54) 契約破棄の瞬間(けいやくはきのしゅんかん)
ユイの我慢は、もう限界だった。
細く張り詰めた糸が、ビリビリと震えている。
ランデルが、あの謎めいた金髪の守護者……アマンダに視線をやるたび、
そのたびに、糸が軋む音が耳に響いた。
そして決定的だった。
ランデルが自分のステーキから、一番美味しそうなところを切り取って、
「どうぞ。アマンダさん、これがうちの一番の肉です。体力を回復しないと」
そう言って、彼女の皿に移した瞬間――
糸が、ブチッと切れた。
パリンッ!
クリスタルのグラスが床に叩きつけられ、甲高い音が響き渡る。
ユイが立ち上がった。
椅子をガタッと乱暴に引いて、
食堂の空気が、一瞬で凍りついた。
「もう、いい加減にしてよ!!」
普段は甘ったるくて可愛い声が、今は耳を劈くほど鋭い。
全身を震わせながら、ユイの美貌が怒りで歪む。
涙まで浮かべて。
「この茶番、もう我慢できない!!」
「ユイ!」
タイウィンが厳しく制止する。
でも、もう遅い。
「うるさい!! お父様だってわかってるでしょ!?」
ユイが振り向く。
瞳に怒りの涙をいっぱい溜めて。
「あの女……あの金髪の淫乱女が!!」
その一言に、アマンダの胸がズキンと痛んだ。
(え……私、淫乱……?)
「顔隠して、ずっと無言で、偉そうにしてる!
みんなが当たり前に跪くと思ってるんでしょ!?
なのに……なのにランデルさんは!」
震える指が、ランデルを指す。
「あんな目で見るの! まるで女神みたいに!!
婚約のこと、完全に忘れてる!!」
(違うよ……俺、そんなつもりじゃ……)
ランデルが慌てて口を開きかける。
でもユイの声が、それをかき消した。
「私、ずっと我慢してたんだから!!
もう無理!!
こんなの耐えられないよぉ!!」
涙が頬を伝って落ちる。
食堂中が、息を呑んで見守る。
(やばい……これ、マジで修羅場じゃん……)
(ユイちゃん、普段はお嬢様なのに、こんなに取り乱すなんて……)
(でも、あの守護者さん、確かに謎すぎるし……ランデル様の態度、ちょっとわかりすぎるかも……)
誰も口を挟めない。
ただ、重い沈黙だけが広がっていく。
ユイの肩が、小刻みに震えていた。
(どうして……どうして私じゃダメなの?)
(私だって、頑張ってるのに……)
ランデルが、ゆっくりと立ち上がった。
その顔は——氷のような怒りに覆われていた。
「ユイ。今すぐ落ち着いて、客人に対して謝罪しなさい。
まるで駄々っ子みたいな振る舞いだ」
「駄々っ子……? 私が?」
ユイが、乾いた笑いを漏らす。
涙で濡れた瞳が、鋭く光った。
「あの人こそ大人なの?
顔すら見せられないくせに!」
一歩、ランデルに詰め寄る。
「ねえランデル、教えてよ。
あの女、一体何者なの!?
どこから湧いてきたの!?
どうして私より……婚約者の私より信じてるの!?」
甘ったるく、でも毒を含んだ声が食堂に響く。
「ユイ様」
ロクサーナが、微笑を浮かべながら口を開いた。
その声は蜜のようで——しかし底に冷たい刃が隠れている。
「お忘れのようですね。
ここはアイヒェンヴァルト家の館。
客人への侮辱は、すなわち我が兄への侮辱でもあるんですよ?」
「兄の……選択?」
ユイが鼻で笑う。
もう完全に、ヒステリーの頂点だった。
「あんな顔も見せない冒険者女が選択!?
絶対に、爵位と金目当ての詐欺師でしょ!
本物の貴族の娘なら、顔を隠してうろついたりしない!」
——ざわっ。
食堂が一瞬で凍りついた。
守護者(Guardian)に対して、そんな言葉を吐くなんて。
あれだけの力を目の当たりにした(と皆が思っている)存在に。
前代未聞の侮辱だった。
アマンダは、まるで石像みたいに固まっていた。
(あ……終わった)
心臓が、ドクドクと暴れ狂う。
(もうダメだ……全部、崩れる)
(仮面が……外されちゃう……)
指先が震え、
冷たい汗が背中を伝う。
(どうしよう……
どうすれば……)
静寂が、重く、重く、食堂を押し潰す。
誰もが息を殺して——次の瞬間を待っていた。
この修羅場、どうやって収まるんだ……?
だが、次の瞬間。
誰も何も言えぬうちに、事態は動いた。
ランデルは叫ばなかった。
弁解も、怒鳴りつけもしなかった。
ただ、一歩。
ユイに向かって、たった一歩踏み出しただけ。
それだけで、空気が変わった。
甘い恋する青年でも、優雅な主でもない。
アイヒェンヴァルトの後継者。
戦場で敵を震え上がらせる、あの“嵐”がそこにいた。
「ユイ。お前は、越えた」
静かな声だった。
でも、まるで氷の刃が耳の奥を抉るように鋭い。
「侮辱したのは客人だけじゃない。
命を救ってくれた人を侮辱した。
この屋根の下にいることを許した、俺の家の名誉を汚した」
視線が落ちる。
あまりの冷たさに、ユイの体がビクリと跳ねた。
「俺たちの婚約は……契約だった。
ただの、契約だ」
その一言で、ユイの顔から血の気が引いた。
「ラ、ランデル……私……」
「今この瞬間より」
声は静かだったのに、食堂の隅々まで響き渡る。
まるで公式の宣告のように。
「俺、ランデル・フォン・アイヒェンヴァルトと、
ユイ・デ・リンネ嬢との婚約は、解除する。
理由は、アイヒェンヴァルト家への不敬、
および最高の盟友への侮辱」
ざあああっ!
食堂中がどよめいた。
タイウィン公爵は目を閉じた。
怒りではなく、疲れた諦めがその顔に浮かんでいる。
ロクサーナは口元を手で押さえた。
けれど、瞳だけが勝利の光でキラキラと輝いていた。
(終わった……)
(本当に、終わっちゃった……)
ユイの膝がガクガク震える。
立っていられないほど。
涙が零れて、床にぽたぽたと落ちていく。
(どうして……どうしてこうなるの……?)
誰もが息を呑む。
この宣告は、もう取り消せない。
アイヒェンヴァルトの当主が、公の場で口にした言葉だ。
もう、後戻りはできない。
静寂だけが、重く、重く食堂を包んだ。
ユイは、ただ立ち尽くしていた。
声すら出せない。
ようやく溢れた涙は、もう怒りでも悲しみでもなかった。
ただの、絶望。
(全部……全部、失っちゃった……)
視線が、ざわりと動く。
全員の目が、ふっとアマンダに集まった。
守護者は、どうする?
どんな言葉を吐く?
どんな裁きを下す?
アマンダはゆっくりと顔を上げた。
仮面の奥、紅い瞳が、涙でぐちゃぐちゃになったユイの目と交差する。
そこには、勝ち誇りなんて欠片もない。
怒りも、憎しみもない。
ただ、凍てつくような、静かな無。
まるで、遠い星を見上げるような、完全なる無関心。
言葉は、一言もなかった。
ただ、じっと見つめるだけ。
その沈黙が、どんな言葉よりも残酷な宣告だった。
(……ごめんね)
心の中で、誰にも聞こえない声が小さく呟く。
(でも、これはもう……止められない)
そして、ゆっくりと。
アマンダはランデルに視線を移した。
ほんの少し、ほとんど気づかれないほどに。
小さく、一度だけ、頷いた。
それだけで十分だった。
終わりだった。
一つの時代が、音を立てて崩れ落ちた瞬間。
そして、新しい何かが始まる合図。
食堂の中心、嵐の目の中で。
仮面の下、元・山田ライトだった少女は静かに息を吐いた。
(もう、後戻りはできない)
(私、この世界の歴史を……完全に書き換えちゃった)
紅い瞳が、ほんの少しだけ、揺れた。
でもすぐに、また無表情に戻る。
仮面の下で、誰にも見えない唇が、小さく呟いた。
「……ごめんね、ユイ」
その声は、誰にも届かなかった。
ただ、静かに、食堂の重い空気に溶けていった。




