3) «覚醒 —アマンダの身体で—»
意識が戻った。
そこに光はなかった。ただ、闇が消えている。
頭を鈍く殴られるような痛み。こめかみで脈打つ。聞き慣れない速すぎる鼓動と重なる。
(……っ)
ライトは、ゆっくりと目を開けた。
まぶしい光はない。トンネルもない。
誰にも内緒で想像していた、死後の世界の景色とは、何一つとして一致しない。
見上げれば、低い天井。荒削りで黒ずんだ梁が組まれている。
煙と草の匂い。それに、どこかミルクのような甘い臭いが混ざった空気。
硬い寝床に横たわり、見知らぬ獣の毛皮に包まれている。
「ここは……? 病院……?」
思考は鈍く、遅れていた。
震える手を上げ、こめかみを押さえようとして――ライトは固まった。
(……軽い。細い……)
その手は、明らかに軽すぎた。細すぎた。
そして肌は、不自然なほど青白く、すべすべしていた――
胸の中で、心臓が狂ったように暴れだす。
もはや自分のものではない鼓動。
耳をつんざく恐慌の音と同期する。
ゴクリと唾を飲む。
必死で体を起こした。
視線をもう一方の手へ落とす――そこには、長く繊細な指。か弱い手首。
「違う……」
「これは、夢じゃない……」
夢に、ここまでの匂いはない。
バッと、寝床から足を振り下ろす。
軽い。どこかよそよそしい感覚。
何年も剣道を続けてきた己の体は、確かに重く、逞しかった。
なのに、これは……まるで、よそ者の、少女の体だ。
視線が部屋の隅を捉える。
粗末な木製の机。
そこに、この中世的な風景に明らかにそぐわない一品が置かれていた。
――銀縁の小さな鏡。
ライトは震える足を引きずりながら、そこへと歩み寄る。
そして、ゆっくりと覗き込んだ。
――その日、二度目の世界の崩壊が、彼を襲う。
鏡に映っていたのは、見知らぬ少女だった。
熟した小麦のように黄金に輝く髪が、肩にかかっている。
小さな顔。高い頬骨。
そして、その瞳は……
……熟した桜桃の色。
高級ルビーのように鮮やかな深紅。
その赤い目には、紛れもない、動物的な恐怖が焼き付いていた。
(自分の体じゃない……これは、いったい……!)
彼は無言で口を開けた。
鏡の中の少女も、同じように口を開ける。
信じられないという様に、ゆっくりと――あの細い手を自分の顔に近づける。
鏡の少女も、まったく同じ動きをした。
「ありえない……」
……言おうとした。しかし、その唇から零れたのは、か細くも心地よいささやき声だけだった。
「妄想だ……昏睡。幻覚……」
――卒論を堂々と守り抜いた、あの鋭く分析的な理性が、狂ったように働き始める。
檻の中の鳥のように、頭蓋骨の内壁を跳ね回る思考。
(バス。衝撃。痛み。闇。目覚めたら――ここに。女の体で……)
ドン、ドン
突然、ドアがノックされた。
「アマンダ? 娘よ、目を覚ましたのかい?」
老女の声が、不安と期待に震えながら聞こえてくる。
(……アマンダ?)
彼が対応を考えつく間もなく、ドアはきしみながら開いた。
そこに立っていたのは、簡素なドレスを着た白髪の老女だった。
皺の刻まれた顔に、涙が光っている。
彼女はためらうことなく、彼――アマンダへと走り寄った。
そして、しっかりと抱きしめる。
(……っ!?)
見知らぬ老女の体温。その強すぎる抱擁に、ライトは息を呑んだ。
ライトは硬直した。
(……現実だ)
老女の抱擁は温かい。疑いようのない現実だった。
粗末なドレスの生地の感触。そして、彼女から漂う、焼きたてのパンのような優しい匂い。
「もう目を覚まさないのかと……この子よ」
彼女は泣きじゃくりながら、ライトの頭を自分の肩に押し当てる。
「三日も熱が下がらなかったんだ。私は……全能の神々に祈り続けたの……」
老女の声は震えていた。
「もう、お願いだ……これ以上、この年老いた母を怖がらせないで。この心臓が持たない……」
《……母?》
《アマンダ……?》
パズルのピースが、頭の中で不気味な音を立ててはまり始める。
恐ろしい。しかし、これしかありえない――唯一の結論へと収斂していく。
(バス。事故。死。そして……)
《転生》――。
東京で破壊された肉体を脱ぎ捨て。
彼の魂――《自分》という存在は、なぜかこの体に引きずり込まれた。
この少女、“アマンダ”という娘の体へ。
おそらくは、あの高熱で死んだ彼女の、まだ温かい亡骸へ。
ライトは漫画や小説の常連読者として、この展開を熟知していた。
《異世界転生》。
しかし、読むのと、実際に体験するのとには天地の差があった。
(……この体が、俺なのか?)
見知らぬ少女の体で目覚め、他人の肌の感覚を感じ、他人の心臓の鼓動を聞く――その現実が腑に落ちた瞬間、彼は床に嘔吐した。
「あっ!」
女――《新しい母》は悲鳴を上げた。
慌てて布で彼の顔と床を拭きながら、嘆き、そして彼の黄金の髪をなでる。
ライトは抵抗しなかった。
アマンダの体で、冷たい床に座り、虚空を見つめるだけだ。
(検事。キャリア。母。ユキ……)
(最高のドレスを着て、待っていた……ミカサ。)
すべてが、ただ遠いだけではない。
もう、別の人生だ。別世界だ。
(ヤマダ・ライトは死んだ。)
そして今、生き延びなければならない。
この体で。この世界で。
自分に属さない名前を冠して。
彼はゆっくりと、新しくて繊細な、女の手を持ち上げ、それらをじっと見つめた。
「いっ……一体……」
声は震え、か細い。
「何が起こっているんだ?」
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