59) 夜の庭と涙
深夜。
ベッドの中で、突然、熱い。
……火だ。
燃え盛る炎が、馴染みの藁葺き屋根を呑みこんでいく。
悲鳴。煙。歪んだ顔。
「お姉ちゃん、逃げて! アマンダ、逃げてぇっ!」
弟の声が、耳の奥で割れる。
走る。転ぶ。背中に灼熱の風。
足元が崩れて……冷たい。
川の底に、沈む。
「っ……はっ!」
短い悲鳴を漏らして、アマンダは跳ね起きた。
心臓が、ドクドクドク、胸を殴る。
まるで小鳥が檻の中で暴れているみたいだ。
息を荒げながら、辺りを見回す。
……ここ、どこだっけ?
高い天井。豪華すぎる部屋。
見慣れない、でもどこか安心する香り。
(あ……そう、私……)
視界の端に、二つの影。
片方はガタイのいいシルエット。もう片方は少し細め。
レオとトルグリム。
見えない鎧を纏ったまま、壁際に座って微睡んでいる。
……ずっと、私を守ってくれてるんだ。
記憶が、津波みたいに押し寄せてくる。
お父さん。お母さん。
いつも優しい笑顔だったのに。
あんなに無力だったのに。
……どうして?
遊牧民。
本に書いてあった、あの残酷な連中。
村を焼き払い、鋼の騎士すら一蹴する化け物たち。
ただの農民の家族に、勝ち目なんてあるわけない。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
熱いものが頬を伝う。指で拭っても、拭っても、止まらない。
(……もう、泣かないって決めたのに)
アマンダは静かにベッドを降りた。
黄金の重厚な鎧は、今日は着ない。
代わりに、部屋の隅にある巨大な彫刻入りのワードローブを開ける。
中には、明らかに「高貴な客人」用に用意されたドレスがズラリ。
秋の夜の冷たさを考えて、深い森のようなダークグリーンのベルベットを選んだ。
長袖で、銀の糸で蔦の刺繍が施されてる。
肩には、銀灰色の柔らかなウールのマント。
襟元は白いエルミンの毛皮でふちどり。
……暖かい。
豪華なのに、なんだかホッとする。
素足のまま、音を立てないようにドアを開ける。
螺旋階段を、そっと降りていく。
夜の庭へ。
月明かりに濡れた石畳が、冷たくて気持ちいい。
風が頬を撫でて、涙の跡を乾かしてくれる。
(……ここなら、誰も見てないよね)
アマンダは小さく息を吐いた。
星が、すごく綺麗だった。
夜気が、細い指を立ててそっと頬を撫でていく。
冷たさの向こうに、かすかな湿り気。
それと混じり合う落ち葉の匂い、しっとりとした石の匂い、遅咲きの花が放つ淡い甘さ。
息を吸うたび、胸の奥まで澄んだ夜が染み込んでくる。
雲の切れ間から落ちた月光が、霜をまとった芝生の上で静かに揺れていた。
剪定されたツゲの灌木は、深い影を落としながら緩やかに曲がりくねり、
葉を落とした木々は黒い線のように空へ伸びている。
――まるで、最高に綺麗で、最高に切ないアニメのワンシーンみたいだ。
アマンダは、砂利の道をゆっくり歩いていた。
ベルベットのドレスが、風に撫でられたみたいにさらさらと微かな音を立てる。
(……どうして、あんなことに……)
(これから、私はどうすれば……)
思考がゆっくりと渦を巻き、胸の奥がぽっかり空いたようで、
足音の近づく気配にも気づけなかった。
「眠れないのか、姫君?」
静かに落ちる声。
月光より落ち着いていて、夜気より冷たくない声。
「ひっ……!」
肩が跳ね、アマンダは慌てて振り返った。
心臓が喉まで浮き上がったみたいに、ぎゅっと息が詰まる。
そこに立っていたのは、ランデルだった。
鎧ではない。
濃紺に近い――ほとんど黒の、薄手のウールのカモシール。
首元には銀糸の刺繍が静かに光り、
片方だけ掛けたマントが風に揺れ、
乱れた髪は、長い夜を越えてきた証みたいだ。
……やばい。
ほんとに、マンファの王子様みたいじゃん。
疲れた瞳に月光が染み込み、美しさに輪郭を与えている。
「ラ、ランデル様……?」
声が、勝手に裏返った。恥ずかしすぎる。
「こんな時間に……どうして?」
(わ、私、今めちゃくちゃ動揺してるの絶対バレてる……!)
ふっと夜が深呼吸するように、あたりの空気がまた静かになった。
ランデルは、小さく、そしてどこか疲れた笑みを浮かべた。
「俺は普段、夜はあまり寝ないんだ」
肩をすくめる。
月明かりの下、その動きはひどく静かに見えた。
「正確には、寝てるけど……ほんの少しだけ。
夜は静かで、誰にも邪魔されない。領地の仕事をするには、一番捗る時間だからな」
淡々と告げながらも、その声には長い夜をいくつも越えてきた人の疲労が滲む。
「報告書、地図、国境からの急報……未来の公爵は、不眠に慣れておく必要がある」
そう言って、彼は一歩、アマンダに近づいた。
月光が彼の瞳に宿り、
その視線がまっすぐに彼女を射抜く。
「で、君は?
どうして眠れない?」
アマンダは、そっと視線を逸らした。
まるで逃げ込むように、遠くの噴水の影を見つめる。
「……悪い夢を見ただけ」
小さな声が、夜気に溶けた。
ランデルが、さらに一歩。
その距離が縮まった瞬間、
月明かりが真正面から彼女の顔を白く照らし出す。
そして――彼は気づく。
「……泣いてた?」
その声は、ふいに柔らかくなっていた。
「ち、違う! これは……夢のせいで……だ、大丈夫だから!」
慌てて目をこすった指先が震える。
けれど、もう涙の跡は隠しきれない。
ランデルは、ただ静かに見つめていた。
そこには嘲笑も、詮索も、興味もない。
ただ――わかる、と言うような、穏やかな眼差しだけ。
彼は「守護者」としてではなく、
アマンダという、一人の女の子として彼女を見ている。
夜の悪夢に怯えた、ただの女の子として。
「……時々、あるんだ」
ぽつりと、彼が呟いた。
「どんなに強い人でも、怖い夢を見る。
それが恥ずかしいことなんかじゃない」
それきり、追及はしない。
理由を聞こうともしない。
ただ、同じ静かな夜の庭に立ち、
彼女の沈黙と、言葉にできない悲しみを
そっと分けてくれる。
その沈黙は、どんな慰めの言葉よりも温かかった。




