとカッコつけた話。
……ごめん」
静寂が落ちる。
風すら止んだ。
ランデルは、瞬きを忘れたまま、ただ彼女を見つめていた。
次の瞬間、
「……は?」
小さく、間抜けた声が漏れた。
アマンダは、堪えきれずに吹き出した。
「ぷっ……あはははは!
やっぱり、顔が最高!」
涙を拭いながら、腹を抱えて笑う。
ランデルは、完全に固まったまま、口をぱくぱくさせている。
「……嘘?
……全部?
……カエレンとの恋も、塔の上で待ってた話も、俺が今まで……」
「うん、全部嘘!
ごめん、ごめん! でもさ、」
彼女は笑いを噛み殺しながら、彼の頬に触れたままの指をそっと握り返した。
「今のあなたが言ったこと……
それだけは、嘘じゃないよね?」
ランデルの顔が、みるみる真っ赤に染まった。
怒りと恥ずかしさと、でもどこか安堵が混じって、めちゃくちゃな色になっていた。
「……最低だ、お前」
「知ってる」
「……二度と信じない」
「うん、いいよ。
でも」
アマンダは、少しだけ真剣な顔になって、囁いた。
「今度こそ、本当の答え、聞かせてくれる?
……私、ちゃんと聞きたいから」
ランデルは、しばらく黙っていた。
そして、ようやく、
「……ああ」
小さく、でも確かに頷いた。
「今度は、全部本音で言う。
……逃げるなよ?」
「逃げない」
二人は、同時に小さく笑った。
嘘から始まった夜が、ようやく本当の夜になった。
月が雲間に隠れ、星だけが瞬いていた。
ランデルは、じっと彼女を見つめたまま、
何秒か、何十秒か、永遠みたいに長い沈黙を続けた。
そして、ふっと息を吐いた。
「……お前、本当に最低だな」
声は低くて、少し笑ってた。
「俺の先祖を泣かせて、俺を泣かせて、
最後には『実は全部嘘でした』って言って、
それでも俺の心を鷲掴みにして離さない」
彼は額を彼女の額に軽く押し当てた。
熱い。震えてる。でも、もう逃げてない。
「でも、いい」
小さく、でも確かに。
「俺は……もう、お前の嘘でも本当でも、全部欲しい」
アマンダの目が、ぱちりと瞬いた。
「え……?」
「カエレンにくれた答えも、
俺にくれるって言った答えも、
お前が今ここで零す、どんな言葉でも」
ランデルは、彼女の頬を包んでいた手をそっと滑らせて、
今度は両手で彼女の顔を優しく挟んだ。
「全部、俺のものにしてやる。
逃がさないからな」
アマンダの頭の中で、完全にパニックが始まった。
(うわっ、やばい、やばい、やばい!!
今めっちゃカッコいいこと言われた!!
どうすんだこれ!! 照れ死ぬ!!)
でも口から出たのは、いつもの調子だった。
「……べ、別にいいけどさ。
覚悟しとけよ、小僧」
ランデルは、くすっと笑った。
本当に嬉しそうに。
「覚悟? とっくにできてる」
そして、ゆっくりと、
まるで壊れ物を扱うみたいに、
額に軽く唇を寄せた。
触れるだけの、ほんの少しのキス。
「……これで、俺の物語はもう始まってる」
アマンダの顔が、爆発したみたいに真っ赤になった。
(うわああああああああああ!!!
死んだ!! 私、今死んだ!!)
でも、逃げなかった。
逃げられなかった。
夜風が再び動き始めて、
二人の髪を優しく絡め合わせる。
遠く、永遠の森の梢がざわめいた。
まるで、長い長い孤独が、
ようやく終わりを迎えたと告げるように。
(続く)




