46) 毒の花と金の彫像
──貴族のホール、静寂の後──
ユイがドアの向こうに消えた。
残されたのは、ほのかな香水の香りと。
ピンと張り詰めた静寂だけ。
ざわめいていた群衆の声は、まるで魔法のように消え失せていた。
廷臣たちは「これから本当の舞台が始まる」とでも言うように、そそくさと退散していく。
「急用」を口実に、みんなくそくらえの逃げ足だ。
広大なホールに残ったのは、アイヒェンヴァルド家の面々と、アマンダ。
そして、遠くの壁際に控える数人の忠実な従者だけ。
タイヴィンはゆっくりと娘の方へ振り返った。
普段は鉄の仮面のような顔。
だが今は、ほんの少し、疲れが滲んでいる。
それでも、その眼光はまるで刃のよう。
鋭く、冷たく、容赦なく。
「さて?」
たった一言。
それだけで、余計なものは全て切り捨てられた。
(この親父、相変わらず無駄がないな……)
ロクサーナの胸で、苛立ちと感嘆がチラリと交錯する。
「言いたいことがあるんだろ、ロクサーナ」
タイヴィンは静かに続けた。
「その舌に絡みついてる言葉、全部吐き出しな」
ロクサーナはニヤリと笑った。
毒の花みたいな、危険で美しい笑み。
彼女はゆっくりと、優雅に、透かし彫りの柱に近づく。
背中を預け、まるで退屈そうに長い髪を指でくるくる巻いた。
「ふーん、ユイったら、ほんとタイミングバッチリよねー」
(あー、めっちゃイラつくわ、この状況!)
ロクサーナの目は、嘲るように細まる。
彼女は一瞬、アマンダの方をチラリと見やった。
金色の彫像みたいに、微動だにしない女。
でも、絶対聞いてるよね?
全部、耳に入ってるよね?
「ねえ、父さん」
ロクサーナは甘く、しかし鋭く切り出した。
「ユイが来たの、別に婚約者を慰めるためじゃないよ」
「あの子、ただ自分の『縄張り』を主張しに来ただけ」
「そう、ほら──」
彼女はあからさまに顎をしゃくった。
視線の先は、もちろんアマンダ。
「この子の目の前で、ね」
ロクサーナの声は、まるで毒を塗った針。
静かに、確実に、刺さる。
(ふふっ、どう? この空気、めっちゃやばいでしょ?)
ロクサーナの心は、悪戯な猫みたいに跳ねていた。
(さあ、アマンダ。どう動く?
このまま金ピカの置物でいるつもり?
それとも、爪、隠してる?)
ロクサーナの視線が、チクリとアマンダの横顔を刺す。
「彼女は婚約者だ。権利がある」
タイヴィンが腕を組み、氷のような声で切り返した。
「この縁談は西部の国境を固め、リンネ家の忠誠を確保する
交易路も、鋼鉄も。数字は知ってるだろ、ロクサーナ」
「はー、数字ね! 大好き!」
ロクサーナは眉を跳ね上げ、唇を歪めた。
「じゃあ、新しい数字を教えてあげるよ。1だよ」
彼女は人差し指を一本、優雅に立てる。
「お兄様があの金ピカ女に投げた視線、1
で、ユイに向けた視線、1」
「その差、計算してみなよ、戦略の天才
父さんの帳簿屋の報告書より、よっぽど雄弁だから」
タイヴィンの眉間に、深い皺が刻まれた。
否定できない。
ランデルの冷たさは、あまりにも明白だった。
あまりにも……個人的な。
「ランデルは戦士だ」
タイヴィンは低く、静かに言い聞かせるように続けた。
「地獄から戻ったばかりだ
頭にあるのは戦い、裏切り、最高の騎士を失った痛みだ
恋だの愛だの、そんな気分じゃない」
「気分じゃない?」
ロクサーナがクスクスと笑う。
静かで、毒々しい、甘い笑い。
「父さん、ほんと盲目だね
そんな簡単な話じゃないよ」
「気分がないんじゃない。興味がないんだ
完全、完璧、ゼロの興味」
彼女は一歩、柱から離れて、ゆっくりと近づいた。
「で、いつからかって?
知りたい?」
言葉を、まるで極上の葡萄酒のように味わうように止める。
沈黙がホールに落ちる。
ロクサーナの瞳が、悪魔のように輝いた。
「お兄様が彼女の話をしたとき
彼女がどう戦ったか
どう輝いてたか
どう『希望を与えた』か」
「そのときの目、見た?
まるで神様じゃなくて、ただの女を見てるみたいだったよ
金と謎に閉ざされてても、ね」
(ふふっ、この空気、最高にやばい!)
ロクサーナの心は、猫がネズミを弄ぶように跳ね上がる。
タイヴィンの視線が、初めてわずかに揺れた。
そして、ゆっくりと――
金色の彫像が、息を吐いた。
アマンダの睫が、かすかに震える。
「……ふっ」
小さな、掠れた笑い声。
初めて、彼女の唇が動いた。
(さあ、どうする、父さん?
このままランデルの心、数字で縛れると思ってる?
それとも、アマンダの謎、ちょっと気になる?)
ロクサーナの視線が、悪魔のように細められる。
タイヴィンはクルリと振り返った。
声は、危険な囁きまで落ちる。
「まさか……我が息子、アイヒェンヴァルド家の後継者が……
その……得体の知れない存在に、感情を抱いているだと?」
ロクサーナは肩をすくめ、唇を歪めた。
「え、めっちゃバレバレじゃん?」
軽やかで、でも容赦ない。
「感謝してるだけじゃないよ
心、奪われちゃってるんだから
ほら、文字通り、比喩的にも、ね」
彼女は顎をしゃくり、ランデルの方を示す。
「今のお兄様、見てよ」
二人の視線が、そっとランデルへと流れる。
彼はまるでこの会話を完全に無視しているかのように。
ただ、アマンダと静かに言葉を交わしていた。
内室の方を指差し、わずかに首を傾げて。
その仕草は、丁寧で、優しくて、どこか懐かしげだ。
戦火を共にくぐり抜けた者同士だけが許す、
深い、親密な気遣い。
(うわっ、この空気、めっちゃやばいんだけど!)
ロクサーナの心は、悪戯な火花をバチバチ散らした。
「無謀だ」
タイヴィンが低く、鋭く吐き捨てる。
「浅はかで、危険な、若気の至りだ
そのうち消える」
「消える?」
ロクサーナはピンと背を伸ばし、目を燃やした。
紅蓮の炎が、瞳の奥で渦を巻く。
「父さん、ほんと状況舐めてるね」
「お兄様が連れてきたの、ただの強い味方じゃないよ
謎そのものだよ」
「で、お兄様はその謎を──
神様みたいに崇めてる」
「ほら、今の目
まるで聖なる炎を見つめる預言者みたいじゃん?」
彼女は一拍、言葉を止めた。
その沈黙を、まるで最高の毒を味わうように楽しむ。
「本当に、消えると思う?」
ロクサーナは静かに、でも確実に踏み出す。
「彼女がこの屋敷に住んで、
同じ空気を吸って、
その力が日々私たちを守るんだよ?」
「お兄様の気持ち、萎むわけない
むしろ、どんどん燃え上がるだけ」
彼女は小さく笑った。
「で、ユイ?
あのバカっぽい笑顔と『癒しの薬草茶』で頑張ってるけどさ」
「アマンダの前じゃ、どんどん惨めに見えるだけだよ」
(ふふっ、ユイ、かわいそー!
でも、これ、めっちゃ面白い展開じゃん?)
ロクサーナの心は、舞台の幕が上がる瞬間のように高鳴る。
(さあ、父さん、どうする?
この火、消せると思ってる?
それとも……アマンダの謎に、ちょっとビビってる?)
タイヴィンは沈黙した。
視線が、息子の顔を彷徨い、
凍りついた金色の姿──守護者アマンダへと戻る。
「……リンネ家との同盟……
婚約の破棄は、侮辱と受け取られる
デ・リンネ公爵は決して許さない
それは戦争だ」
ロクサーナは氷のような笑みを浮かべ、即座に切り返す。
「リンネとの戦争?
それが何?」
「『紅蓮の爪』の部隊を一人で壊滅させた力に比べたらさ」
「この屋敷に、父さん
公国の全軍を霞ませる武器がいるんだよ」
「で、その武器、めっちゃお兄様に懐いてるっぽいね
本当に大事な同盟って、どれだと思う?」
タイヴィンの声に、信じられない色が滲む。
「若造の恋心と、
制御不能な力に、
アイヒェンヴァルドの未来を賭けろと?」
「現実を見ろって言ってるの」
ロクサーナは鋭く、容赦なく突き刺す。
「現実その1:
お兄様がアマンダを見る目、ユイに向けたことないよね」
「現実その2:
その守護者、今、この家の最強の切り札だよ」
「二人の……『絆』」
彼女は嫌悪と嘲りを込めてその言葉を吐き捨てた。
「それに逆らうのは、自分たちの利益に逆らうってこと」
「賢さってさ、古い約束にしがみつくことじゃない
新しい、もっと強い風を見つけて、その風に帆を張ることだよ」
ロクサーナは父に一歩近づく。
声は低く、重く、鉄槌のように響く。
「その風、吹かせてよ、父さん
邪魔しないで」
「いや、むしろ……
その風を、うまく操ってみなよ」
「もし止めようとしたらさ」
彼女は微笑んだ。
完璧な、悪魔の微笑み。
「婚約だけじゃなく、
新しい後継者も壊しちゃうよ」
「それに、私たちの金色の嵐も失う」
「そしたら、敵と向き合うのは
ただの……数字だけだよ」
(ふふっ、ほんと、父さん、詰んだね!
この状況、めっちゃ面白いんだけど!)
ロクサーナの心は、嵐の海を舞う黒い鳥のように高揚していた。
(さあ、どうする?
この風、受け入れる?
それとも、全部ぶっ壊す覚悟?)
タイヴィンは、長い沈黙の後、
初めて息を吐いた。




