35) 「氷の公爵と黄金の影」
ケイル・ワンアイド卿は、片目が抉られた傷痕を誇る戦士だ。アイヒェンヴァルド家への忠誠は、幾多の戦場で鍛え上げられた。彼の残った目は、恐怖と混乱が渦巻く光景を捉えていた。心臓が脈打つ。(ランデル…なぜだ?)
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彼はランデルをよく知っている。肖像画の冷ややかな公爵ではない。生身の、血の通ったランデルを。十四歳の少年の姿が脳裏に焼き付いている。戦術地図を前に、まるで氷のような冷静さで、歴戦の指揮官たちの計画を一瞬で解体した。(あの鋭さ…まるで刃のようだった。)
十六歳のランデルも忘れられない。騎士のトーナメント。湖のように静かな顔で、名だたるチャンピオンを一撃で馬から叩き落とした。汗一つかかず、息さえ乱れなかった。(まるで…人間じゃなかった。)
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ランデルは完璧だった。氷の知性と鋼の肉体。女たち? ああ、彼女たちはまるで軍勢だった。公爵の娘、熱い視線を投げる侍女、鷹のような彼を捕らえようとした冒険者たち。彼女たちは炎に飛び込む蛾のようだった。
彼は…礼儀正しかった。恐ろしく、致命的に礼儀正しい。一夜を共にした美女に、まるで公爵夫人にでもなったかのような気遣いを見せる。だが、朝が来れば平然と彼女を大陸の果てへ送り出した。(涙? ヒステリー? そんなものは彼には無意味だ。)
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ケイルの視線が揺れる。目の前のランデルは…違う。冷酷な公爵の仮面はどこにもない。(これは…何だ?)彼の胸に、かつてない恐怖が広がる。ランデルは動かない。ただ、そこに立つ。まるで世界そのものを裁く神のように。
「ランデル…何故だ?」ケイルの声が震える。
ランデルは答えない。ただ、薄く笑う。その笑みは、ケイルの心を凍てつかせる。(こいつ…本当にランデルなのか?)
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戦場の風が唸る。ケイルの手が剣の柄を握る。だが、指が震える。(動け…動け、ケイル!)彼は知っていた。この男を前に、迷いは死を意味する。
ランデルの瞳が光る。まるで星が燃えるように。「ケイル。」その声は静かで、どこまでも冷たい。「お前も…弱さを選ぶか?」
ケイルの心臓が止まる。(弱さ…だと?)次の瞬間、彼の剣が抜かれる。だが、ランデルの姿は、まるで霧のように揺らめいていた。
ケイルの視線は少年を捉えていた。
この若造を。
魂をむき出しにし、震える声で謎の女に「行かないでくれ」と懇願する少年を。
彼女の手を必死に握る姿。
まるで恋に落ちた従者のようだ。
統治者の計算なんて、微塵もない。
顔を赤らめ、いたずらが見つかった子供のようにつたない言い訳を口にする。
(何……だと?)
ケイルの内心が唸る。
斧の柄を握る手。
指が白くなるほど力がこもる。
(こいつは偽物か? 魔法か?)
彼女は毒を抜いただけじゃない。
少年の理性まで溶かしたのか?
ケイルは見た。
ランデルの視線。
彼女をじっと見つめるその目。
ケイルにとって、彼女は脅威でしかない。
なのに、ランデルの瞳に恐怖はない。
ただ、純粋で、曇りのない――希望だけがあった。
(公爵が何年も押し殺してきたもの……弱さと呼んだその希望が、そこにある!)
ケイルは主のそばに歩み寄る。
ランデルはまだ立っていた。
氷の鎧にひびが入る。
その隙間から、生き生きとした、傷つきやすい――そして恐ろしく脆い何かが覗く。
「閣下……」
ケイルの声は硬い。
ランデルが振り返る。
その目に、疲労と痛み。
そして、ケイルが今まで見たことのないもの。
神と語り、神が答えた人間の、呆然とした驚愕だ。
「彼女が……承諾したんだ、ケイル。」
ランデルの声は囁くよう。
「アイヒェンヴァルドに来てくれる。」
ケイルは唾を飲み込む。
(これは勝利じゃない。罠だ!)
不屈で合理的な公爵。
王国をチェスの駒のように操る男。
なのに、未知の輝きに魅了され、条件も読まずに契約を結んだ。
老戦士の胸に、冷たく重い恐怖が宿る。
魔女への恐怖じゃない。
彼女が主をどう変えるか――その恐怖だ。
奇跡を知った人間は、二度と冷静な計算には戻らない。
公爵領の統治者にとって、奇跡は許されざる贅沢だ。
公爵の言葉が宙に響き、重い沈黙が落ちる。
枝が爆ぜる音。
兵士たちの荒い息遣い。
それだけが、静寂を切り裂く。
謎の女の承諾は、安堵じゃない。
隊列に、ぼんやりとした不安を植え付けた。
彼女の力――戦争や名誉じゃ収まらない力。
彼らはそれを見た。
ランデルが交渉する間、兵士たちは動いていた。
軍曹の号令の下、時間を無駄にしない。
藪を切り開き、生き残った道を整える。
公爵の旅用馬車を準備する。
簡素な馬車。
無駄な装飾はない。
ただ、扉にアイヒェンヴァルドの紋章が刻まれている。
主が生きている。
しかも、この世ならざる力と契約を結んだらしい。
兵士たちは戸惑いに凍りつく。
ランデルは肩の痛みを無視する。
部下たちの驚いた視線も。
背筋を伸ばす。
その動きに、奇妙な荘厳さが宿る。
新しい何か。
彼は金色の姿に向き直る。
頭を下げる。
対等な者じゃない。
臣下が主君に手を差し出すように。
彼女に手を差し伸べる。
「どうぞ、お許しを。」
声は柔らかい。
だが、反論を許さない響き。
兜に隠れたアマンダ。
一瞬、動きが止まる。
この仕草――あまりにも人間的だ。
あまりにも……世俗的だ。
だが、彼女は無言。
籠手のついた手を、彼の手の上に置く。
触れ合いは軽い。
ほとんど重さがない。
なのに、ランデルは感じる。
薄い金属の下。
かすかな、だが確かな震え。
彼は慎重に動く。
まるで神殿の聖遺物を導くように。
彼女を馬車へとエスコートする。
兵士たちが道を空ける。
生きている回廊が形作られる。
彼らの顔――泥と疲労。
そして、純粋な驚愕の仮面。
「アイヒェンヴァルドの氷」。
揺るぎない公爵が、古代の冷酷な力を放つ女を連れている。
囁き声はない。
重く、敬意に満ちた沈黙だけ。
(まるで森そのものが命を得て歩き出したようだ……!)
信じがたい光景。
ランデルは馬車の扉を開ける。
自らの手で。
アマンダがステップに上がる。
彼が手助けする。
黄金の鎧が、馬車内の薄暗さで一瞬輝く。
扉が閉まる。
彼女を外界から遮断する。
ランデルが振り返る。
その時、初めて。
視線は硬い。
命令を下す者のもの。
「ケイル卿、前衛を率いろ。残りは馬車の周囲を円形に固めろ。休憩なし。質問もなし。」
声が響く。
「中の者は私の個人的な保護下にある。アイヒェンヴァルド家の庇護を受ける。彼女の安全が最優先だ。分かったな?」
「了解、閣下!」
兵士たちの声が一斉に上がる。
規律ある叫び。
恐怖を一瞬、押し潰す。
公爵は頷く。
馬車に乗り込む。
扉がバタンと閉まる。
騎兵の輪に囲まれた馬車。
ぬかるんだ道をきしませながら進む。
その腹に、森がかつて見たことのない――
最も危険な秘密を運んで。
崖の上。
苔と樹皮の色のマント。
男は身を隠し、しゃがんだまま動かない。
蛇のような目。
細く、冷たい。
一切を見逃さず捉える。
「紅蓮の爪」の壊滅。
金色の姿の出現。
理解を超えた力。
そして――アイヒェンヴァルド公爵。
どんな理屈にも反して、生きている。
無傷だ。
馬車に、あの……異常な存在と共に去っていく。
男は見た。
彼女が馬車に乗り込む瞬間。
兵士たちの目に宿る敬意。
公爵の傷が手当てされている姿。
ゆっくり。
音一つ立てず。
男は崖の縁から退く。
森の奥へ、這うように。
(ここでの仕事は終わりだ。)
帝国にいる主たち。
信じがたい報告が待っている。
衝撃的な報告。
ランデル抹殺の計画――失敗。
裏切りでも軍略でもない。
存在すら許されない力の介入。
男は現れた時と同じく、音もなく消える。
森の影に。
残るのは、葉のざわめき。
嵐の予感に満ちた、不気味な静寂。
帝国は知るだろう。
「黄金の守護者」を。
そして、ゲームは――永遠に変わる。
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