58) 婚約破棄の夜、悪女が生まれた
大広間で新たな火花が散り、新たな同盟が結ばれていく中、ユイ・デ・リンネにとって、世界は一瞬で終わった。
ランデルが婚約破棄を宣言したその瞬間。
ユイの耳に、爆発音のような耳鳴りだけが残った。
視界が白く染まる。
足元が消える。
心臓が、凍りついたみたいに止まった。
(嘘……だろ……?)
覚えていない。
どうやって大広間から連れ出されたのか。
ただ、いつの間にかアイヒェンヴァルト家の執事が横に立っていた。
石像みたいに無表情で、完璧な礼儀を崩さない男。
「ユイ様、お供いたします」
拒否権なんてない。
機械みたいに足が動く。
自分の部屋に着いたとき、すでに荷物はまとめられていた。
数分で片付けたというのに、完璧すぎる手際。
メイドが真っ青な顔で立っている。
「ち、父上は……! デ・リンネ公爵は……!」
声が掠れる。
執事は氷みたいな目で答えた。
「ご尊父にはすでに連絡済みでございます。馬車は裏口でお待ちしております。……お騒がせにならぬよう、配慮させていただきました」
配慮。
つまり、泥棒みたいにこっそり追い出すってこと。
(私……こんな扱い……?)
喉の奥が熱い。
涙が溢れそうになるのを、必死で堪える。
「余計な注目を浴びせたくない、とおっしゃるのですね……」
皮肉を込めて言ったつもりだった。
でも声は震えて、ただ弱々しく聞こえただけ。
執事は微動だにしない。
「どうぞお急ぎください。夜が明ける前には、屋敷を出ていただきます」
(まるで汚物みたいに……)
胸が、刃物で抉られるみたいに痛い。
メイドが小声で呟いた。
「お嬢様……」
その声に、ユイはハッと我に返る。
(ダメだ。私が泣いたら、アイヒェンヴァルトの連中に笑われるだけだ)
背筋を伸ばす。
震える指で頬を拭う。
「……わかったわ。行くわよ」
最後に一度だけ、振り返った。
この屋敷に、三年間いた。
愛した人には裏切られ、
婚約者には捨てられ、
今は、ゴミみたいに捨てられる。
(いいわ……覚えてなさい)
心の奥で、黒い炎が灯った。
(絶対に、絶対に……這い上がってやる。
いつか、みんなくそくらえって言ってやる)
通り過ぎるメイドたちの視線が、針みたいに刺さる。
背後で交わされる囁きが、鞭のように肌を裂く。
(見るな……見るなよ……!)
涙は出なかった。
まだ出さない。
一人になったときに、好きなだけ流せばいい。
今はただ、一つの名前だけが頭の中で白く燃えていた。
――守護者。
あいつが。
あいつが全部奪った。
(私の席を。
私の称号を。
私の未来を。
そして……ランデルの視線まで!)
馬車が動き出す。
煌めく宮殿が、どんどん遠ざかっていく。
闇の中、車輪が石畳を叩く音だけが響いた。
そこでようやく、怒りが凍りつく。
(父上……どう思う?)
デ・リンネ公爵は誇り高い男だ。
愛情なんて最初からなかった。
娘を差し出したのは、ただの政治的取引。
アイヒェンヴァルトとの最強の結びつきのため。
それが今、公開処刑みたいに踏みにじられた。
私はただの「不幸な花嫁」じゃない。
「家名の恥」になった。
もっと価値のある駒が出てきたから、
捨てられた、使い古しの駒。
指が震える。
爪が掌に食い込んで、血がにじむ。
「……みんな、覚えてなさい」
闇に向かって呟いた声は、
もうヒステリーじゃなかった。
冷たく、鋭く、鋼みたいに硬い。
「アイヒェンヴァルトの連中も……
あの金ピカの娼婦も」
ユイ・デ・リンネは、ゆっくりと唇を歪めた。
「絶対に後悔させてやる。
ユイ・デ・リンネを、こんな目に遭わせたことを」
馬車の窓から、月が覗いている。
冷たい光が、彼女の瞳を狂おしく照らした。
(まだ終わってない。
これからよ)
震える拳を、ぎゅっと握りしめる。
(這い上がって、全部取り戻してやる。
そして、みんなくそくらえって言ってやる)
馬車は夜の闇を切り裂いて走る。
誰も、彼女の心に灯った黒い炎に気づかなかった。
復讐の炎は、静かに、確実に燃え広がっていく。
まるで地獄の業火のように。
2
だが、そんな怒りの炎の奥に、氷の虫が這い回っていた。
(もし……本当にあいつが「特別」だったら?)
もし、あの守護者の力が本物だったら?
もし、噂以上の存在だったら?
そして、一番怖い問いが、胸の奥で牙を剥く。
(ランデルは……最初から、私のことなんて……)
本気で愛してなかったんじゃないか?
その可能性が、公開処刑の恥辱よりも何倍も深く、臓腑を抉った。
(好きじゃなかった?
私のことなんて、どうでもよかった?
ただ、家柄と顔が便利だっただけ?)
涙が、ようやく頬を伝った。
熱い。
でも、すぐに冷たくなった。
馬車の揺れに合わせて、感情がぐちゃぐちゃに混ざる。
怒り。
屈辱。
そして、底なしの不安。
(私は……ただの踏み台だったの?)
窓の外、月が雲に隠れる。
闇が一段と深くなった。
ユイは唇を噛みしめた。
血の味が広がる。
(……いいわ)
ゆっくりと、瞳に光が戻る。
それはもう、ただの涙の光じゃなかった。
冷たく、鋭く、まるで研ぎ澄まされた刃みたいに。
(もし本気で愛されてなかったなら……
それなら、私も本気で憎んでやる)
(もしあいつが本当に「聖女」なら、
私が「悪女」になってやる)
馬車は闇を突き進む。
夜に消されていくユイ・デ・リンネ。
だが、これは終わりじゃない。
ただの、変貌の始まり。
哀れな追放令嬢か、
それとも、誰にも止められない復讐者か。
その答えは、もうすぐ誰にも分かることになる。
だって、物語はまだ終わってないから。
ユイ・デ・リンネの本当の章は、
これから始まるんだ。




