61) 素顔を見られたら終わりだと思ってた
その後も、二人で庭をゆっくり歩いた。
会話は自然と弾んで、笑い声が夜の空気に溶けていく。
ランタルは珍しい秋薔薇を見せてくれたり、噴水にまつわる言い伝えを語ったり、この屋敷で過ごした幼い日のバカ話を次々繰り出したり。
私はただ聞いてるだけで、胸の奥がじんわり温かくなっていく。
……守護者じゃなくて、ただの「私」でいられる。
そんな時間が、ようやく勇気をくれた。
蔦の絡まる石のベンチの前で足を止める。
暗い池の水面を見つめながら、ずっと喉の奥で燃えてた質問を、そっと吐き出した。
「ねぇ、ランタル……どうして?」
「ユイ様に対して、あんなに冷たかったの?
まるで、別れたくて仕方ないみたいに」
「でも私には……」
視線を落とす。耳が熱い。
「どうして、こんなに優しいの?
それって……やっぱり、偽り?」
ランタルが、ぴたりと動きを止めた。
さっきまでの笑みが消えて、瞳の奥に古い、古い疲れが浮かぶ。
彼はベンチに腰を下ろし、静かに隣を叩いた。
座って、という合図。
「……偽りじゃない」
低い声で、ゆっくりと始める。
「ただ、長い話だ。
あんまり気持ちのいい話じゃない」
夜空を見上げて、一度深く息を吐く。
「ユイとは、物心ついた頃からの付き合いだ。
最初から『将来は一緒になる』って育てられてた」
「でも、俺は最初から……本性を見てた」
苦い笑みが浮かぶ。
「覚えてるよ。七つか八つの冬のこと」
「母が、ユイ家に代々仕えてる老女中——マルタばあちゃんに、暖かいブーツを贈ったんだ。
マルタさんは貧しくて、家族は飢えてた」
«それを見たユイが、どうしたと思う?」
指先でベンチの石を軽く叩きながら、遠くを見る目。
「ブーツを見て、激怒した。
『私の許可なく、私の召使いに物をやるなんて』って」
「そのままブーツを掴んで、暖炉に放り込んだ」
「『私が決めたものでないなら、いっそ何も履かせない』って」
静かに、静かに語る声。
夜風が、冷たく頬を撫でた。
まるで、あの冬の炎が今も背中を焼いてるみたいに。
私は、ただ呆然と彼を見つめた。
「……あれは、最初の一歩だった」
ランタルの声が、氷みたいに冷たく硬くなる。
「十歳のとき、ユイは台所にいた猫を押し入れに閉じ込めた。
自分の大事なオウムを驚かせたからって」
「三日後に見つかったとき、猫はもう半分死んでた」
「十二歳のとき、新しい侍女が気に入らない髪型にしたってだけで、夜中に寝てる間に髪を切り落とした。
ただのハサミで、ばさばさって」
「十五歳のとき……」
拳が、ぎりっと鳴る。
「俺にワインを注ぐとき、ちょっと長く目が合ったってだけで、侍女を殴った。
鼻を折られた」
「両親も、リンネ公爵も、『若い女の子の嫉妬』って笑って済ませた。
父親は金で黙らせれば済むって思ってたから、娘を躾ける気なんてなかった」
一つひとつの話が、胸の奥に氷の刃みたいに突き刺さる。
憎しみが、どす黒く湧き上がる。
(あんな女が……この人のそばにいたなんて……!)
「年を取っても、変わらなかった」
首を振る。
「ただ、仮面を上手に被るようになっただけ」
「人前では可愛らしくて、笑顔で、誰もが惚れるお嬢様。
でも瞳の奥はいつも空っぽだった」
「共感なんて、欠片もなかった」
「世界は自分の楽しみのために存在してて、人は道具。
俺は……一番価値の高いおもちゃだった」
「アイヒェンヴァルト家の跡取り。
称号。地位。綺麗な飾り。
それが欲しかっただけ」
「俺のことなんて、好きじゃなかった。
本当の俺なんて、知ろうともしなかった」
「彼女が欲しかったのは、『アイヒェンヴァルトの婚約者』って肩書きだけ」
静かに、静かに語る声。
月明かりの下で、彼の横顔が痛いほど儚く見えた。
(……こんなに傷ついてたんだ)
胸が、締めつけられる。
怒りと、哀しみと、それ以上に——
この人を、もっと守りたいって気持ちでいっぱいになった。
彼が、ふっと私の方を向いた。
瞳が、まっすぐに突き刺さる。
「今夜の食卓で見たのは、俺が冷たかったんじゃない」
「ようやく、仮面を外しただけだ」
「何年も、家族への義務って名目で、自分に仮面をかけてた」
「でもユイが触れるたび、肌が拒否した。
あれは全部偽物だった。触れ方まで、嘘くさかった」
「言葉も……甘い毒だった」
彼の手が、私の手を包み込む。
今度は、さっきとは比べ物にならないくらい熱い。
生きてるって感じがする。震えるくらいに。
「でも、君とは違う」
声が、囁きに落ちる。
「森であの時、死の直前に立ってても怯まない君を見た瞬間……何かが、弾けた」
「君は本物だ」
「仕草の一つも、視線の一つも、怖がってるときも泣いてるときも、全部が真っ直ぐで」
「ユイには一生かかっても手に入らないものだ」
「君は役を演じてなんかいない。
ただ、生きてる」
「だから俺は……」
言葉を飲み込んで、息を吸う。
壊れそうな瞬間を、そっと抱きしめるみたいに。
「君のそばで、初めて自分が生きてるって思える。
何年ぶりだろうな」
胸が、ドクドクって暴れる。
(見られてる……全部、私そのものが)
嘘も芝居も、仮面も全部剥がれた、みっともない本当の私を。
それでも彼は、私を選んだ。
完璧な人形なんかじゃなくて、ボロボロで怯えてるこの私を。
「ユイは、君とは違う」
彼はぎゅっと指を絡めた。
「君の中にある力、優しさ、光の百分の一だって、あいつにはない」
「だから別れるのは悲劇じゃない」
「解放だ」
夜風が通り抜ける。
月明かりが、二人の影をそっと重ねた。
(……ああ、もうダメだ)
心の奥で、何かが決定的に崩れて、熱いものが溢れ出す。
この人を、離したくない。
もう、絶対に。




