33)「仲間を失い、森で出会ったのは――神だった。」
ゴドフリーの背中に、「紅の爪」のダガーが突き刺さる。
鮮血が刃を染める。
一瞬、彼の目がランドルを捉えた。
その視線は、許しでも悲しみでもない。
燃えるような命令だった。
(生きろ、閣下!)
「逃げろ、閣下!」
ゴドフリーの咆哮が荒野に響く。
鋼の巨体が膝をつく。
その瞬間、彼は暗殺者たちの前に立ちはだかる盾となった。
ランドルの胸に、冷たい怒りが溢れる。
(逃げる? そんなわけない!)
剣が唸りを上げ、血の弧を描く。
一人、また一人、敵を薙ぎ倒す。
(ここで死ぬ! ゴドフリーのそばで!)
だが、自然がランドルを裏切った。
空が裂ける。
神の怒りのような稲妻が、巨大な松に炸裂。
轟音が戦場の喧騒を飲み込む。
巨木が倒れ、暗殺者とゴドフリーを隔てる壁となる。
折れた枝と針葉が、ランドルの「務め」を阻んだ。
「ゴドフリー…!」
ランドルの声は、壊れた囁きだった。
滝のような雨が顔を叩く。
熱く、しょっぱい何かが混ざる。
(俺は…独りだ。)
本能が支配した。
ランドルは一気に駆け出した。
深い森へ。泥と闇の中へ。
背後から追っ手の叫び声。
矢が肩に突き刺さる。
体が前のめりに弾かれた。
痛みはない。
アドレナリンと、すべてを飲み込む虚無だけ。
足元の石が滑り、斜面の下へ投げ出す。
頭が岩に激突。
世界が揺らいだ。
走った。
公爵でも、司令官でもない。
傷ついた獣として。追い詰められた獲物として。
かつての領地の森は、今や死の迷宮だ。
枝が顔を切り裂く。
根が足を絡め取る。
つまずき、倒れ、這い上がり、また走った。
血の跡を残しながら。
息は耳の中で、荒々しい笛の音に変わる。
ついに力尽きた。
古い樫の木に寄りかかる。
胸が激しく上下する。
肩の矢。
頭の傷から血が流れ、片目を覆う。
剣の柄を握ろうとした。
指が、動かない。
影から現れた。
音もなく。
「紅の爪」。五人。
急ぐ様子はない。
(獲物はもう、罠の中だ。)
ランドルはゆっくり身を起こした。
木から離れ、背筋を伸ばす。
痛みも、疲れも、怒りも消えた。
残ったのは、氷のような静けさ。
近づく暗殺者たちを見据える。
唇に笑みが浮かんだ。
陽気でも、嘲りでもない。
義務を果たしきった戦士の笑み。
避けられぬ運命を、恐れなく見つめる者の笑み。
彼らのリーダー。
顔の代わりに無機質な鉄の仮面。
長身の男が、ゆっくり近づく。
二歩手前で立ち止まる。
冷たく、魂のない視線。
ランドルを値踏みする。
(まるで、珍しい標本だ。)
男は細身の剣を抜いた。
一撃で命を奪う、研ぎ澄まされた刃。
空気が凍りついた。
雨が降り続き、葉の上で葬送曲を刻む。
暗殺者が剣を構える。
狙いは、心臓。
ランドルは視線を外さない。
唇の笑みが、広がる。
そこには彼の人生すべてがあった。
誇り高く、燃えるように激しく。
運命に抗う姿。
剣が動き始めた。
刹那――
樫の木の頂上から、声が響く。
静かで、落ち着いた女の声。
「ふむ。どうやら、一番面白い場面に遅れちゃったみたいね。」
ランドルは死を覚悟していた。
その瞬間、声が響いた。
柔らかく、だが絶対の威厳。
雨の喧騒を切り裂く、水晶の鐘のよう。
痛みと終焉の覚悟で曇った視線。
思わず、上へ跳ねる。
古い樫の太い枝の上。
そこに、彼女がいた。
その鎧は、ランドルの知るどれとも違う。
鉄でも鋼でもない。
液体の陽光を型に流し、彼女の身体に寄り添うよう。
黄金色、だが派手ではない。
夜明けの最初の光のような、深い輝き。
鎧のプレートは、幻の昆虫の甲殻のよう。
彼女が動くたび、森の薄暗い光を吸い込み、きらめく。
兜は一枚岩。
隙間も目もない。
無垢な神の顔そのもの。
彼女の全身から、人のものではない、古老の力が漂う。
暗殺者たちが一歩退いた。
鍛え抜かれた規律が揺らぐ。
鉄仮面のリーダーが鋭く手を上げ、部下を制す。
彼女は軽やかに枝から飛び降りた。
羽のよう。
黄金のブーツが、濡れた地面に音もなく触れる。
見えない視線で、一同を見渡す。
「私の森で、好き勝手な蛮行と卑劣な殺戮を…」
声は穏やか。
だが、一語一語が鉄の重しのように落ちる。
「我はこれなる古樹の守護者。この地に高貴な血が流れるのを、決して許さぬ。」
彼女は「紅の爪」のリーダーに向き直った。
「穢れし者。お前の命は、ここで終わる。」
彼女は手を振った。
優雅に、まるで気まぐれのように。
光も、音も、何もなかった。
重い静寂。
永遠にも感じる一瞬。
暗殺者のリーダーは、微動だにせず。
そして、音もなく、糸が切れた人形のよう。
崩れ落ちる。
鉄の仮面の下から、濡れた落ち葉の上へ。
暗い血溜まりが、ゆっくり広がる。
傷は見えない。
抵抗もない。
ただ、命が…消えた。
「何…?」
ランドルは呟いた。
自身の傷も忘れ、呆然と。
(魔術師…? だが…ありえない…!)
戦略と鋼に鍛えられた理性が、受け入れるのを拒む。
(帝国の魔術は粗野だ。呪文も、仕草も必要…こんな力は、現代にはほとんど残っていない…!)
残る四人の暗殺者。
死んだリーダーを前に、一瞬硬直。
だが、長年の訓練が本能を呼び覚ます。
獣のような唸り。
四方から、彼女へ飛びかかる。
刃は鎧の隙間を、首を、背中を狙う。
どんな人間も逃れられない、完璧な死の舞踏。
だが、黄金の姿は微塵も動かない。
彼女は、ただ二度、手を振った。
迅く、正確に。
一振り目――
右から迫る暗殺者が、彼女に届く寸前。
不自然な角度に折れる。
まるで透明な巨人に叩き潰されたかのよう。
二振り目――
互いに向かい合って突進していた二人。
空中で激突。
乾いた枝が折れるような、骨の音。
二人とも、息絶えて倒れた。
最後の暗殺者が背後から迫った。
短剣を振り上げた瞬間――
守護者が両手を天に掲げた。
掌を上にして。
世界が燃えた。
白と金の炎の柱。
彼女を中心に、垂れ込めた雲へと突き上げる。
一瞬、森全体が昼よりも明るく輝く。
灼熱はすべてを焼き尽くす勢い。
だが、刹那で消えた。
炎が消えた場所。
濃い灰だけが残る。
ゆっくり、地面に舞い落ちる。
空気にはオゾンの匂い。
最後の暗殺者は消えていた。
まるで、初めから存在しなかったかのよう。
静寂。
雨の囁き。
冷えゆく空気の、微かな軋み。
ランドルは木にもたれ、動けない。
頭は空っぽ。
(恐怖か? 感謝か? 畏怖か?)
感情は絡まり合い、理解を超えた塊。
彼は黄金の姿を見つめる。
彼女がこちらを向く。
無垢な兜に、感情の欠片も映らない。
彼は独りだった。
傷つき、血を流すアイヒェンヴァルトの後継者。
この、天地の理すら嘲る存在と、二人きり。
(何が恐ろしい?)
暗殺者の短剣による死か。
それとも、この「守護者」がもたらす何かか。
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