60) 仮面が外れた夜、私の素顔を見た彼は――
ランタルが、もう一歩踏み出す。
元々ほとんどなかった距離が、もう完全にアウトなレベルまで縮まった。
月明かりが、私の顔を真正面から照らし出す。
影ひとつ、隠れる場所なんて残ってない。
「……初めて、お顔を見ました」
囁くような声。
低くて、震えてて、なんだか神聖なものを見たみたいな、畏れ多い感じがする。
「それは……あなたは……本当に、美しい」
言葉が夜空に溶けていく。
私は、ただ彼を見つめるだけ。
頭、真っ白。
……顔?
私の顔、見られてる!?
「ひぃぃぃぃぃっ!!」
叫びじゃない。悲鳴。喉が潰れるかと思うくらいの、押し殺した絶叫。
ビクッと後ずさる。
両手が勝手に顔に伸びる——そこにはいつも仮面があるはずなのに!
指先が触れたのは、涙でびしょびしょの素肌だけ。
(仮面……どこ!? 私、つけてなかったの!?)
「仮面……どこどこどこ……! 落とした!? 私、忘れてた!?」
声が震える。裏返る。獣みたいに怯えた声。
くるくるその場で回る。目が血走って、暗い路地の隅まで必死に探す——草むらに落ちてないか、どこかに転がってないか、まだ間に合うかも——
「奥様……落ち着いてください、お願いします」
ランタルは無理に掴んだりしない。
でも、震える私の手を、優しく、でもしっかりと包み込むように握った。
温かい。
力強い。
「どうか……僕を見てください」
「だめ! 見ちゃだめだってば……!」
必死に手を振りほどこうとする。
でも彼の指は、優しいのに絶対に離れない。
「これは……ルール違反……違反なんだから……!」
「誰のルールですか?」
静かな、でも揺るぎない声。
まるで嵐の中で唯一動かない錨みたい。
「あなた自身の? 森の? それとも……自分で作ったルールですか?」
息が詰まる。
言葉が、喉の奥で凍りついた。
私は顔を背けたまま、肩で荒い息を吐く。
「おねがいです」
またその言葉。
今度は、祈るような響きで。
「僕を見てください」
……嫌だ。
見せられない。
こんな顔、絶対に見せられない。
でも、ゆっくりと、まるで重しが外れていくみたいに——
視線が上がる。
涙で腫れた目。
生まれつき赤い、呪われた瞳。
恐怖でいっぱいの、惨めな顔。
「……どんな誓いを立てていようと、どんな秘密を抱えていようと」
彼は私の手を離さない。親指が、そっと甲を撫でる。
「知らなくていい。知る必要なんてない」
「でも、今ここにいるのは……脅威なんかじゃない。危険なんかじゃない」
「悪夢を見たばかりの、泣いてる女の人だ」
「怖がってる……ただの女の人」
一言一言が、胸の奥に突き刺さる。
築き上げてきた壁が、音を立てて崩れていく。
「それにね」
彼が、もう少しだけ近づく。
灰色の瞳が、月明かりに銀色に輝いた。
「そんなあなたを見られること……恥ずかしいことなんかじゃない」
「むしろ、光栄だ」
「だってそれは——」
声が、少し震えた。
「僕に、心を許してくれたってことだから。
わざとじゃなくても」
指先が、ぎゅっと私の手を握り返す。
温かさが、じんわりと伝わってくる。
(……嘘だろ)
(こんなの……反則すぎるだろ……!)
胸の奥が、熱い。
痛いくらいに、熱い。
涙が、また零れそうになる——
今度は、別の理由で。
「私……弱いところ、見せちゃいけないんです」
声が掠れる。震える。
「私は守護者だから。強くなくちゃいけない」
「強さって、怖がらないことじゃない」
彼の声が、静かに、でも確かに響く。
「怖くても前に進むこと。痛くても泣けること。それが本当の強さです」
「あなたは……僕が出会った中で、一番強い女性だ」
「痛みを感じられるからこそ、弱くなんかない。
生きてるってことなんだ」
彼はそっと、私の片手を離した。
ゆっくりと。
逃げられる時間をたっぷり与えながら。
指先が、私の頬の前で止まる。
あと一センチ。触れそうで触れない。
「見せてください」
また頼む。
命令じゃない。ただの願い。
「象徴じゃなくて。伝説じゃなくて。
あなた自身を」
「森で僕を助けてくれた、あなたを。
びっくりして飛びのいた、小さな子猫みたいなあなたを。
今ここに立ってる、涙でぐちゃぐちゃなのに、秋の葉に降り注ぐ月光みたいに美しいあなたを」
……誰も。
こんな言い方、誰もしてくれなかった。
前世でも、今世でも。
仮面も、鎧も、嘘も全部見透かされて、それでも背を向けなかった。
「私……怖い」
掠れた声で、やっと言えた。
「知ってる」
彼は小さく笑った。優しくて、温かくて。
「それでいい。
でも、もう一人じゃない」
「この屋敷にいる限り、あなたは一人じゃない。
覚えてて」
そして、やっと。
指先が頬に触れた。
ほんの軽く。
乾いた涙の跡を、そっと撫でるように。
ぞくっと、肌が震える。
「あなたの顔は」
囁く声。
「どんな仮面よりも、ずっと綺麗だ」
「だから……もう、隠さないで。
せめて、僕の前では」




