34)「触れた禁忌の瞬間」
痛みが彼を貫いた。
鋭く、容赦ない。
肘をつこうとした瞬間、身体が悲鳴を上げる。
アドレナリンが引いていく。
まるで壊れた人形。
ランデル・フォン・アイヒェンヴァルト――
大陸でも指折りの名門貴族の血を引く男。
よろめき、膝をつく。
視界が揺れる。
もう限界だった。
(普通の人間なら、とっくに出血多量か毒で死んでる…)
(彼女は誰だ?)
幽霊か?
天から降りた神か?
(それとも…俺はもう死んでる? これ、死にゆく幻か?)
だが、爪の下の冷たい泥。
焦げた匂いとオゾンの刺激。
凍えるような寒さ。
すべてが、あまりにも現実。
そして、彼女も――現実だった。
痛みに霞む視線。
黄金の姿に落ちる。
その時、彼は気づいた。
何か、おかしい。
彼女は一歩退き、さりげなく焦げた木の幹に手を置く。
鎧に覆われた肩。
不規則に上下している。
(さっきまで天から炎を呼び、敵を屠っていた彼女が…)
今、疲れているように見えた。
「お、お元気ですか……お嬢様?」
声は掠れ、自信なさげ。
命令することに慣れた男。
今は、気遣いを求めるように問いかける。
黄金の兜が、鋭く彼の方を向く。
見えない視線。
まるで一撃のように突き刺さる。
(何年ぶりだ…?)
少年時代、怒り狂った公爵の父の前。
あの時以来、初めて感じる――
動物的な、原始的な恐怖。
(俺は虫けらだ。塵だ。彼女の意志一つで、跡形もなく消される…)
「自分の心配でもしてなさい。」
兜の下から響く声。
冷たく、鋭い。
それでも、ほのかに緊張が滲む。
「横になりなさい。」
彼には意味がわからなかった。
「え、なんですって?」
彼女は一歩近づいた。
動きは無音で、優雅。
だが、今、ランデルには見えた。
(彼女も…努力している。)
「横になりなさい、と言ったわ。」
彼女の声が響く。
「さもないと、傭兵たちと一緒に逝きたいの、貴族様?」
冷たく、だがどこか揶揄うような調子。
「傷を処理してあげる。」
ランデルは凍りついた。
(この女神のような存在…力そのものの彼女が…助けを?)
まるで床屋か村の薬草師。
逆らう気力は、もうない。
呻き声を抑え、ゆっくり背を濡れた落ち葉に預ける。
彼女が隣に膝をつく。
黄金の篭手が、腰のあたりで宙をなぞる。
すると――
どこからともなく、薬草の香りのする布袋。
文字通り、虚空から現れる。
ランデルは魅せられたように見つめた。
彼女の指は器用。
自信に満ち、頭の傷を丁寧に洗う。
焼けるような痛みが走る。
「あなた、信じられないほど運がいいわ。」
彼女の声、淡々と。
まるで講義でもするような調子。
「『紅の爪』の刃には神経麻痺の毒『墓守の囁き』が塗られている。12秒で死ぬ毒よ。」
「まだ息をしているなんて、驚くべきことに。」
ランデルは弱々しく笑った。
意識が再び霞む。
今度は痛みではなく、疲労。
「子供の頃から……」
彼は囁く。
「父が……食事に微量の毒を……混ぜていたんだ……」
「有名な毒を、な……統治者は……敵の好きな武器に……耐えなきゃいけないって……」
「それが……効いたみたいだ……」
彼女の手が、一瞬、止まる。
(驚きか? 感心か?)
兜に隠れた顔は見えない。
彼女は黙々と、素早く、効率的に。
肩の傷――矢が刺さっていた場所――にたどり着く。
包帯を巻き始める。
ランデルは力を振り絞り、口を開いた。
声は小さく、だが心から。
「ありがとう……お嬢様……」
「命を……助けてくれて……」
黄金の兜が再び彼を向いた。
まるで魂の奥まで見透かす視線。
「私はあなたの『お嬢様』じゃない、貴族様。」
彼女の言葉に怒りはない。
ただ、絶対的な終止符のような響き。
「誰の『お嬢様』でもない。命の借りもない。」
「借りがあるのは、未来に対してよ。無駄にしないで。」
処置を終え、彼女は立ち上がった。
鎧を軽く払う。
まるで何もなかったかのよう。
その姿、再び揺るぎない。
輝き、遠い存在に戻る。
「自分のところまで戻れる?」
彼女の声に、鋼のような鋭さ。
ランデルは頷く。
よろめきながら、立ち上がる。
ボロボロだった。
だが、生きている。
最初の衝撃から立ち直った頭。
すでに猛烈に動き始める。
(彼女は誰だ? 何が目的だ? なぜ助けた?)
「なら、行きなさい。」
彼女は手を振る。
暗殺者たちが来たのとは逆の方向を示す。
「覚えておきなさい、ランデル・フォン・アイヒェンヴァルト。」
「あなたの戦争はこれからだ。」
「そして、今、あなたには借りがある。私に対してじゃない。この世界に対して。」
だが、彼は動かなかった。
それどころか、一歩踏み出す。
弱さで震える手が、本能的に伸びる。
彼女の黄金の篭手で覆われた手首を、掴んだ。
「待ってください!」
「せめて……救ってくれたあなたの名前を。なぜ、俺を……?」
指の下の感触。
意外にも……温かい。
生きている。
彼の軽い接触が、彼女の全身を一瞬、震わせた。
ほんの一瞬。
素早く、ほとんど捉えられない吐息。
彼女の手は止まった。
だが、振りほどかない。
(彼女の輝きが、一瞬だけ翳った…?)
「名前なんて、ただのレッテルよ。縛るだけ。」
彼女の声、静か。
さっきまでの無機質な力強さが、消えている。
「『なぜ』? ……あなたがいない世界は、ちょっと退屈だから。」
その瞬間、森が騒音で爆発した。
甲冑の軋み。
剣が抜かれる金属音。
木々の間から、青と銀のマントを翻す兵士の一団。
怒涛のように現れる――
アイヒェンヴァルト公国の色だ!
先頭には、左目に黒い眼帯をつけた巨漢の騎士。
突進してくる。
顔は怒りと恐怖で歪む。
「魔女め! 我が主に触れるな!」
咆哮。
巨大な戦斧を振り上げる。
部下たちが瞬時に二人を囲む。
槍を構え、威嚇。
(間に合った…!)
アマンダには分かっていた。
『クロニクル』では、サー・カエルの部隊は数分遅れる。
主の矢だらけの亡魂しか、見つけられない。
だが今、彼女のおかげで――
彼らは間に合ったのだ。
だが、今、槍も斧も彼女に向けられていた。
アマンダが反応する――
消えるか、力で応じるか――
その前に、ランデルが動いた。
傷を忘れたように飛び出す。
彼女を庇うように、立ちはだかる。
「武器を下ろせ! 今すぐだ!」
掠れた声。
だが、揺るぎない権威が響く。
森を震わせる。
「この女性は『紅の爪』の部隊を相手に、俺の命を救ったばかりだ!」
「武器を下ろせ、これは命令だ!」
兵士たちは戸惑う。
凍りついた。
生還した、傷だらけの公爵。
その背後の、謎めいた黄金の姿。
全員、を見つめる。
サー・カエルは、片目を見開く。
ゆっくり、斧を下ろす。
「閣下……しかし、彼女は……」
憎しみを込めて、アマンダを睨む。
「彼女は俺の救い主だ。」
ランデルの視線、鋭く切り込む。
老騎士は思わず頭を下げる。
「カエル、お前は今、俺が命を預けた相手に斧を向けた。」
「謝罪しろ。今すぐだ。」
巨漢の騎士、恥と困惑で顔を真っ赤に。
一歩進み出て、頭を下げる。
「……申し訳ありません、lady。」
「俺は……知らなかった。ただ、見えたのは……」
言葉に詰まり、口を閉じる。
アマンダはゆっくり視線を動かす。
カエルから、ランデルへ。
彼の瞳に、戸惑い。
だが、彼女を守る揺るぎない決意も宿る。
(面白い展開だ。)
「その忠誠心、立派よ、騎士。」
彼女がついに口を開く。
声に、再び冷たく、遠い力が宿る。
ランデルの方を向く。
「忠実な者たちに囲まれているわ、貴族様。」
「大切になさい。彼らがこれからのあなたの盾よ。」
言葉を終える。
彼女は林の縁へ一歩踏み出す。
黄金の姿、すでに輪郭を失う。
夕闇に溶け始める。
肩越しに、軽く手を振る――
別れの、冷淡で、決定的な仕草。
その瞬間、ランデルの胸で何かが弾けた。
礼儀の掟。
何年も鍛えた衝動の抑制。
すべて、一つの確信に押し潰される。
(このままじゃ、彼女にもう二度と会えない!)
無礼を承知で、必死に。
彼は前に飛び出す。
彼女の手を掴む。
手首の少し上、黄金の鎧の細い隙間を。
彼女は凍りついた。
振りほどかない。
だが、一瞬前まで神聖な力を体現していた身体。
震えた。
怒りの震えではない。
もっと……深い、個人的な衝撃。
(永遠に感じていなかった何かに、触れられた…?)
「待ってください!」
彼の声、掠れ、ほとんど懇願。
アイヒェンヴァルトの公爵が、懇願する。
「あなたは……蜃気楼のようにはじけて消える。」
「名前も残さず、顔すら見せてくれず……」
「ただ命を、俺の家の未来を返してくれた人の顔を!」
彼は彼女の手を離す。
自分の無礼を悟り、一歩下がる。
深く、礼儀正しく頭を下げる。
「あなたは『お嬢様』ではないとおっしゃる。理解しました。」
「あなたの力は……称号を超えている。」
「だが、俺にとってあなたは救い主であり、恩人だ。」
「もし今、あなたを夜の闇に去らせ、せめてパンと塩、屋根の下の休息すら差し出さなかったら――」
「俺は貴族の名も恥じる最後の愚か者になる。」
彼は背を伸ばす。
弱った瞳に、誠実な炎を宿す。
「アイヒェンヴァルトの城はあなたに開かれている。」
「公爵としてではなく、すべてを負う人間としてお願いする。」
「この名誉を俺に与えてくれ。せめて、感謝をさせてくれ。」
彼女はゆっくり振り返った。
無表情な兜。
その不気味な不透視性、恐ろしい。
秒が秒を追い、緊張で空気が震える。
兵士たちは息を潜める。
動くことすら、恐れる。
やっと彼女が口を開いた。
声は静かで、別物だった――
響きも力も消え、ほとんど囁き。
どこか壊れそうな、脆さ。
「私は……触れられるのが好きじゃない。」
その言葉、怒りではない。
奇妙で、剥き出しの弱さ。
どんな力の誇示よりも、ランデルを強く打ちのめす。
(神の声じゃない……人の声だ。)
「申し訳ありません。」
彼は即座に吐き出す。
頬が恥ずかしさで赤く染まる。
「あれは……許されざる無礼でした。」
「感情に流されて理性を失った。」
「どうか、俺の厚かましさを許してください。」
彼は怒りを覚悟した。
あるいは、彼女が消えるのを。
だが、彼女は黙り、彼をじっと見つめる。
まるで、見えない天秤で何かを量るように。
「自分の領地に……私を招く?」
彼女の声、軽い。
ほとんど皮肉めいた響き。
再び「あなた」ではなく「君」に戻る。
距離を消す。
「死を免れたばかりで、立っているのもやっとの領主が、理解できない力を家に招く?」
「それは……史上最大の愚行か、または……」
彼女は一瞬、言葉を切る。
「……私が久しく見なかった勇気。」
ランデルは目を逸らさない。
「愚行と呼ぶなら、それでもいい。」
「だが、これは名誉の務めだ。そして……」
彼は思い切って、無表情な兜を直視する。
「……好奇心だ。今日、俺の知る世界はひっくり返った。」
「その変化の元を、ただ去らせるわけにはいかない。」
また、沈黙。
やがて、彼女はゆっくり、まるで重さのないように頷く。
「いいわ。行く。」
もし少しでも「続きが気になる」と思ってもらえたら、
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